「ギターと私」
  松田晃演の
    エッセイ集

 
       

音の神秘
   ギターを科学する

 

2017年

(第208回)大音響付記 (2017/10/8)

 ユーチュウブに載せるのも一つの大音響志向である。ある演奏をユーチューブに載せたとするとその演奏を全世界に大音響で響き渡らせる事に成る事を心にとめているべきです。小さい音量でも世界中に聞こえると言う事です。

(第207回)音楽における大音響 (2017/9/25-29日少々改変)

 大音響の音楽を求めたのは、アンプ(音響を拡大する装置)が発明される前で、その後は何処までも音量は拡大させる事が出来る事がわかり、大きな音が出せる事は大して価値がなくなった。音がある程度大きくて長時間続く音楽はダンス音楽等で必要である。
 この事は必要ならば囲碁、将棋がどこまでも人間の思考能力を果てしなく超えて行く現実と同じで、音量も必要ならば人間の能力を果てしなく恐ろしい程どこまでも超えて行く事が出来る。
 実状を言えば、ギタリストはその音楽性以前に音量の不足の為に大きなハンディキャップを背負わされてきた。ギターの演奏家も音響効果の最も優れているとされるコンサートホール(たいていは大きい)で名手が演奏、名演奏をしても、聴衆に聴こえなかったとしたら意味が無い。
 ギターの製作家達も音量がギターを製作する時の最大の目標であると錯覚しそれを制約として先入観として背負っている。音量と音色との板挟み−ジレンマである。ギター音楽の最大の長所、それは音色であるにも拘らず、音色の事は二の次にして、音楽的表現力の良否が問われなくなって来ている。ヘタクソな音楽がその楽器から大きな音で出て来るとしたらどうするのですか?鶯に大声で唄わせてその美しさを求めずに、声の大きさのみを求める人間の愚かさよ。
 ここから派生するギター音楽の未来への考察。
 ピアノはピアノフォルテと言う正式名のごとく大きな音を出す事が出来る。ピアノはそれまでのリュートやハープシコードのような繊細な音色と音量の、細々として小さい音量の楽器から器楽世界の王座を奪った。
 ギターはその奏でる音楽を正しく聴くのに最も適した音量で、その音楽に適したホールで演奏すればそのかなでる音楽を楽しむ事が出来る。であるから正常なギタリストは芸術的音楽を聴く会場、つまり少人数の聴衆に囲まれてコンサートを開く時代に戻って来ているのであると思い至らなければ成らない。ピアノとオーケストラ達に完全にスポイルされてしまっている我々ギタリストは激しく強く反省すべき時に来ている。(この段、少々改変)
 ガンガンと大音響で警鐘を打ち鳴らさなければ成らない。
以上

 

1年半振りにご投稿を頂きました。投稿欄はここから!

(第206回)SPレコードのCD化 (2017/9/16)

 面白い事に気が付いた。
 僕がギターに興味を持つ事になって以来、SP(スタンダード・プレイ)盤で聴いていたミゲール・リョベートは、ギターとはこんなに好い音、魅力的な音がするものだと言う見本のような音を出して居ました。この世で聴く事が出来た最高の美しい音(若い私の判断で)がギターから出ていました。トーレス伝説はこのミゲール・リョベートのSP盤によるところが大きい。
 先日、ミゲール・リョベートの復刻版(CD)を頂いて聴いた所、もう二度と聴く気がしない、聴きたくないというくらいに酷い音がしていました。
 最近SPのダビングについて、ダビングとはプレイヤーを通さないのが最善なのだと言う誤った先入観でもって僕を説得しようとしていた人がいた事もあります。わたしはそれに抵抗すべく自分の持っているヴィクターのヴィクトローラという蓄音機を思い出していた。そしてその蓄音機の出す美しい音を、最良のマイクロフォンと録音機器で録音してCD化すればどんなに好い音になるだろうと考えます。
 その時僕が考えた、相手を説得する為の論理は「名人である演奏家が、録音機の前で演奏した音を、その音に最も近いまたはそれを凌駕するような音を出そうと、お金と時間に飽かして当時の技術者が作製したのが当時名器とされたヴィクター社のヴィクトローラとか又はクレデンザでした。その原点を皆様は忘れておられる。針が拾った音を長い管(ラッパの様な管)を通って出て来てこそ、それは名手が自分のそば(家庭=世界の果てまでも)にきて美しい音で音楽を奏でてくださるのと同等の価値があるのだ」と。ラッパを通さない針からそのままの音は骸骨の様な音である事を僕はミゲール・リョベートの復刻を聴いてわかった。
 SPはマイクロフォンとか録音機器、が存在しない時代の話です。
 追記―わたしが昔若い頃、好いステレオ装置を使って私自身の演奏しているLPレコードを友達と聴いていた。わたしはその好いステレオ装置を止めて同じ曲目を私のギターで弾いてみた。さて結果は?わたしの生の音楽の勝ちでした。
 面白い事に気が付きました。NO.2
 SPレコードの時代にはレコードコンサートがよく開催されていました。
理由は、
1.  LPレコードは未だ発明されていなかった。
2. コピーは出来ない。コピー器もなかった。
3. SPレコード盤は簡単に買えない位高かった。
4. 放送と言っても音源と言えばラジオのみで、聴きたい音楽が簡単には聞けなかった。そこでクラシックの名曲をSPレコードで聴かせる音楽喫茶が流行っていた。店主がレコードの解説をする事もあるし、専門の音楽評論家が来て音楽、音楽家、作曲家、作品の由来などその方の得意な話をされる事もあった。
 今ではその頃の事を想像する事すら出来る人はいません。
 この間GOOD演奏とは?クラシック音楽とは?と聞かれて考えていましたら100回聴け!という言葉が浮かびました。100回聴いて飽きなかったらそれは名演であり、名曲でありクラシック音楽です。いまでは1枚のCDで4、50分聴けるのですが出来るならば1曲だけを何度も聴ける様にリピートが掛けられるといいですね。
 SPレコードの時代(百年ちょっと前)では1枚に片面1曲しか録音されていませんでした。1曲聞くごとに立ち上がって蓄音機の前に行き、針を変えて蓄音機のゼンマイをぐるぐると手回しで巻き、ピックアップを初めに戻し、少ししか持っていない盤を100回も200回も聴く事はザラに有る事でした。100と言う回数は、1日3回聞いて1カ月で90回ですので驚く程の回数ではありません。良い演奏であれば1回聴くともう一度聴きたくなり、それが100回位まで続く。悪い演奏であれば1回で終わりです。
 SPレコードが発明され普及する前はどうであったか???そう、名手の演奏を生で(liveです)何処か(ホール、個人宅等)で聞く事が出来たとしても1回限りです。このチャンスを逃したらもう永遠に聴けないとの覚悟をした上で聴かせてもらう。

(第205回)アルベニスのセヴィーリャ(2017/9/14)

 アルベニスのセヴィーリャはセゴビア篇「Andre´s Segovia Transcripciones」という分厚い曲集の第1曲に堂々と出版されている。
過日その楽譜によって弾いていると言う弟子の演奏を聴いて驚き、楽譜を見せて貰ったところ、私がセゴビア先生に直接習った楽譜とは似ても似つかない楽譜であった。可哀想な弟子は誠心誠意練習しているが、これでは曲にならないしギター音楽として弾けないと、私は私が演奏して記憶している楽譜を紙に書き出し初めている。
 全く不思議なのは、セゴビア先生の演奏がユーチューブに出ているのでそれを採譜して書き出したのがこの売られている楽譜であって、その演奏は私が先生に習った時期とほとんど一致している。その出版物の前書きには2001年1月となっている。私が習ったのは東京の帝国ホテル、1982年であり、楽譜には1979年ホワイトハウスの演奏から採譜したものであると書いてある。
 ただ言えるのは売られている楽譜では、私の考えて私が弾いて居る音楽になって来ないという事である。つまり私がセゴビア先生に直接習った音楽の楽譜ではないと言える。
 印刷され売られている楽譜は疑う事無く信頼されてしまう。その楽譜にとらわれる事無く、聴こえて来る演奏ないしは以前に聴いて耳に残っていて信じている音楽を思い出して勉強して行くべきである。
 (註)この曲はこのHP(top Page)の画像をクリックするとその一部を聴いて頂けます。

(第204回)火花=花火 (2017/9/8)

 お笑い芸人の心意気が書かれている。芥川賞!
 芸術家を目指す人は見習うべきか?
 ギタリストはどうか?
 Devoted Guitaristとわたしは外国で言われていた。わたしはそうでないと大成しないと思っている。ギターを生業としようとしてギター界に入ってくる人は多いが、大成する人あまり多くない。ギター演奏を生業として生涯を全う出来る人もすくない。悲しい事である。ギター以外の楽器に携わる人は、初めの志よりも目標を少し下に置けば生涯の生計の糧としてその楽器を弾き続ける事が出来ると言えるのではないか。(演奏内容も下げなければ生きて行けないかもしれない)
 真面目にギター音楽を愛しギター演奏を学びたいとする人に、私は音楽以外で生計の道を得る事を考えるようにとアドヴァイスして来た。ギターなるが故なので、わたしは非常に悲しい現実であると思っている。ギターにしがみついて生計を得るには、弟子を取ってギター音楽教師として生活の資を得るか、ポピュラー系の音楽、もしくは低俗な音楽文化に身を委ねるしかない。
 しかし、音楽以外で生計の糧を得る事を選択してしかもギターを生涯の友にしようと決心した人達(私の弟子達)の中には実に充実した音楽の理解者に育っている人達がいる。それは皮肉な事ではあるが事実でもある。また音楽愛好家にもそのような方は多い。嬉しい事だ。
 火花と言えば、笑いを得るためにはすべてを・・・、恥も外聞も無くすべてを生け贄にする。犠牲にするお笑い芸人の生き様を見事に書き綴った小説だ。(主人公はその為なら死んでもいいと思っている)
 Devoted Guitaristと言われたわたしはDevote(捧げる、献身的)=ギターに全てを捧げる=のは当たり前だと思っていたが、お笑いの方もそうするのが当たり前なものらしい。
 音楽の好きな一般の社会人はいっぱい居る。その一部はクラシック音楽に興味をお持ちのようです。音楽のプロの方は自分の音楽を聞かせて感動、感激されるかどうかに命をかける人は多いのだろうか?才能ある音楽家は聴衆に音楽を聞かせて感動あるいは感激される為に命がけにならないでしょうか?音楽家の中にそのような人物が居るのかもしれない。
 しかし芸術家は一般の聴衆に音楽を聞かせて感動あるいは感激される事を目標としていない人も居る。彼が頭に描いている音楽は一般大衆が聴いて感動あるいは感激しないかもしれない。
 生活の糧を、その選択をした楽器から得られたら、まったく何の疑問も無く俺は、私は、芸術家なのだ、芸術でもって生計の糧を得て、時には大金を稼いでいるのだと楽天的な生涯を送る人も居るのではと外部からは見る事が出来る。
 芸術にはアマもプロも区別はない。芸術に身を捧げている人は芸事だ、芸人だと言われるのに少し抵抗を感じる人も居るかも知れないが、身を捧げるという態度はお笑いも、芸術音楽も同じく厳しいものがある。ただ芸術家はより純粋に芸術に身を捧げているのではないかとわたしは思う。それはプロもアマもないと言う意味において。つまりお金儲けに直結しないという意味に於いてである。

(第203回)音楽と音楽 (2017/9/4)

 「わたしは音楽をしいている」「わたしは音楽がすきだ」よくこういう事を言われる方がある。そうすると私はこの人は教養があるのだ、流石!と思ったりする。2言目に、ジャズだ、エレキだ、演歌だカラオケだと言われると私の心の中の落差の大きさに言葉を失ってしまう。

(第202回)エネスコ(George Enescu)(2017/8/12)
副題ー伝統の継承

 エネスコ(ジョルジェ・エネスク1881年8月19日・ルーマニア - 1955年5月4日・パリ)は最高のヴァイオリニストの一人と評されていた。(ユネスコではありません)
 セゴビア先生は何時だったか、エネスコに会った事がある、バッハのシャコンヌ(原曲はヴァイオリンソロの為の組曲の中の1曲)を初めてギターで公開演奏する前に彼に合って(話?それとも演奏を)聞いてもらった、と私に言っておられた。私はエネスコはもっと古いヴァイオリニストであると思っていたので、エネスコに会われた事があるだけでも凄い事だと、感心して聞いていた。バッハのシャコンヌを世界で初めてギターソロで演奏することは音楽の歴史に於いては大きな事件で、セゴビア先生に取っては大事業であったに違いない。パリの有名なコンサートホール、プレイエルで初演をされたと聞いている。
 先日エネスコのSPレコード盤が、レコードショップから1枚20万円(2枚組かも)で売りに出されていた。今でも高く評価されるレコード盤であるので、何時迄も高く評価される商品なのかなと思って、ロングテール商品という言葉を調べてみたがロングテールとは現代のインターネット上の用語であった。私の以前に書いた「ギターの完全独習」は880円が22000円で出ていたのは或る意味、嬉しかった。私はロングセラー商品と勘違いをしたらしい。
 ちなみに私はセゴビア先生のシャコンヌのSP盤を持っている。SP盤ではシャコンヌは2枚組表裏計4面になっている。
後世に於いて高く評価される仕事(作品)を残しているのは芸術作品としてはすばらしい。あの少し後に先生が私に言って下さったと記憶しているが「お前は、ギター演奏において低音の動きにもっと注意を払え」と。その様な会話でもって伝統が残されて行くのかも知れない。

(第201回)夏目漱石(2017/8/5)

 夏目漱石の名を知らない日本人は殆どいない。
 夏目漱石は言わずと知れた日本を代表する文豪である。ところが彼の経歴を読むとロンドンに留学し、そこでは極度の神経症に悩まされたとある。
 私がロンドンでジョン・ウィリアムスの元に学んだ時、わたしは極度の神経症に悩まされていた。当時のロンドンには何と言っても日本人は数が少なく(約500人)、明るいイタリア、スペインで夏の講習会を終えてイギリスに来ると、丁度イギリスの鬱陶しい秋の始まりの気候でショックが大きかったのかもしれない。そして経済的には、円が安くポンドが高かった。1ポンドは1,050円(因みに今では1ポンド約2、3百円)であり、当時、自費で留学していたわたしに取っては本当に心細かった。自費とは何の公的援助もなかったという事です。冬になると3時頃にはもう薄暗くなる。霧も深い。因みに、食事を普通にすると少なくとも1ポンド以上で、それに5%以上のチップを置かねばならない。当時日本の大学出の初任給は大体1万円前後でしたからロンドンでの私の生活は実に心細かったとの記憶が在ります。大学出の給料ではロンドンでは10回位しか外食が出来ないのですから。
 私の神経症の本当のそして当然の原因は、僕の感じたとてつもない西洋と日本のギター音楽の演奏能力、伝統、知識の差である。この差を詰めるのには永遠の時間を掛けて、果て知れないはるかかなたにある不可能とも見える西洋音楽へのアプロウチであったのかも知れない。それにはありったけの知恵を働かせた上での無限の努力が要求されるのだと感じていた。
 さて夏目漱石さんとわたしを同列に置くわけにはいかないが、あの苦しかったロンドン生活を思い出すに付けても漱石さんでも苦しかったのだと思えば大きな慰めにはなります。でも夏目漱石さんは公費での留学であったと聞いています。
 ロンドンでお世話になった日本語の教授(イギリス人)のご夫人(日本人)の第二時世界大戦中に苦労されたお話をお聞きした事は忘れる事が出来ない。奥様は三浦環(ミウラタマキ=日本を代表する世界的なオペラ歌手)のSPレコードを手回しの蓄音機に耳をくっつけて聴きながら涙を流し、また或る時はホテルの窓から外を見ると、窓の直ぐそばに奇麗なお花畑が広がっていて、そこへ歩いて行こうとした時、誰かが大騒ぎをしているのではっと気が付くとそこはホテルの何階か上の窓枠の上で、もうちょっとで投身自殺をする所だったとか。敵国である日本人であったことで大変な苦痛であったとのお話。
 わたしは帰国後、10数年東京に居を構えていたが或る事情で姫路に移り住む事になり、弟子の一人の世話で姫路に来てからも東京では泉岳寺のそばのホテルを借りてレッスンを続けていた。そのホテルの近くに喫茶店がありその店主が夏目漱石のご子息の奥様であった。漱石のご子息は若い頃N饗でヴァイオリンを弾いておられ、奥様はハープをしておられたが、晩年には喫茶店を経営しておられた。ホテルと喫茶店の途中に表札が夏目となっており、ヴァイオリンの音が時折窓越しに聞こえる事があった。
 セゴビア先生から伺ったお話では、以前に(多分昭和4年来日の折か?)セゴビア先生がヨーロッパから日本に来られる時、当時は1ヶ月以上も掛かって船での来日であり、隣の部屋でヴァイオリンを弾く日本人がいて五月蝿くて眠れなかった、とか。そのお話を夏目さんのご子息にお伝えすると、それは多分(佐藤某?)公爵(爵位は正しくは失念)でしょう。そのころヴァイオリンでヨーロッパに遊学しておられた筈だとのお話でした。
 考えてみるとセゴビア先生の若い頃は、演奏旅行と言っても列車か船で、先生はシベリア鉄道で東洋(多分中国か?)に来られた事が在ったそうです。あの七難しい、ホアキン・マネンのソナタをシベリア鉄道の何日かで暗譜したと言っておられた。
 夏目漱石とは血縁は無いが、奥様の御親戚の方でお名前は何故か夏目さんという方が、N響のチェロ奏者で沢山の猫の絵、それも猫がヴァイオリンやギターやチェロを弾いていてユーモラスで何とも微笑ましく猫好きにはたまらない魅力的な絵を描かれる方で、私共も1枚頂いて大切に持っている。その方の猫の絵が、絵はがきやカレンダーになっているのを見せて頂いた事もありました。

 

(第200回)テクニック−指の動くスピード(2017/7/25)

 ギターでは指を動かす(連続して音を出す)スピードは1秒間に約10回少々です。
 テレヴィで見たのですが、ハミングバード(蜂の様に小さい小鳥)は1秒間に約80回位羽ばたけるらしい。
 で、芸術家であればどうでもいいのですが、芸人としては誰よりも速く指が動かせる、音が出せる、としたら、それは強力な売りになる。
 芸術家のように「そんなことは猿にも出来る」とのほほんとしていると、芸人としては飯は食って行けない。猿(ここでは鳥)が出来るが人間には出来ない事を人間がすれば、それだけで飯は食って行ける。

(第199回)ゴヤのエッチング (2017/7/17)

 畳の上に寝転んでいると暮れなずんできた。何故か、壁に掛けていたゴヤのエッチングが浮き上がって来た。ふと、これをギターの音楽にしたら凄いだろうな。ギターの音楽にする、その為には作曲の勉強をしなくっちゃ。大変だがどうしよう等と心に浮かんだその数日後、マリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコがゴヤのエッチング集の内27曲を選んで、ギター独奏の為の音楽にした楽譜27曲を送って来られた。ああ、これでわたしは作曲の勉強をしなくて済むと思った。必死でテデスコの「カプリッチョス・デ・ゴヤ」の練習、勉強を始めた。
 それは私が「カプリッチョス・デ・ゴヤ」の世界初演をした切っ掛けです。その楽譜の出版社、編集者の方々にも連絡をして初演であるとの確かな保証になるお返事を頂いた。(その手紙は保管している)何曲かは何度か公開演奏をし、それらの一曲はレコーディングをしてCD(「サウンド・オブ・ザ・ギター3」)として発売している。「先生への捧げもの(Obsequio a el Maestro)」 です。その他数曲をいくつかのコンサートで演奏した。(歴史的名曲であるのに評判にならなかったのは何故だろう???)4、50年前のことです。
 独白―作曲と演奏は全く別の作業であり、全く別の才能と努力が要る。(現在、作曲家で勝れた演奏家は居ない−と言われている)専門の演奏家になる為には、そのためだけに永く苦しい修錬が必要である。そしてその音楽を作品として完成させる為にはギターを完全に知り尽くした芸術家ギタリストが、その内容(作曲家の意図)をよりよく理解した上でギター音楽として仕上げるべく改変(revise)し、オーケストレーションをしなければならない。あの曲はrevise版が出版されていないからか、あまり演奏されていない。残念な事だ。
 若い頃、どの曲でもセゴビア先生の弾かれる曲でその指使いの入った楽譜が手に入ったとき、どれ位嬉しく有難かったか。これでこの曲は弾ける、と思ったものです。
 註−LP「サウンド・オブ・ザ・ギター1」としていましたが私の記憶違いでした。CD「サウンド・オブ・ザ・ギター3」の第8曲に収録されています。

(第198回)散歩 (2017/7/15)

 セゴビア先生の滞日中、拠点の東京から大阪、九州など演奏旅行に出かけられるお供をしたが、東京の駅では一般の人が通らない特別な通路だからと荷物の通路のような所を長々と歩いていて、私は先生の重く大きなギターケースを手にしていたし、何故か歩く道のりが延々と長いので、どこか短い道を探しましょうかと先生に提案した所「いや、これで良い、私は医者に毎日30分は歩く様にと言われているのだから」と。
 散歩しているといつもセゴビア先生とのこのことを思い出す。
 ジョン・ウィリアムスに習っていたロンドンでは、彼のコンサートにはよく同道させてもらった。其の行き帰りにギターを持とうかと私が言うと「たまにこういうものを持つのが指と腕にいいのだ」と断られた事も在る。
 演奏家は、演奏前であっても腕や体を強くするためのエクササイズは必要な事なのだと、買い物のとき私は女房の荷物を持ってやっている。
 散歩の時、買い物の時、先生が言った事を何年経っても思い出すのは面白い事だし、先生はやはり何時まで経っても先生で、何事にも真似をする気になるものなんだなと・・・。
 散歩と言えば、大学卒業後私はギタリストを目指して長時間の猛練習をしていた。細かく神経を使う指の練習なので気分転換によく裏山の六甲山に登った。海抜3000尺(1000メートル)の六甲山を人の通らない道を毎回変えて登っていた。落ちたら死ぬかもと言う崖を駆け上ったこともある。

(第197回)トーレス&ストラデヴァリウス(2017/7/3)

 ストラデヴァリウス(1644年 - 1737)が既に存在して後にパガニーニが出現したのである。鬼才パガニーニ!
 ではギターでは矢張りトーレス(1864〜1892)が没した後にAndrés Segovia(1893~1987)が出現した、というのは事実です。でもセゴビアさんはAntonio de Torresを弾かれなかった。
 事実は告げるが、ストラデヴァリウスあって鬼才パガニーニ、でありトーレスあって鬼才セゴビアである。という事は、トーレスあってフランシスコ・タルレガがありミゲール・リョベートが出現し、Andrés Segoviaの出現を促した。
 ピアノと言う楽器は鬼才無くしてピアノありなのではないか。名手が居てピアノが出現した。つまり、楽器としてはまだ発展段階ではないのか。では無くて何時かITは楽器の中ではピアニストだけは目標にされるでしょう。あの囲碁の世界的な名手がIT囲碁に負けました。負けた方の棋士はあれ(=IT)は神だと言っている。ギタリストに神のITが出現しない事を祈っている。

(第196回)タッチの3に関連して(2017/6/29)

 ギターを作る人、売る人、ギター弦を作る人、売る人、ギター雑誌を作る人、達は教師、そしてギターを弾く人達、簡単に言えばギター関係者全員がギターを正しく弾けないと不可ない。
 ギター関係者はギター演奏の評価、楽器の評価、弦の評価において、教師は正しいタッチを弟子に伝えるため。
 ギターを正しく弾くことは簡単ではない。タッチに関してギターを正しく鳴らすには、本当に多大の訓練が要る。
 心して耳を鍛え訓練を怠らない事。

(第195回)タッチの3(2017/6/29)

 音を出す時には指頭と爪の間に弦をおいて弦に振動を与える。これが原則であり、その事を知らない、または無視して稽古をしていると何時まで経っても美しい音が出せない。アルペッジョを弾く時も、和音も、音階もである。
 これがギター演奏の難しさの原因である。何時までやっても出来るようにならないと言う予感があり、それを予感してクラシックギター演奏に上達する事を諦める、賢い人も居る。
 この奏法の習得はSLOWなテンポで始める。指先の停止している時間は永いが、弦にエネルギーを与える時のスピードは貴殿の持っている最高速度でアタックする。と言っても或る音を出してから停止している時間に持って行くスピードが速くないと不可ない。
第163回〜3)タッチ−2、2016/2/25を参照して欲しい。1)も2)も3)もその意気込みで練習する。
 ギター音楽はアポヤンド奏法とアルアイレ奏法とから成り立っていて、それを使いこなさなければ(知っているだけでは駄目)ならない。アルアイレとアポヤンドをごちゃ混ぜに使ったり、またその中間で弾く事もあり、それが表現をする為にある意図を持って使用されると立派なクラシック音楽の演奏に近づく第1歩になるかもしれない。こころすべきである。
 幾つかの音を同時に出す和音はアルアイレでなければ弾けないが和音と言っても2つの音またそれらが隣り合った弦ではないときはアポヤンドで弾く事も可能である。
 タッチの深い意味合いは、その操作によって、昏いあるいは明るい、又は絶望的なまた言葉では表現出来ないその他複雑な心理状態を音によって表現する事が出来る点である。
 真剣に稽古に励むべし。

(第194回)Andrés Segovia・ポンセの魂に(2017/6/28)

 この曲は、Daily Study と副題が付いている。セゴビア先生の大親友である才能あふれるポンセさんが亡くなられた時にセゴビア先生が喪失感を最大限にギター音楽としてお書きになった曲です。
 わたしはセゴビア先生が数才年上の大天才ポンセさんが亡くなられた事にどのように悲しまれたか、この作品を弾いているとよくわかるかも知れないと何度も弾いた事があります。
 アメリカで演奏して、その後マドリッドのセゴビア先生のマンションに伺った時にも先生に聞いて頂いた。前にも書いたが、其の時は先生から「もう一度弾いてくれ」とアンコールを頂いた。
 ギター音楽の心には矢張りどうも悲しみが通奏低音(continuo basso)として流れているのではないかと私は思っている。Daily Study というこの曲の副題の意味。

(第193回)身土不二(しんどふじ)-サプリメント補遺(2017/6/26)

 身土不二とは「地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」ということらしい。
 身土不二は生まれた土地の食品がその人に合っている、と取ると判り易い。つまりそのひとの体は生まれたときから食べて来たものをgenuine(純正)として受け取っている。
 必要な元素が足りないときは何か別の代用品を持って来て体の組織の再生産を行っているが、生まれ育った土地の食品は生まれたときからそれらを食べて再生産を行って来たものなのでそれがgenuine(純正品)であり代用品であると体は認識しない。
 同じ土地の人々はそれとなく、どことなく似ているのは生まれた時から同じ代用品をgenuine(純正品)と信じて再生産をして来ている組織つまり皮膚、目玉、爪等等が何処かしら似通っているのはそのためである。
 都会に生まれてそこで育った人は、一先ず、おふくろの味としてその味を歓迎する。使い慣れた代用品で再生産が出来るのは安易なことであるらしい。
 姫路にこの名の店が出来た。一度行ってみる価値はあるでしょう。

(第192回)サプリメント(栄養補助食品)(2017/6/256)

 最近、人間の排泄物の2/3は新陳代謝物であり食べたものの消化された残滓物ではないと知りました。
 元々知っていた事は、エネルギーとして消費する以外には、食べるものは体の各部分に必要な再生産物を作る素材であるという事です。それには非常に多くの種類の材料が要る事は想像出来なくはない。その材料とは、多くの種類の元素であり、或る部分を作るのに必要な元素が足りないときは何か別の代用品を持って来て作っている。殆んどはgenuine(純正品)ではないのかも知れない。
 代用品で何かしら使用にたえるものを作るとは実に労の多い仕事になる。部品を代用品で製作するにはよく考えないと出来ないし知能も要るのかも。
 私が時たま思っているのは、出来るだけ多くの種類の食物を体に取り込む事は、体内の部品製作現場のもの達には想像以上に有難い事でしょう。ギター演奏、練習に関して言えば、指頭の皮膚の弦に当たる部分が、出したい音にとって最適なものであるか。爪の製造に関わっている工務員には必要なgenuine(純正品)の素材が行き届いているか。筋肉の素材は?各関節の繋が柔らかくなる為の素材、等等々
 もし、体内の部品製作現場のもの達が、工場の雇い主がこれらの事を考えて素材供給に勤しんでいてくれている事を知ったら、現場の工員は涙を流して感謝してくれるかも知れない。でも現実は何がどう必要なのか、何を供給すれば良いのかは雇い主には想像する事すら出来ない。セゴビアさん等は直感で知っておられたのではないかなあーーー。???
 彼らの最も希求する事はひょっとすると弾き易い楽器、美しい音のする楽器、弦、等々かも。天からの声・・・これらは支給してあげられる最も簡単な事だ。
 もう一つ、今食べたいもの、食べたら美味しいだろうと思える食物は体内の部品製作現場が最も必要なものであるかも知れない。美味しいから食べたいだけかも。

(第191回シュヴァイツァー博士 (2017/6/24

 シュヴァイツァー博士がある時、「音楽家にプロとアマがあるとは知らなかった」と言われたとか。「職業音楽家と非職業音楽家との区別はあると思うが」と付け加えられた、という事を思い出した。
 シュヴァイツァー博士はオルガンの大家で、Andrés SegoviaとPablo Casalsと並び、3大バッハ弾きと称されていた方である。
 わたしは非職業音楽家(アマチュア)でなければ魅力的な芸術家には成れないのではと或る時ひらめき、或る意味それをモットーにしていた。
 で、ギター教室の先生にも、職業音楽教師と非職業音楽教師があるかも知れませんね。

(第190回この惑星の音楽 (2017/6/4

(第184回)「劇的なギター音楽」を皆様に読んで頂きました。
 私の理想のギター音楽社会はこのプラネット(惑星=地球)に住む人々が、音楽とはこのような物なのだと当然の事として認識されるようになれば、音楽家のレベルが高くなるし、演奏される音楽が、絵画では落書きとそうではない芸術的な作品とが区別されるのが当たり前であるように、音楽においてもそうなって来る。
 その歴然とした証拠に、BGMで街頭、店舗内等に流れて来る音楽は殆んど絵画で言えば落書きである。

(第189回PIANISSIMO(2017/6/2

 よく考えてみるとギターでPIANISSISIMO(記号はPPPでピアニッシシモ)の音を音楽として聞いた事のある人は多分居ない筈です。
わたしは聞いた事が有ります。今から57年前(1960年)スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラでセゴビア先生がマスター・クラスを開いておられた時の事です。ある生徒がポンセの組曲の第4楽章Gavotte Uの第1音を弾き始めるとセゴビア先生がそのサンプル(真の姿)を示されました。この世に存在した事の在る最も美しい音、そして最も小さい音(ピアニッシモ)で弾いて見せられました。
 そのような音を想像力を発揮して出してみようとされる事をお勧めします。あの時以来、あのような音が地球上で響いた事は古今東西未だ曾て有りません。確言します!!!(私の独白ー自然界にあのような音は存在するのでしょうか???)
 それに比べますと私共の今日(こんにち)出している音は塵(ちり)です、塵芥(あくた)です。
 今日6月2日は偶然セゴビア先生没後30年になります。これを書き終えて気が付きました。そして庭に出てみるとうぐいすが大きな声でホーホケキョと一声啼いてくれました。

「ギターと私」

 これらのエッセイ集を纏めなければとその事に集中的に時間を使っていた矢先、ホームページ作成のDream Weaver が僕の言う事をきかなくなっていました。それで暫くこの「ギターと私」エッセイ集掲載をご無沙汰していた事をお詫び申し上げます。私は今までにもまして元気にしていますのでどうかご安心下さいますようお願いします。それで新刊予定のエッセイ集「天国と地獄」の後書きの一部「人生の不思議」を前もってここに発表させて頂きます。
 一つには諸兄に是非とも河上徹太郎 クラシック随想をご一読頂きたいと言う気持ちも有ります。

(第188回人生の不思議 (2017/5/28

 このエッセイ集(予定の名称は天国と地獄)をまとめ終えたときまだお会いした事のない人が次の様なE-Mail Messageを送って来られました。
 『松田先生こんばんは!セゴビア以外世界には ギタリストがいなくなりました。 このように先生は 私に語ってくださいました。 クラシック 芸術音楽の分野でなら あまりにホントウデ! 河上徹太郎 クラシック随想 河出書房219ページ。来朝音楽家たちの横顔 その頃聞いたものの中で現在一番印象に残っているのは、ヴァイオリンやピアノではなくセゴヴィアのギターであった。古典的な交響楽に劣らぬ精妙典雅な音調を以て、若い私を魅了したのであった。この音楽にも大変造詣の深い文芸評論家が セゴビアの初来日を聞いていたとは! 白州正子小林秀雄の友人ですよね。』(匿名希望の投稿)

 セゴビアの演奏ー河上徹太郎

 このメールメッセージによって、松田晃演(小生)ただ一人、この著作でセゴビア先生の芸術性の礼賛をし、ギター音楽の音楽的秀逸性を揚言している訳ではない事を確認させて頂く事が出来ました。ギターはギター以外の楽器よりも『古典的な交響楽に劣らぬ精妙典雅な音調を以て、若い私を魅了した。』と河上徹太郎さんはお書きになっている。素晴らしい事ではありませんか?これは是非ともこのメールの主にご承諾を頂いて後書きに載せなければと思った次第です。ギターを愛する人々に、胸を張ってギターを愛していると広言しても好いと論理的意味付けを河上徹太郎先生が言って下さった事実。
 河上徹太郎氏は辞書によれば([1902〜1980]評論家。長崎市生まれ。東大卒。昭和初期から,フランス象徴主義の影響に基づく評論活動を展開,近代批評の先駆となった、)とあります。この方のセゴビア先生に関する評論は昭和4年のセゴビア先生第1回目の来日(昭和4年−セゴビア36才)の演奏に関するものであろうと思われます。この河上徹太郎氏のギター音楽に関する評論(評価)はあまりに私達ギター関係者の耳には伝わって来なかった事で、私はこれを知って本当に嬉しく思いました。

 河上徹太郎氏は私の父(1897年生まれ)が大学教師時代に同僚だったのだと何時か私に言った事が有ります。父は私が、クラシック・ギターごときに現(うつつ)を抜かしているのを見たとき、何も言わなかったのはヒョットして、河上氏の本のここを読んだ事があったからかもしれない。私が心底憧れていた、当時破格の値段で売りに出ていた18万のスペイン製のギターを東京まで行って買って来ても良いと、お金を工面してくれた父。高校生の私にも、不思議感があった事を覚えている。1950年頃の話。その大金を腹に巻いて当時16時間も掛けて東京まで行ったが、事実は、売らないと言って断られた。
 この本の最後の仕上げとして後書きを考えている今、このE-Mail Messageを頂いたのは、何かの因縁ではないかと、私は人生の不思議を感じている。
 因縁と言えば、祖父の家に行こうとしていた6、7才の私が自転車で両手を放して漕 いでいた時、広い国道の反対側に私の家にやって来るらしい祖父の姿が目に入った。その瞬間私は柔道の空気投げにあった様に、国道のアスファルトに投げ出されていた。私は左の肘を脱臼していた。道路の向かって右に接骨医、左に交番。私は痛いのと怖いので逃げ回った挙げ句、左腕の肘をつないでもらった。その肘は、私がギター音楽に興味を持つまでにまだ6、7年も前にすでにギターが弾き易い様に左に一捻りされて付いている(今でも)。
 何も考えない私。この写真の2、3年後に、この子(私)は自転車で落馬した。

3才の私

Destiny(宿命)は後になって気付くようです。わたしは自分の生涯をギター音楽に捧げるべく宿命付けられていたのかも知れない。

(第187回『Le Chat Botte』(2017/2/2

フランス人のオウナーシェフのフランス料理のお店が姫路に見付かりました。
店名は『Le Chat Botte』(ル シャ ボテ=猫の靴)で1年足らず前に開いたお店です。
場所・姫路市白銀町71、すぐそばに有料駐車場があります。
Tel.&Fax 079-280-3107
(月)休み
ランチ・11:30~14:00
ディナー・17:30~22:00
Face book : Le Chat Botte Himeji(ルシャボテ)
ここは私の☆☆☆です。
姫路から遠くても近くても一度は試して下さい。
〜近者悦、遠者来〜=「遠くの人は来り、近くの人は喜ぶ」(孔子)です。

 

第41回 「Y君に」(2010年

 クラシックギターの世界には優秀な、図抜けた存在が1人、アンドレス・セゴビアしか居なくて、セゴビア先生の目指されたものを理解して発展させよう、と言う若者が殆んどいない様に僕には見えます。アインシュタインの様な人を、しっかりと追っかけて行ける人が無数に居る物理学の世界とそこが違うのですが、ギター音楽の行き着くべき先を見通してセゴビア先生のされた事を系統的に、理論的に、論理的に(少し修正を加えながら)発展させて欲しいものです。ギターがクラシック音楽を表現出来る楽器としてどう優れているかを、スペインの低俗な民族楽器が如何にしてバッハやベートーベン等の高貴で崇高な精神世界、そして世に優れた詩人の描かんとした情感を的確に表現出来る楽器に進化させて行ったかを系統立て、説得出来ないと不可ない、説得すべきであり、説得出来ると信じて(感じて)しかも焦っています。僕の様な実践家、実践演奏家がその論理に筋を立てて、よしんば理論付けに成功したとしたら、今度は僕自身の演奏がその域に達しられるかどうかがその理論の正当性の証明になるのだと思います。
 その意味で、実践家として精進して行くしか無いと思っています。実践家として完成させるのが僕の第一目標であるべきです。 (Y君がどのようなメールをわたしに送り、どのような人物であるかはご想像にお任せ致します。)

 わたしの言いたい事はこのホームページのこれまでの文章、そしてその前に出版したエッセイ集、「ギターは小さな星・・・」「ギターの完全独習」等で殆ど言い尽くしていると思います。わたしの文章は独断と偏見に満ちているかも知れませんが、この「ギターと私」欄も練習したあとの時間つぶしをしているのだと思って見て下さい。そしてわたしにメールメッセージを出して励ましと刺激を与えて下さい。

(186回) 新春二題(2017/1/11)

無限

 音楽の演奏において無限について考える事は避けては通れない。
 音楽を演奏するにあたって先ず2つの音の繋がりに注目する。2つの音をAとBとする。Aを明るい音Bを昏い音とする。もうお判りだと思うがその2音の間には無限の2つの音の組み合わせの種類がある。強い音弱い音、固い音柔らかい音、哀しい音楽しい音、それらの無限の段階、演奏家を自認する人はこれら全ての音の種類を、もちろん人間業であるから解る範囲で決定していく。判断し、決定する事、決断する事は芸術家に課せられた重い鎖のような、無限に続く作業です。最後には決め兼ねないのが実状かもしれないが、その芸術家の芸術観がその芸術家の価値の決定付けをさせる。
 どの組み合わせを使うかを明確に決定して演奏しておられたのがAndre´s Segoviaである。面白い事にLiveで先生の演奏を聞いた事のある方は何時聞いても同じだ、CDの演奏とも同じだと感じた事もあり不思議だなと感じられた事もあると思います。

無料 (2017/6/2ー1部追加)

 庭の木に実る果物は無料。天の恵みを感じる。
 運動は無料。
 写真も。
 写真撮影にはお金がかからない。昔はフィルム代、現像代、焼き付け引き延ばし代、と無限に費用がかかった。
 学生ギターは相互教授制?であるため無料。
 ギターの練習は幾らやっても無料。どんなに良い楽器を弾いていても自分の楽器であれば無料。弦がナイロンになってからは殆んどお金は掛からない。ナイロン弦をセゴビア先生がオーガスティンと共同で開発されるまでは好い弦(上等のガット弦)を張ってよい音で弾こうと思えば莫大なお金が掛かって、しかも数日しか持たなかった。私がギターを始めた頃の事です。
 それでも有料だと思って稽古しなさい。写真もそうです。
 何の役にも立たないことが有料になり高くなりつつある。
 テレヴィ視聴料、水道、電気、ガス・ガソリン、交通費、通行税。パソコン、スマホなど現代の通信料は膨大に高くなっていく。
 それに反して最高の、そして最大の努力と費用と時間を掛けて音楽演奏を録音、発売しても、ただ同然の費用と努力と時間でコピーをされてしまう。

 私がお出し出来る例題は、例えばHenry Purcelのプレリュードなどはどうでしょう?
 この程度の曲目の演奏、完成には一生かかるとお感じになられた方は優れた音楽的な才能の持ち主です。
 わたしはスペインのアルハンブラ宮殿でセゴビア先生が1週間くらいで映画の撮影を終えられた後、先生のホテルに伺ってバッハのシャコンヌとこの曲を聞いて頂いた。先生は私のPurcelのプレリュードの演奏についてはただ一言ミゲール・リョベートのような弾き方をする、と。
 この曲を仕上げるのには無限の時間と努力が要求されますが、費用は掛かりません。

 

 

 

2016年

(185回) ORDINARY became EXTRAORDINARY (2016/12/28)

 平凡が非凡に!
 わたしはこのような見出しのコンサート評をアメリカで頂いたことがあります。
 「平凡な楽器ギターが特別な楽器になった」と訳します。
 今日、フランシスコ・タルレガのラグリーマを弾いていてそれが私には非常に簡単に出来る事に気が付きました。
 そうしようと思って弾けばそうなります。これは邪念でしょうか?
 そうしようと思ってもそう弾けない人もいるのかも知れません。
 そうしようと思いもしない、思い付きもしない人もいるのかも知れません。思うのはしんどいと思う人もいるでしょうか?
 
MAKE ORDINARY, EXTRAORDINARY!
 ギターを愛する友よ!これを2017年の標語にしよう。普通の音楽、普通の楽器ギターを非凡にしよう!ちなみに EXTRAORDINARYはエクスト
ローディナリー(ローに強勢)と発音し普通に使う普通(ORDINARY)な言葉です。
 来年も皆様に、いい年でありますように!元気がなくなった時にエクストローディナリーと叫びましょう!

(184回) 劇的なギター音楽(2016/12/21)

 ギター音楽においては、奏者が芸術家(=考える人)であればその音楽に、美とか楽しさのみならず、人生における苦悩、危機感、絶望、悲哀、また倦怠、等々、永遠性を持つ昇華された感情が美の衣をまとって表現される。それらが平々凡々にではなく、ドラマティック(劇的)に表現されれば聴く人の魂は激しく興奮させられる。それは何事にも代え難い大きな人生の宝物になる。
 註−前183回への追加です

(183回) ドラマチックな音楽表現 (2016/12/21)

 私がギター(音楽)に興味を持って間もない(昭和20年代の)頃です。
 ラジオ、(テレヴィはちょっと後)のBGM、番組タイトルのバックミュージック等に外国の音楽演奏、著作物が著作権を無視して自由自在に利用されていた。私の耳に入ってくるそれらの音楽の中にセゴビアの演奏も使われていたようでした。セゴビアと言うギタリストは凄いなあ、と感心して聞いていた。セゴビアのギターが後ろで鳴っていると、このいい加減な、いわば平凡なニュースが劇的に聞こえるのだなと思った。クラシック音楽の曲としては普通の曲がです。
 Andre´s Segoviaと言うギタリストは音楽をドラマチックに演奏しているのだと何となくその頃から感じていた。セゴビア先生の音楽演奏は他の楽器演奏に抜きん出ていると。
 それは他のどんな楽器奏者にも出来ない凄い芸当なのだ、と確信を持ち、ギター音楽の演奏、クラシック音楽は演奏家による表現力はそれはセゴビアと言う天才が成し遂げている、量り知れないギター音楽の底力なのだなと今では思う。この時に思ったギター音楽の底力は忘れ難い。
 私の若い頃は著作権と言うものを誰も大して気にしていなかった。日本の作者の著作権についてはよくは知らないが、西欧の著作物に関しては、何の恐れもなく使用して当然のようにラジオから流れて来ていた。
 平凡なニュースと言いましたが、ドラマにもそれが起こっていました。普通のドラマがセゴビアの演奏が後ろで鳴っているとドラマチックになるのです。今では、著作権は大切に保護されているのでセゴビア先生の演奏は簡単にはラジオやテレヴィで流れて来ない。著作権は弱小音楽家、音楽演奏家を保護する為に存在する物であると言える。超一流と超二流?との格差は量り知れない。その間には大きな溝、谷がありそれらの差は比較出来ないので「次元が違う」と言う言葉でしか表現出来ない。
 それで、私の感じとしましては、テデスコさん(偉大な作曲家)にしても本当は、(お知り合いになっていた範囲では)著作権等は保護して欲しく無いとお考えになっていたようです。そのこと、つまり著作権保護は現代人の文化的能力を不能にさせている大きな要因、原因を作り出しているのではないかと思われます?民主主義の結末=悪平等。
 つまり下流の芸術家ばかりが著作権保護の恩恵を受けていて、一般大衆はそれら中下流の芸術作品が心安く使われてBGになっていたり、有線放送に流されたり、またその伴奏による劇を有り難がって聞かせられており、劇作家、プロデューサーはそれら中下流の作曲家の音楽、特に中下流の演奏家の音楽を心安く使っている。超一流の方の芸術作品が庶民の娯楽の場に提供されないでいる現状は最悲惨である事を知り、感じている方は未だあまり居ないようです。つまり超一流の方がテレヴィ番組等の劇伴の音楽演奏を、文学作品は別として、依頼されない現状。超中下流の作家の音楽や音楽演奏は値段が安く(安物の演奏)、超一流は扱いにくいので敬遠されている。敬して遠ざけられている。有線放送の音楽も安物ばかりが使われているのではないか。それとも有線放送へのアクセスが安物の音楽ばかりに人気が集まっているからかも知れない。
 我がセゴビア先生がBGM、劇伴等に使われていたら、ギター音楽がいまや隆盛を極めていたに違いない。
 それとも今ではCDで出ている超名演奏家の音楽は安く使える(かも知れない)のに、プロデューサーの方は超一流の音楽の音を使えば制作した作品の評価が数等上がるという事に思い至らないか、それとも私の若い頃のプロデューサーのような優れた感性を、お持ちになっていないのか。超一流を使う事は手続きが非常に面倒なのかもしれません。超一流のホテルが倒産して、二流ホテルの値段で泊まれる事を知って泊まった事がありますが、何とも言えない超一流の雰囲気とサービスを味わったことがあります。こんにちでは超一流を庶民が楽しめる時代に成ってしまっているのではないでしょうか?
 私のエッセイ「鶯」(エッセイ集の第29、30回)参照。

182回) ポンセ2 (2016/12/5)

 先日のFM元気でトークの後ろに流していた曲は私のCDレコードより、マヌエル・M・ポンセの「ギターとハープシコードの為のソナチネ全3楽章」、イサーク・アルベニスの「グラナダ」(いずれも「サウンド・オブ・ザ・ギター2」収録)、マリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコのプラテロと私より「雀」、イサーク・アルベニスの「セヴィーリャ」(いずれも「サウンド・オブ・ザ・ギター4」収録)でした。ハープシコードは日本で最も優れたハープシコードのそして音楽の奏者とされている本庄礼子さんです。この曲は私が何時か「キマイラの踊り」(エッセイ集−第54回参照)と命名した音楽です。素晴らしいギター音楽の宝の一つです。
 前項でポンセの事を話しましたが、ポンセさんは生地メキシコでもそれほど高く評価されていません。残念な事ですがまだ評価出来ていないとすれば人類の恥です。
 私が申すのもあれですが?何処に於いてもポンセの音楽が好い演奏がされないのもその(評価されない事の)一因なのでしょう。確かに一因です。その事はギター音楽その物の地位の低さ(演奏レベルの低劣さ)に起因し要因になっています。

(181回) ポンセのギター音楽への貢献 (2016/12/2)

 Andre´s Segoviaとポンセの書簡集を読むと、ポンセが書き送ったセゴビアさんへの手紙はあまり残っていないがセゴビアさんが書いたポンセへの手紙は残っている。セゴビアさんは世界を旅していた演奏家であったのでポンセからの手紙を紛失、又はコンサートツアー中、羽を休めた木立の中に置き忘れたかであり、ポンセはその愛する奥様と一緒にメキシコに定住しておられたために手紙が残った(らしい)。セゴビア先生のポンセさんへの手紙によってポンセさんをどう言って困らせていたかがよく解る。
 ポンセさんにとっては気の毒なような無理をセゴビアさんは言っている。しかし、それはギター音楽のためには無くてはならなかった無理難題であったのかも知れないと気が付いてくる。今頃になって気が付く。
 ポンセの音楽はいつかはギター音楽にとって無くてはならない宝物であったのだとギター関係者のみならず、一般音楽愛好家にも評価される日が来るのに違いないとわたしは確信しています。音楽愛好家の至宝であり音楽全般の中でも必ず評価が高まる日が来るに違いありません。しかしその為にはギタリストのレベルが一段と高くならなければなりません。そうなればポンセさんと偉大なアンドレス・セゴビアの生前の努力が完全に報いられた事になったと言えるでしょう。
 ポンセの音楽の真の魅力を聴く人に感じさせる演奏が為されなければなりません。ポンセの音楽は魅力あふれる珠玉の音楽なので演奏家には当然、完璧な理想的な演奏が望まれる。そのような演奏であれば、その音楽に魅せられた音楽愛好家はその魅力を味あわせてくれるギター演奏家=ギタリストの出現を強く求めます。今のままのレベルのギタリストがポンセを弾いて聴かせていたのでは音楽愛好家の中でギター音楽の評価は下がるばかりですしその上、音楽としてポンセの音楽にも誰も見向きをしなくなります。その証拠には今日、ギターのコンサートには超一級の評論家(つまり詩人)が聴きに来られないようです。私は好い音楽を演奏される音楽家のコンサートには神戸、大阪まで出かけるのですが、ギターのコンサートには時間をかけて聴きに行きたいと思った事はありません。
 ジュリアン・ブリームはあるときポンセのある名曲をコンサートで弾いたが酷評を浴びた。それ以来彼はポンセをステージに上げる事をしなくなったそうです。ポンセはギター音楽のなかでは最も知性的な作家です。ジョン・ウィリアムスはポンセやマリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコの作品の演奏をする事を敬遠(敬して遠ざける)しています。ジョン・ウィリアムスはテデスコのある曲目を”Boring(退屈)” だと一言で片付けていましたが。(ポンセとテデスコこそはギター音楽作曲家の中では傑出した天才であると僕は信じています)何時かチャンスがあれば僕のテデスコ、例えば “Sound of the Guitar 4” の「雀」を真面目な気持ちで聴いて頂きたいと思います。
 ギター音楽特にポンセの音楽は演奏、演奏解釈の上手下手の落差が大きい。音楽が少しは理解出来ると思われているギタリストでもポンセを舞台に載せる事が少ない。つまり演奏、または演奏解釈が劣悪であれば、楽譜のままの演奏であれば時間が勿体なくて耳を傾けるに値しない。
 音楽には2種類あって演奏解釈が求められる音楽とそうでもない音楽があります。私は初心者を卒業する頃にその事に気付きました。私は其処で演奏解釈の必要な音楽、つまり演奏解釈を拒絶しない音楽の演奏を努めてするようになってきました。その大きな理由は演奏解釈を拒絶されたのでは演奏家の存在理由 raison d’e^tre=reason for being は全く無くなるわけですから。「ただ弾くだけなら猿に出来る」と言うのが私の気持ち(持論)です。それにしてもどの音楽作品でも演奏解釈をしないで舞台に上げる(人に聴かせる)事は間違いです。演奏解釈をしないで舞台に上げる事は白紙の答案用紙を提出するのと同じです。演奏解釈を拒絶されたまま唯唯諾々(ゆいゆいだくだく)と毎日、指揮者の指揮棒の通りに演奏しているオーケストラの楽団員の方々は気の毒だと私は思います。引退後、その生涯は何だったのだろうとお思いになるだろうとギタリストである私には思えます。
 ポンセの音楽が音楽として好まれ、ポンセの音楽を聴きたいと言う需要がもっともっと生まれるようにならなければ不可ないと思っています。何故なら、ポンセのギターのための音楽はギターでしか聴く事が出来ないからです。クラシックギターが不滅の生命を手に入れるのはそうなった時です。
 ギター名演奏によるバッハによってクラシックギターの新境地が開かれるのと同様、ポンセもその一役をになう事が出来るギター音楽の重要な作品の一つです。
 何年か前に書いてお蔵入りしていたこの記事を、今日アップする気になったのは、ある古い弟子が、先生のポンセ(「サウンド・オブ・ザ・ギター3」収録)を何度か聴いていると、バッハに匹敵する位凄い音楽だと判ってきました」と興奮状態で電話をくれたからです。

(180回) 向上心(2016/9/30)

 姫路地方を中心としたあるスーパーマーケットに行くとベートーベンとかショパン、モーツァルト等、錚々たる作曲家のクラシック音楽がいつもBGMで鳴っている。お店の人に聞くとオウナーは特に音楽が好きな方でもなく、ただお店を東京の高級スーパーマーケットの様な感じにしたいのでこんなBGMを鳴らしているのだと言っていた。
 私は意識をしていないが、やはりクラシック音楽が鳴っているこの店に入ると背筋がすっと伸びるような気がする。
 そして、姫路であるにも拘らずこのお店は徐々に活況を呈して来ている。

(179回) 進化の行き着く先(2016/9/30)

 地球上では、ある一つの種が極限まで進化して行くとその種はその特徴(長所?)のために滅びると言われて来ました。 Maestro Segovia がギター音楽をその極限まで開発(進化)されて(正しくは進化させて)いたとしたらギター音楽のその先は?その先にはギター音楽は無い。その先に目をやって見ようとしたら、ギター音楽の未来は無です。(その手前で人々は楽しんでいる?)
 進歩(進化)の極限まで行くと臨界点(critical point)に達して崩壊すると言う事かもしれません。
 人は目標を持って生きて行く。その目標が達成出来るかどうかは判らないまま、目標を追求して努力の限りを尽くしていると、世界の見え方が変わる。見え方が変わって来るのが本当の人生であり、楽しみである。

 (168回) SPレコード (2016/5/26)は是非共参照して再読をお願いしたいと思います。私の生の演奏の音は多分、今の録音技術や再生技術では表現出来ないかも知れません。

(178回) 日記-7(2016/9/30)

 1960年代に、2度目か3度目かにイタリアのシエナに行ったとき、この町の大学の学生らしき人達が皆ビートルズの様なヘアースタイルをしていたので、あなた方はビートルズの真似をしているのかと聴いた所、立腹した様子で「これはイタリアの古い伝統的な髪の形なのです」と教えられた。
 ジョン・ウィリアムスのレッスンを受けていた頃、ロンドンでは郊外のアベイロードの角を曲がった所に下宿をしていた。アベイロードがビートルズの録音スタジオのある通りだとは知らなかったのですが。

(177回) 勧善懲悪(2016/9/27)

 何時の世にも悪は絶えない。
 勧善懲悪が私共、真にギター音楽を愛する者がなすべき仕事なのかも。
 つまり、ギター音楽発展の為に、ギター音楽界に巣食う悪を追放しなければならないのです。
 その気持ちの強い人は時代劇であれ現代劇であれ、悪が滅ぼされるのを見ると胸がすっきりするのと同様、音楽においても悪である音楽演奏が叩き潰されるのを見ると気分がすっきりされる筈です。そう考えると、私がしている事は一般大衆に凄く受け入れられて楽しませる要素を多分に持っているのかも知れない。
 私が音楽について非常に厳しい事を言うのを期待しておられる人が昔から沢山おられる。それは今にしてハッキリして来たのだが、勧善懲悪のドラマを見て気分がすっきりするのと同じだからです。人間、苦労して生きているとたしかに勧善懲悪の行われる時代劇等(もちろん現代劇でも)を見ると特別に気分がすっきりします。
 私が厳しい批評(または判断)を発表すると大喝采をあびる事があり、私は自身が社会の趨勢に対して酷いことを言う事、つまり例えば楽しく遊んでいる人達に罵声を浴びせるとスタンディングオーヴェイション(大拍手喝采)を浴びせられるらしいが、私は一つも嬉しくは無かった。
 何故なら、私は矢面に立って刀を振り回したく無いので・・・。そんな事をしていると、いずれは私が殺されてしまうからです。
 セゴビア先生は先生の公開レッスンを見ていると、確かに『勧善懲悪』をして居られましたが、私は非常に「なまぬるい」と感じていました。もっとやればいいのにと言う具合です。あれが映画ならあまり面白く無い、あれならスタンディングオーヴェイションは起こらない。セゴビア先生のばあいは舞台でスタンディングオーヴェイションを受けておられるのだからそれでご満足だったのかも知れない。賢いセゴビア先生は矢面に立たれたく無かった。

(176回) 日記-6 (2016/8/24)

 ゴッホが生まれた年に日本に来たのがペリーでした。今日知りました。

(176回)日記-5 ゴッホ (2016年7月29日金曜日)

 イチローが42才で新記録、もう一つ見つけました。
1893年、1933年、1973年、これらは40年ごとの西暦年。
その40年前は1853年です。
 初めからAndre´s Segovia、Akinobu Matsuda、イチローの生まれ歳。
セゴビア先生の40年前、ゴッホが生まれています。
 彼の絵が大阪市立美術館(デトロイト美術館展)で展示されます。前売りただの1,000円?、当日1,500円?です。
2016年7月9日から9月25日まで。ただしゴッホの絵は2点のみ。
その他ではモネ・ルノワール・セザンヌ・マティス・ピカソ等

(175回)日記(ギター音楽は低く評価される)(2016年7月26日火曜日)

 或る大学病院で私がアメリカのネット誌で「全てのジャンルのギター演奏においてクラシックギターがその最も高い位置にあるが、そのトップであったアンドレス・セゴビア亡き後、Akinobu Matsudaを超えるギタリストは世界で未だ出てない」と書かれたと言うと医師の先生(私の後輩)は「そう言う事は個人個人の好みだから」と一蹴された。私が自己紹介を兼ねて自身のCDを差し上げた時の事でした。
 全てのジャンルのギター演奏において第1位であると評価された私のギター音楽は、音楽として全てのジャンルのクラシック音楽においては最低位である事を私は知らしめられ、我が師アンドレス・セゴビアは生涯そのことを痛感しておられた事であるかもしれない。
 音楽芸術の評価が単なる個人の好みに左右されると思っているインテリさんが未だ居るとは!!!(失礼!!!!上記の先生は世界で評価の高い私のCDを未だお聴きになる前の不用意なコメントでした)
 事実、高校、大学の同級、後輩にCDを差し上げる事がありますが殆んどの方は返事も下さらない。こんな物有り難くも何ともないというご意志の表示だったのでしょうか。それともギターなんて真面目に聞ける様な代物ではないとの世間でのギター音楽への評価がコチコチに固まってしまっているのでしょうか。古賀政男に毛の生えた様な物だと思われてしまっているのでしょうか。私は泣くに泣けない精神状態に陥っている。
 私のギター音楽を1度聴いて解らない時(何だこれはと思われた時)は、車にでも載せて何度でもお聴き頂けたらその良さがもっとご理解頂けるのではなかろうかと信じています。スピーカーの前に正座してじっと神経を集中して聴かなくてもこんにちではそれでいい、何度も聴けばいいとなっている事を、現今のお年寄りはご存じないのでしょうか。クラシック音楽の存在価値は何度でも、100回でも千回でも聴くにたえる芸術作品であると私は知っています。
 親友だと私が思っている、ヴァイオリン演奏も嗜んでいて大会社の幹部にまで昇進していた友人に私の演奏のCDを送った所、クラシック音楽の大作曲家で私が最も尊敬し高く評価しているポンセの音楽について、ひと言、「中々モダンなジャズの様な音楽だな」とのコメントをくれました。哀しみの極み。何と言う音楽的教養の低さ。ギターにしては中々大したもんじゃないかと褒めてくれたつもりかも?内容の複雑な、人間として到達出来る最先端の芸術作品はモダンジャズだとして片付けておけば無難なのかもしれない。芸術だの哲学だのと言わなくて済むからか。
 それでも私は最も幸運な星の下に生まれていると思って感謝している。このhumbleなH.P.に公開している思い付きの様なエッセイを、首を長くして未だか未だかと待っていて下さるファンの方、友人、弟子達が沢山居ますし、第一それらの人達無くして今日の私は存在出来なかった筈ですから。

(174回)楽器のギターと音楽のギター(2016/7/9)

 ある時いくら高くてもいいからあなたならいいギターが作れるでしょう、と言って自分の為にいいギターを作って欲しいと凡庸なギター作りに注文を出したギター・ラヴァーがいました。
 いくら高くてもいいからあなたならいいギター音楽の演奏が出来るでしょう、と言って、自分の為にいいギター演奏をして欲しいと注文を出す人は居ません。
 前者は本当にあった話で、その為か彼はギター愛好家はまったくの馬鹿だと軽蔑をしてしかも通常の値段の倍で製作?する事を引き受けたそうです。
 後者は幾らお金を出すと言われても引き受ける人は(引き受ける事が出来る人は)いないでしょう。欧米では演奏家の演奏料は、そして入場料は日本程高くありません。ただ私事で恐縮なのですがあなたは安すぎるので今度来られたら今回の倍の演奏料をお支払いしますと、ある名門の音楽大学の音楽教授が言って下さった事がありました。

(173回)お詫び(2016/6/17)

6/13日の拙文におきましてグラナドスのピアノ演奏が酷い物であったと言う私のスペインでの聞きかじりの言及に対してこのホームページの読者の方から反論を頂きました。以下です。
『グラナドスの自作自演はピアノロールですが、youtubeでも聴けます。非の打ちどころのない名演奏です。セゴビアといい勝負です』
貴重なご指摘有難うございました。訂正の上お詫び申し上げます。まったく同感です。ご試聴の程を!ユーチューブですぐ聴く事が出来ます。

(172回) 日記 (2016/6/17)

イチローが42才で世界新記録。
1893年、1933年、1973年、これらは40年ごとの西暦年。
初めからAndre´s Segovia、不肖私−Akinobu Matsuda、鈴木一郎の生まれ歳。
イチロー42才、広島の黒田41才、2人を足すと私、間もなく83才。
1987年セゴビア先生の没年以来、私はずっと世界一と言われた。頑張らなきゃ!

(171回)音楽は建築物 (2016/6/13)

 音楽は建築物であり構造的に考えて作り上げなければ成らない、と昔教えられていた事があるがギター音楽としては別世界のことのように感じられてならなかった。ギターではそんな大袈裟な建築などという大きな事は出来ないと思っていた。
 「ギターはオーケストラである」を考え感じるようになって「音楽は建築物である」とは音楽の楽譜はその設計図である、音楽は建築物であるが、楽譜はそれを建築物にする設計図なのだと気が付く。
 一体、作曲家は演奏出来ない=しない。
 以前に聞いた事があるが、グラナドスはピアノさえ弾かなければいい作曲家なのだ!解り易く言えばものすごくピアノの演奏が下手なのだ、という事らしかったです。彼がピアノで彼の曲を弾くと酷いものだという事。

(170回) 続−溜 (2016/6/10)

 アーノルド・ドルメッチの本を読んでいるとアッポジャトゥーラについてひつこく説明されている。アッポジャトゥーラとはクラシックギターでは入門した初心の頃からおなじみのアポヤンドと同じ語源で、寄りかかるという演奏上の意味(指示=記号)です。
 ギターでは右手の指で弾くときその指が次の弦に寄りかかるような弾き方を言います。
 楽譜記符法上では隣り合った音が次の音に寄りかかるように演奏される、あるいはして下さいとの記号又は弾き方を言います。ある音が次の音にゆったりと寄りかかるように移って(移動して)行くとも言えます。装飾音符のように極端に短く時価が無いようなスピードで次の音に移るのでは決して無いと言っておられます。
 ですからアッポジャトゥーラと装飾音符は全然違う記符であるという事だけを記憶しておくとよい。一般にアッポジャトゥーラも装飾音符も同じ記号で書かれている事もあるので間違えないように注意が必要です。
(152回) アーノルド・ドルメッチ (2015/8/26)の項を参照して下さい。
 野球では打者がピッチャー側の足を上げて球を待つと溜が出来るといっている。
 机を叩くとき怒りを込めて叩くのと優しさを込めて叩くのでは後者の方がアッポジャトゥーラになると言えるのでしょうか?前者には溜がまったく無くセッカチな心のみが表面化している。
 後者の叩き方が解る(理解出来る)と音楽において溜が素直に出来るのではとの僕の考えです。テレヴィに出る多くの音楽の演奏にはこの溜がない人が多い。特にクラシック音楽。

(169回)日記−2(2016/6/6)

ギター正攻法
 ギター正攻法と言う言葉はもう古いでしょうがギターによって名を上げ成功する方法と言う事です。成功法ではありませんので要注意
 世間的に成功する為の正攻法(如何に攻めるかの内の、正しい攻め方)
 詰まりその人のギター演奏が芸術的で演奏解釈が優れていれば世間的にも成功するであろうという夢の様な助言

(168回) SPレコード (2016/5/26)

 レコードと言えばつい最近まではSPレコード(つまりスタンダードプレイの事で1分間に78回転するレコード盤)でした。最初は奏者と音の出るラッパの間には電気装置が存在しなかった。1面しか録音されていない盤もありそれは約3〜5分で終わります。その分、名人の演奏も一曲のみにじっと耳を傾けて聞いていました。演奏家も1曲のみしか弾かないので最も得意とする曲目の演奏であり、SPレコードはじっと耳を傾けて聞くに値する時間を提供していました。盤を買った人は当然ながら何度も何度も同じ盤を聴きます。レコードとは記録の事。
 SPは希少価値が高く、珍しいSPレコードを持っている人がその幾つかを持って会場を借りてレコードコンサートを開催し、持たない人に聴かせていました。何故持たない人があるかと言えば今では考えられないくらいレコード盤というものは入手困難で高価だったのです。何しろ名人又はその楽器の演奏の大家(ヴィルトゥオーゾ)があなたの傍に来て演奏するのですからその盤は幾らお金を出しても高すぎないくらい充分な価値がありました。その盤がないとすればその人の演奏を聴くにはその人のコンサートに出席しなければなりませんし、その他の手立てとしてはレコードコンサートに出席する事等です。ラジオ放送が始まってからはたまに放送される事もありましたが・・・・
 考えてみますと、SPレコード以前(音を記録して残す事が出来るかもしれないと気が付く前)には演奏家の演奏は生でしか聴けなかったのです。そのような時代が実は何年も続いていたのです。列車やバス、自家用車、航空機などの交通手段も、そして一切の電気的通信手段も無かった時代です。エジソンが録音技術を発明した為にレコード盤は一般に普及し、その結果、音楽芸術は堕落して行きました。
 昔は演奏家の評価は演奏会場に行って聴く価値があるかどうかについての情報、また聴いた人はその演奏家、演奏解釈などを言葉にして伝え表現をしていました。今では言葉は要りません。CDが有るし、ネットでいくらでも無料で聴く事が出来るから、演奏、及び演奏家の価値が暴落してしまっています。暴落したから、演奏家は当然出来るだけ沢山のCDを作り、たとえばちょっとでも弾けるような曲は全部CDにして発売してしまいます。クラシック音楽の優れた演奏家は、録音物を作ってもただ同然でしか売れません。なにしろ一般大衆には楽しめないかもしれない高度の音楽解釈でしょうからあまり多くは売れません。評論家は本物に近い演奏(本物とは生の演奏の事で本物の芸術的演奏ではありません)を何時でも、誰でも聞けるからいい加減な評価をする事は出来ません。褒めておくのが最も無難な方法です。ちなみに、私がセゴビア先生のスペインのご自宅を尋ねたとき私に訊かれた事があります。「最近日本ではわたしのレコード(LP時代でした)があまり売れなくなっている。多くて500枚程度なのだが、どうしてだろう?」1970年代の事です。
 現代が末世と言われる由縁です。
 私の絶対必要であるが絶対に実現は無理かもしれない提言は、絶対にコピーの出来ない録音盤の録音メディア(録音機器)を発明することです。SPレコードの時代にはその通りでした。何故ならコピー機が存在しなかったからコピーは絶対に出来なかった。絶対にコピーをする事の出来ない録音メディア(録音再生機器)は音楽芸術発展の為には絶対に必要なはずです。元もと音楽演奏は一回きりしか聴けないというのが原則でありルールでした。(音楽を山登りに例えればあのヒマラヤの山に誰でも何度でも登れるのが今の時代です。現代ではヒマラヤ山は何度でも簡単に登れる山で、音楽に例えれば演奏するには超絶的な技術を要する音楽作品を簡単に演奏し(スピーカーに演奏させる)聞き流し楽しむ無価値の山のようになってしまっている。)私の若い頃の人は演奏家の演奏は滅多に聴けないものでありレコードで聴けるとしたらそれは千載一遇のチャンスであり恐ろしく貴重な経験を持つことであった。特に西欧の演奏家についてはそうでした。私のこの提言は、電気無しで暮らしましょうと言ったような極端な提言で、まったく実現出来ない体(てい)のものです。珍しいSPレコードの持ち主はそれだけでも尊敬されていた。今でもヨーゼフ・ヨアヒムのSPレコードは珍品中の珍品であり、もっているだけでも尊敬されるに値するという例外中の例外もあるが。
 Antonio de Torresと言うクラシックギターの名器をもっているのとそれほど変わらない。私自身ある時スペインで、あるギタリストにAntonio de Torresを所持していると話すと即座に私にむかって最敬礼をされた事があったくらいだ。それは何故かと言いますとコピー出来ないからです。ヨーゼフ・ヨアヒムのSPレコードもそれだけのまたはそれ以上の敬意を払われてしかるべき音楽演奏のレコード盤だ。
 偉大なるアンドレス・セゴビアと胸が悪くなるような演奏をするギタリスト(では無くてギター弾き)とがユーチューブではゴロゴロいっしょになって転がっている。ヒマラヤ山と大阪の天保山(標高3mの山)が同じ高さの山になった瞬間です。私の弟子が彼の弟子に言った言葉です。「セゴビアは神様で、松田先生は人間だ。僕は猿でお前達は石だ」と。いまやユーチューブの世界では全部の演奏家が石ころです。ゴロゴロといっしょになって転がっている。胸糞が悪くなる。それはアンドレス・セゴビアが石になった瞬間です。
 この事態に対処するただ一つの解決策は先ず、誰も聞いた事の無い名演奏、名解釈が出来る名手が出現する事で、次いでその名手が録音される事を絶対に拒絶する事です。録音を拒絶する事が出来るホールが出現し、録音として後世に残す事を望まない演奏家が出現すべきでしょう。録音機器に対して強烈な妨害電波を発信する音楽ホールが出来るべきです。
 そうやって、音楽家の生活権を守って行こうとする勇気があり天才的な音楽家、演奏家が出現すれば素晴らしい世界が開けてくるのではないかと言うような気がします。
 なおそれだけの価値のある演奏が出来るようになる為の超一級の演奏をする事は先程も述べましたが最も難しく困難な『道』です。
 人類の進歩とは何か?偉大な文化人、先人たちは人類は全然進歩していないし進化しないし、今後も進化しないと言っています。

(167回) 初心者へ2・テンポ (2016/5/25)

 テンポを崩しているか崩れているかを判断する。テンポ正しく弾けるようになると今度は審美眼をもってテンポを崩さなければならない。そこでテンポ正しく弾けると言う訓練が役立つ。テンポが崩れていると見苦しい。
 初心者は得てしてテンポを無視する。テンポを理解出来ない。音楽によって何を言いたいかが判る人にはあまりテンポを厳しくしないでも良いがテンポ正しく弾けると言う訓練が出来ていると見苦しく無く崩す事が出来る。

初心者へ2・テンポ2

 3拍子の曲の1つの小節には拍が3つある。コインに換算すると1拍を100円であれば300円です。詰まり1小節は300円でなければならない。何となくそう言う感覚です。非常に厳しい音楽家は第1拍目は90とか95円でも第2拍または第3拍でそれを調整して全体では¥300でなければならないと考える(むしろ感じる)。ですから1拍の長さは最後にはどうでもいいと言う感覚も生じます。

(166回) 宝石 (2016/5/24)

 gemstone (原石)は音楽の原譜でありそれの見事さを磨き出すのは演奏家であり録音技師はそれらの美しい石を芸術家である演奏家の指示する設計図の通りに(集まった石を)美しく並べ替える。
 今日の演奏家は印刷所の技師のようなものに近い。決して画家そのものではない。何故ならほとんどすべての演奏の評価はCDレコードを通してなされる。印刷物の作成が如何に大切であるかだ。演奏作品はだから何時もコピーをされる事が前提となっていなければならない。印刷物はコピーであり決して原画ではないのだから。
 音楽作品は一般的には演奏されないでは音楽としては存在しない。それは何時か演奏され録音され何時でも簡単にコピーされる運命にある。
 それは書籍よりも経済的な価値は劣る。書籍のコピーは原本と随分異なる。そして書籍をコピーするには原本を壊す必要がある事もあるし費用の上でも新本があれば買った方が安あがりで手間がからないしその上美しい、と利点が大きい。音楽のコピーは元のCDと全然内容が変わらない上に費用も殆どからない。Discを見てそれを鑑賞しながらその音楽を聴く訳ではないので・・・・。
 この点から見ると音楽演奏は演奏家にとっては労多くして稔りは少ない。生活の糧にはならない。音楽演奏家(特にクラシック音楽の演奏家)に成ろうという人が後を絶たないのはどうしてか理解に苦しむ。計算能力が無くて未来の見通しの悪い人ばかりがプロの音楽演奏家に成るのかもしれない。
 でも冒頭に述べた原石から美しい音楽の彫像を掘り出す作業は何と言う働き甲斐のある仕事なのでしょう。この仕事を言えばクラシックギターをおいて他にあまりないとも言える。芸術の美の為の純粋な奉仕作業である。例えばバッハ作曲の作品の再生である。
 他に類を見ない素晴らしい(この世のものならぬ)音楽が出来上がったとして、出来上がってしまえば、彫像と違ってどんどんコピーをされて行く。そのコピーは原作と何ら遜色は無く、再生装置が立派であればコピーの方が新しくしかも美しくなる事がある。再生装置が原音を凌駕する音を出す日も来るかもしれない。生の演奏は排除される日も近いはずです。
 そうなると演奏家は演奏解釈家であり演奏解釈の企画家でもあるがスポーツで言えばコーチであるともいえる。実際に演奏する人は単なる作業員でもある。
 音楽の教師はだから、頭脳が優れていて弟子に美音を出させ、それらを構築して一大彫刻のような美的モニュメントの作家になることを目指すことは、未来に置けるその存在価値の主張出来る拠り所ともなり得るのではないか。
 ギター音楽学生はそれらの素材作りの技術習得を目指してその愛する音楽をギターによって作成する機構の成り立ち、機能その他を学び積極的に演奏テクニック以外の美的センスを身につけ自己啓発のみならず、出来上がった美しい彫像作製のイメージを頭に描く事が出来る芸術家指向に徹しなければならない。そうすれば体育大学の先生が多くの美しい体操の出来る生徒を生み出しているように、多くの美しい音楽を生み出す事が出来る生徒を生み出す事になる。スポーツのコーチ乃至教授乃至は先生がギター界において必要とされるようになって行く。
 私の持論である「ギターはオーケストラである」ことが、一人では出来ない夢を現実のものにする未来に於ける夢である。上手くすれば美しいギターを素材とした新しいジャンルの出現でもある。
 演奏家は楽譜の中に眠る美を感じ取り独特の感性でもって今迄誰も気が付かなかったその作品の中に眠る美しい彫像に光を当てる。ミケランジェロの言う大理石の中に既に存在する姿を掘り出すのが演奏家であると考えれば面白い。偉大な作曲家は美しい彫像を大理石の中に眠らせている。


日記 1 =2016年5月22

 前の池の睡蓮が花盛りである。いまや池の表面の2/3近くを覆っている。僕が植えたたったの一株がです。青い葉っぱの上を一羽のカルガモ?が丁度10羽の小さな子供達を連れて歩いている。

(第165回)初心者 (2016/5/10)

 この欄の第151回「初心者は正しいテンポで弾くべきです。」は初心者を教えている時には強調しておかねばなりません。ただし教師は初心者が正しいテンポで弾くように教えていると音楽家として元々持っていた、または持っているべき音楽性をいつの間にか失ってしまう大きな落とし穴にはまってしまう。
 私がチェロの大家、ガスパル・カサド先生に忠告された「音楽を教える事で口に糊するべきでない」との言葉(註)はその事を指していたのかも知れません。音楽家を目指している若者=私=にカサド先生は心配され注言されたのです。音楽家として出来上がるまでは正しいテンポで弾く事と共に音楽的表現力の問題も大切にする事を忘れるべきではありません。
 音楽家を目指している者は弟子を取って正しいテンポで弾くように教えていると自分も音楽は正しいテンポで弾くのが正しいと思い込んでしまい、正しいテンポ=非常に正しいテンポ=弟子よりももっと正しいテンポで弾くようになってしまいます。これが大きな落とし穴で単純な事のようですが非常に大切な事です。
 「先生と言われる程の馬鹿はなし」とは一面の真理です。
(註)ヨーロッパ遊学1年目次の夏までの生活費のご心配からのお言葉でした。

(164回)ギター音楽について一考察 (2016/3/27)

 私は中学、高校の頃、もう7、80年も前でしょうか、電子顕微鏡が発明されてその原理を物理の教室で説明をされていた。何故見えない物が見えるようになって来たのか。
 ギターを習い始めクラシック音楽に目覚め始めた頃、漠然とですが音楽の各音は宇宙の星だと思っていた時期がありました。各音が空中でバランスを上手く取ってお互いの位置を決めているのだと。
 その後科学は急速に進歩して来ました。宇宙のマクロと物質のミクロの世界が解明されて来つつあります。この時に、私はマクロとミクロの中間に住む私共の周辺にもっと目を向けなければと感じています。見ようと思えば見えているが見ない、接写レンズの助けがあれば見える路傍の花その構造の複雑さに思い至るべきです。
 ギター音楽はオーケストラやピアノ、ヴァイオリン(伴奏付き)の大形式の曲目には(もし勝負したとすれば)ずっと負け続けて来た。Andrés Segovia が出現して多くのギターのためのオリジナルな曲目が他楽器のためのオリジナルの曲目に匹敵する立派な(形式、構成、精神的内容等に於いて)曲目出現までは特にそうであり、しかもセゴビア出現以降もギターのために書かれた名曲は大変なテクニックを持たないと演奏出来ないし、如何に音楽的な才能を持っていても指導が、つまり(形式、構成、精神的内容つまり音楽的に高度な知識と完成度等に於いて)完璧に出来る教授クラスのギター指導者はそうざらには居ないという経緯もあってクラシックギター音楽そのものに対する高い評価を得られないまま今日に至っている。
 はっきり言えば音楽家として第一級ではない人達がクラシックギターの教授として音楽学校に雇われて来たと言う事もありギター音楽は悲しい歴史をたどって来た。
 僕の意見としましては、アンドレス・セゴビア の作り上げようとされたギター音楽の仕上がった先は一般音楽(ピアノ、ヴァイオリン)などの大形式の音楽世界に殴り込もうとされた世界であったので、普通のギタリストには刀で大砲と戦いをしようとするような無力感を覚えさせる世界であった。100円、千円単位の持ち金で万ドル単位で動く博打場に乗り込むようなものである。どだい「ごまめの歯ぎしり」を思わせられる悲惨な状況なのでした。気の毒ではあるがこれは確かな観測です。オーケストラの曲をギターで弾くと、アア弾けるのかというだけで、その曲を聞いて音楽として楽しみたい人はオーケストラを聞けばいいので、ギターで弾かれたその曲を2度と聞きたいとは思わないでしょう。

 

(163回) 短文集―14 (2016/2/25)

1)  うぐいす
 今朝、2016年2月10日、居室に座っていると庭先か前の池の土手に鶯が来て啼いてくれた。過日拙文「鶯」を英文にして公開したあの文を知ってか知らずか、今年は初めてわたしの為に来て啼いてくれた。なぜか嬉しくなっている自分を見つめて居る。歌が上手いか下手か等は無い、と鶯は言っているようだ。ハッハッハ・・・・
 わたしが思い出すのはセゴビア先生の言葉、「厚い不能の雲が覆っている、時が経てば風が雲を払って、その上には太陽が燦々と輝いている」です。芸術を解しない精神、不能の雲(impotence)がこの世を覆っている。その所為か、偉大な芸術作品がギターの為に書かれ残されているがそれらの真価は認められていない。空を覆っている厚い雲、impotenceの雲が吹き払われたときその雲の上にそれらの価値高い作品群は太陽のように燦然と光り輝いているだろう。ギターの為に書かれ残された偉大な芸術作品が空を覆っている厚いimpotenceの雲の上に存在している。

2)  タッチ
 タッチとは弦に触れる指の強さとか速さ、爪の当たり具合。それは爪自身の質、爪生来の質、弦に当たる角度とか種々の要因で個人差が出る。力のある指、各関節の柔らかさそして指頭の硬軟と指頭の皮膚の質(油脂分、湿度)等もその点に大きな影響を与える。
 楽器のレスポンス(反応速度)も重要な基準に成るが、奏者の心(その楽器の可能性を信じるか否か)も影響が大である。
 要するにタッチの善し悪しは真のギター音楽、ギターの音を頭に描く事が出来るかどうかも大きな影響を持つ。
 美しいギターの音、本当のギターの音を聞いた事があるかどうか、そしてそれをハッキリと覚えているかどうか。その音で今弾こうとしている曲を頭の中で響かせているかどうか、その頭の中の音楽と音色も含めて今自分が出している音と比較出来るかどうか、CDレコードでの演奏を聞いていてその演奏家が美しいギターの音、本当のギターの音を聞いた事があるか無いかが解るようになれば立派なギター音楽愛好家ですし、第一級のギター音楽愛好家でなければプロフェッショナルなギタリストと自認出来ない。
 ハウザーVさんはギターの演奏を聴くのが好きだ。ギター製作家もギターの音が解っていないと不可ないと私はヤマハの本社でギター制作部の人達への講演を頼まれた時に話してあげた事がある。
 タッチ、タッチと大袈裟に言うが一言で言えば貴方の楽器の持っている最高の美しい音を求めていればそれが貴方の基本のタッチです。それを決して忘れないこと。
 音量の大小は考えない事。
 貴方の楽器の喜ぶ音楽作品がある筈です。それを貴方の楽器の持っている最高の美しい音を使って弾いて上げましょう。まず自分です。

3)   伊丹十三さん
 東京に住んでいた頃小さな会合で私はギター演奏をしたがその時の司会者が伊丹十三さんでかれはしみじみと「ギターはものすごく繊細な楽器で色々な音が出るのですね」と私のギター音楽の感想を言っておられた。
4)   二度聴く
 コンサートで1度聴いただけではよくわからないし、特に初めて聴く曲目、又は演奏(または演奏者)、またギター音楽を聴くのは初めての方であるともう一度弾いて貰った方がよくわかるのではと思います。
 昔アメリカで数曲連続で弾くようにプログラムしていた曲目でその数曲の中間の1つを弾き終わった時大きな拍手が来た。私は多分もう一度それを弾けとの意思表示だろうと思ってその曲をもう一度弾いた。再び大きな拍手が起こった。

5)   失地回復
 セゴビア先生は失地回復をよく言っておられた。
 イスラム国に対して報復を言っているが、あの文明国のフランスでさえ報復に踏み切ろうとしているらしい。クラシックギターはどうか?セゴビア先生のして来られた失地回復はなされただろうか? NO! 多くのクラシックギタリストと称する人たちが真のクラシック音楽へは向かわず中途半端な音楽を演奏してこれぞセゴビア先生の精神を継承したギター音楽なのです、と言わんばかりに。

6)   野球
 私がギタリストになろうと決心した頃、野球選手に金田正一という人がいた。彼は人一倍練習をすると公言していた。人の倍であったか3倍であったかの練習をすると私の耳にまで入って来ていた。
 ギターが上手くなりたいのであればプロにならなければならない、とある東京のギターの先輩に言われたことがある。その言葉を真に受けてわたしは私に習いにくる生徒にまでプロにならなければ上手くなれないと言っていた。その東京のギターの先輩はずっと後になってそう言ったのは貴方にだけですよ、と。
 プロになるからには人より上手くなければならない。私はギターのプロになるのであれば少なくとも人の3倍は稽古しなければと自分自身にノルマを掛けた。私はあいつは上手いと世間で言われなければならないので稽古に励んだ。上手くなるための方法は何でもいい、彼は凄く練習するから上手いのだと言われてもそれは批難されている事にはならないと思った。凄く練習するから上手いのは当たり前だが、そしたら人が出来ない位練習すれば誰も私に付いて来れないだろうと考えた。
 野球に限らずスポーツの記事は指を動かす演奏家の稽古の参考になるコメントが多い。

 

(162回) 路傍の花・ギター音楽 (2016/1/18)

 ギターには単純な曲目が多かった。独奏曲ではなく歌の伴奏に使われる事も多く、ソル、ジュリアーニ(古典音楽時代の著名なギタリスト、ギター音楽作曲家)による幾つかのギターのための大曲を除けば、単純な練習曲であったり内容の貧弱な曲目だとして真面目に演奏したり聞かせたりして来なかった。その事はギター教育に携わる先生方の責任でもあった。
 わたしはギターの練習曲を音楽の様に演奏する事を推奨して来た。ギターの練習曲をピアノで弾くと如何にも内容がなく貧弱な曲になると言う事を嫌という程実感している。ところが私がしているようにギターの小品をコンサート用の音楽であると仮定して演奏すると、何と、複雑な音楽に聞こえるではないか。それは何故か?どうしてか?
 路傍の花です。小さな何でもないように見える路傍の花を充分に信頼出来る接写カメラで撮影し、拡大してみると見た事もないような複雑な花の形がそこに美しく現れる。ギター音楽はそれです。小さいのです。各々の音、一つ一つの音がひとひらの花びらであり花弁でありおしべめしべであるように演奏出来たとしたら驚くべき音楽作品がそこに存在する事を聴き手は発見して驚くでしょう。それは他の楽器では殆んど真似る事が出来ないのではないか。一つ一つの音をそれぞれのパートの人が心を込めて弾く一級のオーケストラ(滅多にない)のように、または自然の神秘のように、一つひとつの音が高貴な珠玉の様に床一面に華麗なホール(広間)にちりばめてあれば目も眩むでしょう。その広間に入った人はぶっ倒れるでしょう。
 そのような音楽を創造する事、それは人間業では不可能であり、神の領域です。オルフェウスの領域です。そう、オルフェウスは一人でそれをやっていました。
 思うに、曲は何でもいい。例えば単音で歌う単純なスペイン民謡。弾き手が神であればそれを聞く人はぶっ倒れます。わたしはそこへ行く手立てを考え、弟子にも伝えようと腐心して居ます。
 このような音楽は、もしこれらの曲を作曲した人に聞かせたとしたら多分ぶっ倒れるかもしれませんが、それは野の花を接写カメラで撮影し、拡大してみせてあげると、見た事もない美しい花に見え、その映して貰った花までも、はっと顔を赤らめるでしょう。それが夢の世界です。
 もう一度言います。
 ギターには単純な曲が多い。練習曲と称され、名も無く、しかも内容、形式、構成の貧弱な曲目を真面目に聞いたり演奏したりしなければならないのに誰も気が付かずそうして来なかった。ギターに携わる人々、演奏家、その人達を教えた先生方の責任でもある。
 ギターに携わる人々はギターの楽曲の作りの小ささのみに目が行っていてその面での貧弱さのみを過大に意識し卑下していた。ギターの高貴な可能性を放棄して、場合によっては無惨な通俗的音楽に奉仕させられている。小さすぎるため、花瓶にさえ生けて華やかな場に飾れないので、低俗で通俗的な音楽に身を委ねてしまっている。
 私の夢は、世界に充満しているすべてのギターが足で踏みつけられ顧みられないでいる野の花のように静かに美しく咲き誇る日が来る事です。
 この方向こそは今後のクラシックギターの進むべき正しい方向であり、クラシックギターと名付けて学ぶにはこの方向しか考え得ないとの認識を持って当然であるという時代が来るべきであると私は確信している。極小の世界が見えて極大の、遠くの世界も身近に感じられる今日の科学の進歩。それにも拘らず、ごく近くの小さな花の美に目をやらない、悲しい現実。

ギター音楽の未来図!
 続編あり!と言いたいのですが?

 

(161回)ノルマの設定と能率 (2016/1/7)

 目標を決めてノルマの達成を求める。その時能率を考えるが・・・・?
 私は何時も能率を主眼にしている。あるとき時間内の能率について考えてみた。
ある難解な文章の1ペ−ジを理解するのに回数か、時間か?
 1ペ−ジ読むのに読むだけなら平均1分の文であれば、たとえば回数とすれば10回読めばそれでOKだとします。時間とすれば10分かかる。時間とすれば10分間あるからその文のある箇所のみをじっと考える事が出来る。
 音楽演奏の勉強ではどちらも必要です。考えて行って下さい。
 曲の場合1日5回を1月練習すれば150回弾いた事になる。それでだいたい身に付いてしまう。その内、20日を回数にして100回、10日を5分の長さの曲なら25分間その曲に毎日割くというのは非常に賢いやり方である。
 私は玄米を食べ始めた時、100回噛むのがよいと教わった。で、100を4で割って4を25回数える事にした。そこで能率を考えて1口に口いっぱい放り込んで100回かめば早く終わると思い付いたがそれはごまかしである事に気が付いた。少しの量、最適の量を口に入れて100回噛むのが理にかなっている。
 ギター学習者への提言。約1分位の長さで演奏テクニックの易しい曲目を見つける。普通1、2回弾けば弾けるし、場合によっては覚えてしまえる。それを10回弾いてみる。その後10分間弾く。その稽古を1月続けると多分その曲目の演奏の名手になっている。一目つまらないと見える曲を選んでやって見て下さい。
 1分位の長さで演奏テクニックの易しい曲目では無くて5分くらいの難曲と置き換えてみると、適量ではなくて口いっぱい頬張って100回噛むようなものです。

 

2015年

この様な文章を綴って皆様の前に公開する事は演奏家に取っては誠に勇気の要る仕事です。
何故ならそれらの言葉を演奏で実証しなければ成らないからです。
クラシックギター発展の役に立つかもしれないと勇気を振り絞って発表して参ります。
スペインの諺に「よく喋るオウムはとばない」とあります。その例外にならなければ!

掲載までもう数日お待下さい。(7月21日)
投稿欄の「振り子」(2015/8/3)投稿者・乾雅祝さんも見る価値があると思います。(8/5)

 

 

(160回) 短文集13 (2015/11/6)

1)  進化
 進化するには今のところに進んだもっとまえの状態になる事が出来るかどうかにかかっています。進化する前の状態です。
 それでそこに戻ってから新しく進化して行くべき枝を見出して(見つけるのは難しい)進んで行く事になります。枝は沢山ありますが独自の枝を作って進んで行きます。元々どこかにまたは誰かが進んで行った道であり存在していた枝であれば目に見えるようなので先端は見えており選択は難しく無いが誰も知らず誰も進んだ事のない道であれば、先が見えない。木に例えれば新しい枝を今まで知られていなかった実と葉を作る予感を持って元の幹から芽を発芽させるのです。

2)  僕の使命
 美しい音で音楽ファン(+クラシックギターファン)を魅了しなければならない。
 セゴビア先生がなそうとされた事の完遂である。
 それにはわたしの露出度を増さねばならないかも。

 (159回)レオポルド・アウアーのヴァイオリン奏法 (2015/10/26)

 アウアーさんは主として陰影(ニュアンス)について書いている。そんな事が言葉で説明出来るだろうか?
 音楽界に於いてクラシックギターの音楽がクラシック音楽演奏の本流であると言われるとしたら、世のギタリスト諸兄は胸を張って強く「そうだ」と受け止められるでしょうか。
 偉大なアンドレス・セゴビアがレオポルド・アウアーのヴァイオリン奏法の様な本をお書きになっておられたら良かったと思います。わたしがこうやって世界の片隅に作った自分のホームページの「ギターと私」欄に書き込んでいる様なサイトを先生が若し持っておられていたとしたらどんなに大きな反響を得ていただろうと想像出来ます。ギター界の発展にとってどんなに大きく寄与をしただろうと、残念です。真実そうですし、そう思われない方はいないでしょう。思えばわたしが絶対に触らないと決心していたワープロを最初に持つ事を決心したのはセゴビア先生の葬式にスペインに行った帰りの機内でした。つまりセゴビア先生の在世中にはこのような簡単に出来るサイトでの心の発表が出来なかった時代であったのは残念至極です。
 セゴビア先生のように完璧に完成した芸術家はその作品(演奏)のみで世にクラシックギターの存在価値を認めさせる事が出来ていたのでしょうがギター関係者一同はあの人は別だと言う安易な評価を下して惰眠をむさぼっていた(いる)のではなかった(ない)でしょうか。天才だと言って別物として奉っていた(いる)のではなかったか?実際私共の仲間として取り扱うのは恐れ多いし格差があり過ぎでした。まあ逃げの一手であったのはセゴビア先生の弟子を自称する人々は恥ずかしいと思わなければなりません。
 人間は必要悪として言葉を持っていてそれに頼るような習性を持ってしまっています。
 セゴビアさんを正しく言葉で評論出来るでしょうか?「ギターは小さな星のオーケストラである」の言葉は、Andre´s Segoviaの音楽をスペインの詩人が述べたものです。セゴビア讃歌です。ギターは小さな星のオーケストラであるは、正しくは「ただし地球よりももっと繊細な人々が住むプラネットのオーケストラである」です。素敵なギター讃歌(ode)ではありませんか。ギターに取っては嬉しく有難い讃歌(ode)です。言葉でギターについて語るとしましたらこのような詩しかないでしょうね。いわく、「ギターで愛を語れ。それに失敗したらチェロを弾き友とかたれ、そしてそれに失敗したらピアノを弾いて演説をしろ。」これらはスペインの詩人のギター讃歌です。チェロやピアノを愛する方々、どうかスペイン人のギター讃歌をお許し下さい。

(158回)「プラテロと私」秘話 (2015/10/26)

 「プラテロと私」による朗読とギターのコンサートには多くの俳優さん(ヨーロッパでも)に共演して頂いて発表してきました。最もよく練習に付き合って下さった朗読者の方々は東京での初演の時の岸田今日子さん、それとコロンビアレコードに録音、その後幾つかの私のコンサートにプラテロと私の朗読者として競演して下さった木村功さん(この散文詩の作者が若いスペインの男性の詩人であったため女性の岸田さんから男性にとの私の要望によってコロンビアレコード社の推薦によって)でした。
 「プラテロと私」はわたしが最も大切に思っていたオリジナルのギター作品集の一つです。最近の録音のCD「サウンド・オブ・ザ・ギター4」に「プラテロと私」から1曲「スズメ」と言う作品を収録している。この作品と演奏、乃至は演奏解釈に感嘆して古くからのわたしの弟子が何度もE-Mail messageで言及して来ていた。その文の一つを此処に引用してみたいと思ったのですがこれを書いた高田君にも私にもそれらのメールは紛失してしまって見出せない。残念です。まあ言って見れば私の子供の頃から良く知っている小鳥達をイメージして解釈をした演奏だったので小鳥の動作等のイマジネーションが素直に音になって録音されたのかも知れません。
 さて・・・・
 「プラテロと私」から発生したわたしに取って、一つの大きな事件がありました。それは、「プラテロと私」を木村功さんの朗読でコロンビアレコードに録音して発売されてしばらくして、超偉大で世界的に著名なドイツのバリトンの、ゲルハルト・ヒュッシュ氏が日本に来ておられる事を知った事から発生しました。私と家内はゲルハルト・ヒュッシュ氏に朗読をして貰って「プラテロと私」を完璧な完成度の仕上がりまで持って行きたいとの熱情(Passion)を持ってしまったのです。ゲルハルト・ヒュッシュはシューベルトの冬の旅など量り知れない詩への理解力と歌唱力で後世に残る大部の録音をSPレコードに残しておられます。そのピアノ伴奏はハンス・ウド・ミュラーが受け持っており、第一時大戦の空襲でウド・ミュラーさんは亡くなられた。ゲルハルト・ヒュッシュ氏はその焼け跡を「ウド・ウド」と叫びながら探して歩かれたという有名な逸話が残っています。そしてそれ以後ヒュッシュさんは他の人の伴奏で歌う事を拒絶しておられたという事でした。
 実状はこうです。ゲルハルト・ヒュッシュ氏にシューベルトのリートを歌うような名解釈で「プラテロと私」の朗読をして頂いたら(もちろん原語のスペイン語、又は英語、ドイツ語など何語でも良い)凄いものが出来るに違いないと私共は思い付き、ゲルハルト・ヒュッシュ氏が日本の名古屋の大学で教鞭をとって居られ、伝え聞いた所によるとこの偉大な世紀の芸術家はそこで冷遇されていらっしゃるらしい。私と家内が思い付いたのはこの方こそ私のギター・ソロとのコラボで「プラテロと私」を朗読して頂いたら歴史的な最高の「プラテロと私」が出来上がると思ったのでした。私共は木村功さんとの「プラテロと私」を作成した学芸部ではなくて、コロンビアレコード社の洋楽部にこの企画を持って行った。何故ならゲルハルト・ヒュッシュ氏は洋楽の愛好家なら知らない人がない世界的なバリトン歌手で洋楽部の方で音楽を愛する方なら、そして商売に徹しておられる営業部の方も、この企画に飛びついて来られるのに違いないと私共は思ったからです。私共の考え方が学芸部の方の逆鱗に触れたらしくそれ以後コロンビアレコードより会社出入り禁止の処断を受けました。歴史的な音楽の録音がこの地上に生まれる事が出来なかった瞬間をお伝えしました。そして日本の文化程度の低さをしみじみと感じさせられました。

お詫びと訂正(2015/10/27)

 ゲルハルト・ヒュッシュと言うべき所エドウィン・フィッシャーとしてしまっていました。読者の方からご指摘を受け気が付きましたのでゲルハルト・ヒュッシュと訂正させて頂きました。エドウィン・フィッシャーでは何の事やら解らなかったと思いお詫び申し上げます。(2015/10/27)

 

(157回)  短文集12(2015/9/20)

1)    一種の罪悪的な時間つぶし
 会社の社長(クラレ)の大原総一郎氏の文章で、ケーベル博士は別の場所で『音楽が天分も才能もない人によって、たんなる遊戯として修められる場合には、わたしはむしろそれを、人を愚味ならしめ、かつ道徳的に堕落させるところの芸術とよび、一種の罪悪的な時間つぶしといいたい」といっておられます。』の文が目につきました。激しく厳しいお話です。
 私にはこのような言葉を吐く気力はありません(松田晃演)。セゴビア先生は「彼らは個人的に会えば素晴らしい人達だ。音楽さえしなければ」と逃げの一手でした。
2)   ラグビー、南アフリカを破って優勝
 日本がラグビーで南アフリカを破って優勝した事が大きなニュースになっている。
 正確な記憶、記録ではないが私の父は私が生まれる少し前まで関大でラグビー部の部長として指導をしていた(らしい)。父はラグビー輸入の初期の時期に英語でラグビーのルール、練習の基礎等を学んで学生たちを指導したのだろうと想像出来る。それは父の会話のそこかしこに英語が交じる事があったからだ。
 私は60年近く前にドルメッチの英文を読んで西洋音楽の何たるかを知ろうとした。私は54年前にスペインで世界第3位入賞を果たしている。その後私の弟子達と私の芸術の理解者達以外には何事も私の能力に関して重大な表彰はされなかったが、昨年はAndre's Segovia亡き後世界でクラシックギターに限らず全てのジャンルに於けるギタリストの中で私の右に出る奏者はいないとの評価を戴いた。日本では報道は0であるがラグビーのこの大騒ぎを見るにつけ自分のして来た事と父の業績を並べてみたくなった。
 父は関大創設時に教授として招かれたが姫路に引っ越して母の実家の「ふとん屋」を継いだらしい。関大では教員室で落第退学をさせられそうなラグビー部の学生を、このもの達がいなかったら関大は世間で評価されないのだぞと他の教授連を諌めて大演説をぶって落第を免れさせたという、私の知る唯一の父の教授時代の武勇伝を耳にした事がある。
 ちなみに私の父はまったくの体育系で音楽はさっぱり解らなかった。唯一解るのはソルのグラン・ソロくらいであった。そこで私はソルのグラン・ソロは大した曲ではないのかも知れないと思う様になっていたかも知れない。

(第156回) 短文集(11) (2015/9/16)

1)   ガラケイ
 「ギターと私」欄のバックナンバー2012年(第71回)を開いて見ているとダーウィン・フィンチのさえずり(2012/2/10)が目に止まった。この文はまさにガラケイの世界であり私の音楽の状態を表している。
2)   セゴビア先生の生涯
 1987年の6月、わたしはセゴビア先生の訃報に接してスペインのマドリッドに急行した。セゴビア先生のお弟子達は1人も来ていなかった。
 わたしはご遺族に招かれて先生の部屋に行って椅子に腰掛けていた。私よりも年配の方が隣に座っておられた。セゴビア先生のご息女であると自己紹介された。私が日本から来たと告げるとその方はしきりに足下を指差して、「私は日本の地球の反対側から来たのだ」といわれた。日本の丁度反対と言えばそれは南米のウルグアイになる。
 話題を探して?「Are you musical?(あなたは音楽をされるのですか?)」と訊ねると「NO,NO,私は音楽の犠牲者です」とのお返事。私が驚いたような顔をすると、父は世界を飛び回っていた。第一時大戦中、ヨーロッパのどこか暗い港から船で父と母と小さかった彼女とで南米に戦火を避けて移住して行かれたこと等話して下さった。(セゴビア先生20才代末の頃か?)
 その会話は今でも私の胸に響いている。世界中の人々から愛され求められた音楽を先生はギターによって紡ぎ出された。先生はその生涯をギターに捧げられた。愛する少女、多分明るく、可愛くて、利発だったこの少女を南米のウルグアイに残して世界を旅された。それは音楽をするものの憧れの生涯であったかもしれないがまた天才の宿命であったのかも。その一方には胸に大きな塞ぎがたい穴がポッカリと空いていたのではないかとも思われます。

3) 聴くと見る
 私はロンドンにいた頃2、3度ロイヤルボタニックガーデン(植物園)に行った事がある。それは昔のロンドンの西郊外、ヒースロウ空港に昇降する飛行機の通り道の真下であった。先日、テレヴィでロンドンのボタニックガーデンの何かが放映されていた。そこで館長さんか担当の女性かが案内と説明をしておられた。彼女はふっと手を伸ばして植物の葉に付いていた虫かなにかを潰しておられた。
 その方の動作を見て、虫は何かの道具でしか潰せないのだと思い込んでいた私は、家の小さな庭の鉢植えの植物に付いている小さな虫どもを手で潰すようになった。何十年の間家の庭の植物はなかなか綺麗にならなかったが手で潰すようになって以後、本当に見違えるようにさっぱりと綺麗な葉っぱを見せてくれるようになっている。若々しい生まれたての葉への手の指の繊細な動きが葉を痛めないのかもしれない。
 ギターによる音楽演奏もそのようです。参考になる様な音楽解釈に応じてふと動く手の指の様子を見てそれを頭に描く事が出来るようになると少々の手間をいとわずそうするようになる。そうすると各音が見違えるようにさっぱりとした綺麗な並びを見せてくれるようになる(事があるかもしれない)。

(155回) 音楽の審判 (2015/9/15)

 審判が居ないと多くのスポーツ競技は成り立たない。良質の審判が必要であるのにいい加減な審判のもとになぜこのスポーツをやっているのだろうと思う事があります。
 音楽は勝負事ではないので、勝ち負けがつかなくて、実に平和な世界ですが、勝ち負けと順位制度、その他日本では報道(結果の報告=新聞評=日本の音楽文化の発展、進化、進歩には不可欠)がない為、特にクラシック音楽に一般大衆に大きな興味を持ってもらえない。
 音楽には批評すると言う行為がありますが、これは点数を付ける為ではなくて芸術行為に対する賛辞または批判として、解説のような役割もはたしています。真の芸術家演奏を批評する事は難しい事です。偉大な音楽家としての評価を得ている人(大家です)は、批評の対象にはなりません。詩人がその演奏について詩を書き賛美するという事くらいでしょうか。
 今思い出しました。私がまだ駆け出しの頃、あるレコード会社からレコード(LP)を出して頂いた。その時そのレコードのカヴァーの解説に当たっている方の肩書きが「詩人」であった。若い駆け出しの私はれっきとした音楽評論家に書いて欲しかったと思ったと思います。わたしは何と馬鹿だったのでしょう。
 ここで解りやすく説明する為に料理の助けを借ります。「註=(第124回) ピアノはレシピの通り (2014/10/11)参照」わたしは焼き飯作りが上手いと女房に言われます。でも一寸でも味にピッタリ来ない所があると今日の焼き飯はこう言う点がこうこう違うと女房に指摘をされ、それによって私は焼き飯調理の腕が上がって来ます。私は決して調理が上手くなりたいと願った事はありませんし、料理をする事はが好きでもありません。(為念)
 これ(料理で言えば正しく的確な評価)が批評の非常に大切なポイントです。音楽もそうです。評論家は評価を間違えないようにしなければなりません。間違った評価がまかり通っていると一般大衆はその意見についてくるので、それがその社会の文化水準になります。わたしはと言えば、多分音楽評論家のご意見に惑わされる事はないでしょうが、一般には、自分の演奏について正しく的確な批評があれば教えられその奏者は上達が助けられる事が多いと思います。若い方、新人の方はたいていは人の意見に惑わされるでしょう。そうであるかそうでないかは別としてわたしは今のコンクールは無い方が好いと思いますし、応募しない方が良いし、ましてや、コンクール(今の制度によるコンクール)を目標に芸術的音楽家を目指して稽古をしても意味がないでしょう。コンクールとは名前が悪いのであってギター競演会とでもすれば好いのでしょうか。でもそうすれば主催者はお金が取れないから駄目なのかも知れません。
 私には私的な評論家、乃至は批評家がいます。絶対服従です。その方は??? わたくしの脳みそです。
 教室を張っている先生方も生徒へのアドヴァイスには生徒の未来の成長に重大な影響力がある事を何時も念頭に置いていて頂きたい。そして生徒さんがその生徒ご自身の立派な評論家になられるべく指導してあげる事は最も大切な事です。生徒自身をその生徒さんの評論家にさせて上げるべく指導をなさって下さい。
 「民度が低い」等と言うその社会(クラシックギターの社会)が不名誉な烙印を押されない為にも、コンクールの審査員の先生方は責任のある判断をなさって頂きたいと思います。
 コンクールに入賞される方がわたしの所に習いに来られる事がありますが、音楽的に私と違った方向の音楽を目指して進んで行っておられるのには強く落胆させられます。
 わたしは高校生の頃、大阪のコンクールに出場した事があります。その時わたしは興味本位で他の出演者の演奏を聴いて、ああ自分は絶対に一位になったなと思いました。ところが第5位まで紙に書いて張り出されましたが、第5位に私の名を挙げておられた審査員の先生は中野二郎先生ただ一人でした。たとえ第5位であっても私の名を入れられた中野先生は偉かったのだと今では思いますが、なぜ一位にされなかったのだろうとは思いますが。
 わたしはコンクール等で芸術に優劣をつけるのは不可能な事だと思っています。ただ聞く耳があればこの奏者は何を言わんとしているのかが解るのではとは思います。ただ拙劣な指で素晴らしい芸術的な話をギターによって語られても楽しくならないかも知れません。Andre´s Segovia編のBrahmsのワルツをギターで弾いているとしますと、その弾き手が音楽に真摯であれば、偉大なBrahmsがギターを通して、真っ直ぐに語りかけてくれているような錯覚を覚えさせられる事さえあるでしょう。わたしの場合昔からソルの易しい楽曲を弾いていると必ずソルがギターを通して僕にまたはその楽曲を聴いている人に語りかけているのだと感じる事が出来るように思っていました。
 囲碁将棋などの勝負事には記録係があれば好いだけで審判は要りません。見学者を楽しませる為に解説者があれば充分です。解説者が天才か名手であればそのゲームはもっと楽しく、面白くなります。人間のプロの名人に勝つようなコンピュータが解説すればまた別の面白さが出るかも知れませんね。結果としては勝敗が付くので正しいのは勝者です。
 もし偉大なアンドレス・セゴビアのような人がギターの演奏の解説をしていたとすると想像を絶して面白かったのではないかと思いますし、(ギター)音楽発展とギタリストの良否を理解出来る大衆を育て、音楽を聴く楽しみと喜びを膨らませる事に大きな刺激を与えられたかも知れない事は確かでしょうね。ただ演奏を逐一残していて下さったのは全く願ってもない幸運だったとしかいえません。もしこれが150年前の様に録音技術のない時代だったとしたら、Andre´s Segoviaと言うギターの名手がいてすごかったらしい、と言う伝説のみしか残らなかった事になってしまっていたでしょう。例えばバッハ、リスト、ショパン、パガニーニらのように。これらの人の演奏については同時代の音楽家もしくは詩人(ボードレール等の)、もしくは弟子、友人の残した文章によって知る以外には手だてはありません・・・・・。ショパンがポーランドからパリに来てデビューした時、シューマンは雑誌に「諸君、天才だ、脱帽しろ=シャポー」と言ったと言う有名な話があります。これらの人たちの音楽は音としては幽かなかけらも残っていません。

(154回) 短文集 (10)(2015/9/11)

1)   方正化
 わたしは方正化を体験した事がある。以下は信じて頂けないかも知れないが、13、4才の頃(第二時大戦直後)わたしは毎年淡路島の洲本に海水浴に行っていた。父と同業の人で水泳のうまい人が淡路島の洲本の出身の方で少年の私に「私は元国体に出場した水泳の選手で、君にその泳ぎを見せてあげる」と言って洲本の海岸の海水浴場の浅い所を右から左に、左から右にとゆっくりと泳いでみせて下さった。その泳ぎの素晴らしかった事。小さかった私の目に焼き付いた。顔を半分水面に出して口を半分開けて息をするあのクロールです。
 それから約30年後私はアルハンブラでセゴビア先生の映画撮影を終わったあと、紀州のホテルで弟子達を集めて開催した合宿のプールで何人かの弟子のまえでクロールをやってみせた。スペインやイタリアの夏期講習では何度もプールで泳いで楽しんだが、私はクロールを一度も試してみた事がなかったので、出来るとは思っていなかった。ところが自分でも驚く程、完全に美しく泳げた。
 ある演奏を心底感心して聴いて覚えていて、あとは何もしないで頭の中に置いておくといつの間にか完璧な形になってしまう事もあるのかも知れません。
 これが前回掲載した153回「 続モウドリの2(セゴビアの演奏)」についての極意です。心理学で言われている方正化を現実にわたしが経験した事を諸君にお伝えしておきました。方正化とはある形を見て何時間か、何日か、何年かは解らないがその形が脳味噌の中で素晴らしい理想の形(方正形=その事象の持つべき正しい形)になってしまう事を言うのだと思います。
 ご参考までに言っておきますがAndre´s Segoviaの演奏を聴いて心の底から感激したなら、その演奏(演奏解釈=音そのもの)が方正化されて、あなたの心の中の芸術世界に於いてAndre´s Segoviaとは異なる形で完璧な姿に変容し、恐ろしい程真実の音楽がギターによって紡ぎだされるでしょう。ただし、多分Andre´s Segoviaの演奏を聴いて心の底から感激したならある期間その曲を弾かないで心の中に暖めておく事も方正化のためには必要なのかも知れません。たいていの人は心安く(安易な気持ちで)Andre´s Segoviaの演奏を不完全に真似て弾くから、方正化する時間も熟成する時間もないまま自己流になってしまうのかも知れません。
 あなたの指が出来上がっていたとしましたら、それこそがエドガー・アラン・ポーが言っている個性ある芸術であり人に誇る事が出来、人を説得出来る芸術的アールヒーヴになった音楽演奏なのではないでしょうか。
 ギターを知らない人には理解して頂けないお話をしてしまいました。失礼。

2)   関連記事
 望みを叶えるには(136回) 短文集−6の2(2015/2/19)を参考になさって下さい。

3)   真贋
 オリンピックのエンブレムの真贋が問題になっている。
 この世のものはある意味、すべてコピーであるとわたしは思っている。
 全ての生き物はコピーです。コピーであっても生きていないと駄目です。
 さて、何かを真似て作ったとしましても作者(真似た人)の頭脳の中で、生きて来た年月の中で方正化されていたらそれは本物なのではないでしょうか。
1)の「方正化」をお読みになった方にはその事が真実であるとご理解頂けると思います。

4)   感染症予防の手洗い
 手洗いの大切さをテレヴィ等で教えているが、その方法は、水道を出して手を濡らし、水道を出したままにせずに止めてから消毒用の石けんを手に取り、心行くまで手を洗います。この最も大切なやり方を教えないのは片手落ちでしょう。

(153回) 続モウドリの2(セゴビアの演奏)(2015/8/27)

 ある時わたしはMaestro Segovia は何年間もの間、ある曲を完全に同じ演奏をしておられる事に気が付いた。Maestro Segovia の脳の中にも天才的な演奏家が居たのでは。
 先生にコンサートのあと、「素晴らしい演奏を有難うございました」と御礼を言うと「Don’t mention it.」と言う返事が返って来たと以前にも書いた事がありますが、「どう致しまして」とも言えますが「そんな事は無い」とも訳せない事は無いしまた「それについては何も言うな」とも訳せます。頭の中に居る天才的な演奏家の演奏に比べておられたのかも知れない事を知らなかったわたしには何と先生は謙虚な方だなと思ったことでした。
 頭の中に居る天才的な演奏家はいつも同じ演奏をしているのです。だからMaestro Segovia は昔も今も殆ど同じ演奏をしておられたのです。
 それに反し、弾くたびに異なる演奏をする演奏家がいます。その演奏家の脳みそのなかには天才的な演奏家は住んでいないのかも知れません。超著名な演奏家(大家=ギタリストではありません)が居られて、その方はあの日のあの時のあの曲の演奏は素晴らしかった、上手く行った、等と言われていたのを私の若い頃に聞いて(読んで)わたしは凄いなあ、偉い人は違うなあ等と憧れを抱いていた事もありましたが、Maestro Segovia はその程度ではなかったのだと、今や、ギター音楽を演奏したMaestro Segovia の真の偉大さを、他の楽器奏者とはレベルが違う芸術家だったのだと得心している次第です。弾くたびに異なる演奏をする演奏家=大家もやはり天才的な演奏家が脳内にいてその通り弾けたり弾けなかったりの生涯だったのかもしれないと言う事も出来ます。
 再び言いますが『天才の演奏を頭に描いての演奏が出来る、又はしている奏者は天才の演奏を凌駕する事は殆ど不可能です。ですから生涯において同じ演奏解釈で演奏していられるのです。飽きるという事がないのです。その意味では多分引退は無いのでしょう。』また天才的な音楽演奏にはその為には超絶的なテクニックの習得が不可欠ですが、頭で鳴っているので、テクニックが衰えても、『この世のものならぬ音楽演奏』は出来るに違い在りません。
 私にはセゴビア先生はそう思って演奏し勉強し生きておられたのだと今は信じています。
 レッスンでは先生は生徒に自分と異なる発想を指示されることが多くありました(私は先生が先生の何時もの演奏解釈と異なる発想を弟子に指示される?????おかしいな????等の事)、そのときセゴビア先生は一種楽しんでおられたのかも知れません。先生の頭の中に居る天才的な演奏家と違って普通の超有名な演奏家ならこう弾くだろう等と思われるような発想とか運指を伝えながらレッスンをしておられたのに違いない。この弟子の感性でこの曲目を完成させるとしたらここはこう弾けば良い、等と言った意味での遊びの演奏解釈だったのかも知れません。
 註=モウドリとはサッカーの選手が練習の時、妄想的な天才的なディフェンダーがいてそれをかわすためのドリブルの練習をするのを妄想的ドリブルつまりモウドリと省略したものです。

(152回) アーノルド・ドルメッチ (2015/8/26)

 近代、近年の音楽いついてはもう一度西洋音楽について虚心に勉強し直すべきです。
 アーノルド・ドルメッチ(Arnold Dolmetsch、1858年2月24日 - 1940年2月28日)の「17、8世紀の音楽解釈」を読み直して頂きたい。先日偶然本棚にめぼしい本はないかと探していたらこの本が在った。取り出して見るとなつかしや、軽井沢でご一緒したヴィオラの朝妻先生の翻訳で本の帯の推薦文は軽井沢でご一緒したフリュートの吉田正雄先生が書いておられる。このご両人とチェロの青木十郎先生と私の4人でシューベルトのギターを含む四重奏を公演した事を(好演でもあった)思い出して懐かしい。
 読んでいるとわたしが1958年に神戸の古本屋で原書を買って読んだ事があり上記の日本版は読んでいない事が解った。まあ、よくこんな難しい本を読もうとしたものだと感心する。日本で音楽を勉強する為にはあらゆる努力が必要であった時代もあったのだなあと感じ入る。なにしろ493ペ−ジもあり1916年初版の著作である。(私は例のごとく解る所だけー、気に入った所だけ、ー飛ばし読みの名人であるらしいので読めたのだと思います。)
 不勉強な私は(でもないか)ドルメッチのSPレコードも買っており、何度か聴いた記憶はあるが、本の方は真面目に読んだ記憶はない。今読んでみると実に興味深い。音楽演奏の常識のような事が、そして今では多くの世界の音楽家が忘れてしまっているような事について正しい考え方が書いてある。ドルメッチさんはまず、・・・・えーーーーい、面倒くさい。・・・自分で読んでもらわないと解らない。全体に読み直す前にパラパラとペ−ジをめくってみると実に微妙でしかも重要な項目が数多く見当たる。非常に大切で音楽解釈、音楽演奏に取って重要な事がいっぱい書いてある。
 フレスコバルディの記譜法については、冒頭に西洋音楽に毒された我々と言いましたが人類が進歩していないと言う多くの芸術家の言葉に思い至る。
 この本を昔読んで記憶に残っているのはドルメッチはハープシコードこそはどの楽器よりも繊細で表現力に富むと書いている。そう言われるとレコードを買って聴かなければならない。残念ながらそのSPレコードではその良さが解る所までは行かなかった。
 ギタリストとしての私が今言える事は、ギターこそは器楽器の中でももっとも美しい、楽器の中の女王です。私のギター演奏を聴いてギター関係者以外の方からお褒め頂いています。何れも「わたしの楽器ではあのように演奏乃至演奏解釈は出来ない。」
 今気が付いた事は、それぞれの楽器の可能性を究極まで追求して成功したその楽器の奏者は当然ながらその楽器がこの世で最高の楽器であると信じ込んでいる事は疑えない。
 註=Andre´s Segovia 曰く「ハープシコードは風邪をひいたギターだ」

(151回) 楽譜と方眼紙 (2015/8/26)

 ドルメッチの本(「17、8世紀の音楽解釈」)を読んでいるといろいろと解ってくる事があります。
 楽譜は演奏された音楽を方眼紙に書き込んだ記号である。
 昔の人が演奏した「ぐねぐねとした音楽」を知恵を絞って記号化して残そうとして発展して来た図面が楽譜です。楽譜を元のぐねぐねとした音楽にもどすのが演奏家の仕事です。
 完全に同じ長さ、同じ強さの拍などは一つとして無いと考えるべきです。
 また楽譜は作者の覚え書きだと思って下さい。1例として、楽譜に書いてあるからと言って必ずしも全曲を弾かなくても良いという事で、それは昔は自明の理であったそうです。梃に合わない部分があれば合うように弾いても、作者は弾いてもらわないでお蔵入りしたままで日の目を見ないよりも多分喜ばれると思います。ヴァリエーションも難しいヴァリエーションはとばしてもいいし、難しくなくても入れたく無ければ入れなくても良いようです。
 長過ぎる曲は短くした方が正解であるとも言えるそうです。
 わたしはある意味では下手な演奏は無い方が良いと何時も言っています。
 初心者は正しいテンポで弾くべきです。テンポを自由に扱えるようになれば前述の同じ長さ、同じ強さの拍などは一つとして無いと考えて美しく、輝かしく、楽しく、など個性的な発想をもって演奏するようになってほしいのですが、初めの「正しいテンポで弾くこと」が身に付いてしまって生涯それをやっているようでは音楽には縁のない人生を過ごす事になります。

(150回) シンシナティー (2015/8/25)

 昨夜テレヴィを見ているとテニスのジョコヴィッチとフェドラー(優勝)がシンシナティーで決勝戦をしていました。 私はアメリカ・ツアーでシンシナティーには2、3度行っています。タフト・ミュージアムでも演奏しましたが、一般のホールで演奏した時、会場の下見に行くと会場の管理者が「こんな素晴らしい音のするホールでこの人(私のこと)は弾いた事が無いでしょう」と言うと私を連れて行ったコンサートの主催者はすかさず「こんな素晴らしい演奏をこのホールは聴いた事が無いでしょう」と言い返しました。面白い会話のやり取りでしたのでその事を思い出しました。(その日わたしはスタンディングオーヴェイションを頂きました。)

(149回) 芸術的演奏解釈を目指す (2015/8/24)

 通信教育の教材の模範演奏に関しては、初心者は知的能力が最低だとの考え方で制作発売されていた。一体、「1から3または4まで数えられない人のため」との前提のもとに模範演奏をしていた、させていた、またはさせられていたように思えました。それはギターを弾きたいと思う人が白痴かなにかだとの蔑視から始まったのではないでしょうか。ギターでなくても初心者は音楽的にはそのようなレベルであると思われていたようです。
 音楽においては1と言う単位はないと思います。1と言う単位は無限です。例えば木の葉が1枚づつ異なるように。米粒でも1つづつ違います。だから名人の1と2を真似る事は音楽演奏においては真の理解力を持ってするか、気の狂った、または正常ではない精神でするかしかありません。(米粒一つでも人間には造れない)それで真似る事を恐れてはなりません。面倒くさいと思ってはなりません。名人の1と2は、ある恐ろしく完成した1と2なのですから。不可能な事かもしれませんが真似る事をつとめる(努力する)値打ちはあります。
 エドガー・アラン・ポーの文に“個性なるものは理性ある人間の穏健な考え方の中に存在する。しかして、個人なる語によって我々の理解するのは理性をそなえた知的実在であり、また常に思考に伴う意識というものが存するが故に、この意識こそわれわれすべてを、いわゆる「我々自身」にさせるのであり、他の同じく考える存在と区別し我々に個人性を与えてくれるのである。”とありました。これらの言葉は真の芸術家を見出し、目指して学び、素直に従おう(真似よう)とするもの(芸術家志望者)に取っては記憶しておくべき至言でありましょう。
 「他の同じく考える存在」とは我々が見本とする名手=偉大な先人の事です。

(148回) レアビット (2015/8/23)

 最近レアビットをちょくちょく食べている。
 以前に出版した「ギターは小さな星のオーケストラ」のうさぎの項にレアビットの作り方を載せているのでここに引用しておきます。
$ うさぎ
 英語で野兎のことをヘアー(HARE)、家畜の兎のことをラビット(RABIT)という。
 ジョン・ウィリアムスにロンドンでギターを学んでいた頃、ジョンはこれを食べると音が良くなるのだといって、よくチーズを食べていた。ギター演奏は爪がよくなければ良い音がしないのだが、ギターを弾くための理想的な爪は、強くて柔らかく、弾力的であること、要するに健康な爪が良いとされる。私もそれならとよくチーズを食べていたが、ジョンが教えてくれたのは、トーストにチーズを乗せそれをオーヴンで焼いたもので、「これはウェールズ風の料理でレアビットという」といっていた。私は冗談好きのジョンは、ラビットのことをわざとなまって発音しているのだと思っていたが、ウェールズ地方では、兎のことをレアビット(RAREBIT)というらしい。(HAREとRABITをくっつけたような感じ)。
 近頃女房がチーズを乗せて焼いたトーストが美味しいといって作り始め、私も毎朝食べているが、それはこのレアビット、正確にはWELSH RAREBITである。
 我が家でのWELSH RAREBITの作り方をここに紹介しておく。神戸のフロインドリーブで買ってきたドイツ風黒パン(PUMPERNICKEL)を薄く切り、また神戸グローサーズでドイツから直輸入したPUMPERNICKEL(初めから薄く切ってある黒パン)をオーヴン・トースターで焼いてバターを薄く塗り、その上にスコティッシュ・レッド・チェダー(近頃では大抵のちょっと気の利いたスーパーとかデパチカで売っているが、簡単にレッド・チェダーとも言われている)を2、3ミリの厚さに切って乗せ、もう一度トースターで軽く焼くと出来上がり。
 もちろん、生野菜を添える。こんなに美味しい食べ物は滅多にあるものではない。パンは堅い黒パンが最高であるが、手に入らなければ、白パンでもよい。近所の方に食べさせてあげたところ「これを食べるのは生きている幸せだ」といわれたこともあったくらいであるから是非一度試してみられるといい。

(147回) 溜とは (2015/8/20)

 先日お坊さんが数人出演されているテレヴィ番組でゴルゴ13の大ファンのお坊さんがそのなかにいらっしゃった。ゴルゴの作者の実兄、斎藤発司さんは私の大学の同級ですが、彼がゴルゴの会社を創設したのだと私は聴いている。
 同窓会で斎藤君の「きみはギターが上手いそうだが、“禁じられた遊び”を弾いてくれ。あの曲なら君がギターが上手いか下手かわかる」の言葉に私はその曲を弾いた。斎藤「わかった」
 最近偶然、テレヴィでお寺の鐘をつく場面が放映されていた。それを見てこれこそは「溜の実例」だと感じた。音楽演奏の極意です。ここに述べるのは惜しい気もしますがお教えします。私は近所のお坊さんにギターを教えられた。お寺の鐘の事を先生は私に講釈をされていたのを思い出す。
 テレヴィでも何でも良いから日本人なら頭に鐘突きの情景を思い浮かべる事が出来るでしょう。鐘をつくと「しばらく」してから音が聞こえてきます。日本人なら頭に思い浮かべられるはずです。この「暫く」が「溜」の実例です。頭に思い浮かべられない人はどこか鐘(の音)で有名なお寺に行ってみて下さい。
 私のお坊さん先生の講釈では、鐘は内側にぐるぐると蛇のように太い金属が巻き付けてある。その巻き付け方いかんによって音色と、音の揺れ(暫くしてから“ウワンウワンウワン”と言い始める)、そして持続性が違ってくるのだ、と。この文を書いている間に、私の儚い記憶の隅から出て来た蘊蓄話です。でもこれは実に大雑把な話ですが。
 この文頭の、易しい曲をどう弾くか、弾けるか、は天性のものなのでしょうが、溜があるか、それをどう理解され実現しているかを説明し、伝えるのは難しい。
 昔、中学生の頃、お能を研究している方が偶然私のギター演奏(ソルのメヌエットかなにか)を聴かれて、「貴殿の音楽演奏には“間”がある」とのご評価を下さった事がある。私はその件を深く考えた事はなかったが、つい最近ある熱心な弟子(14年間私の全レッスン皆勤)に「先生のあの易しい曲がどうしてもあのように弾けない。どうすれば好いのでしょう?」と真面目な顔をして聴かれ、その問題がずっと悩ましく頭にこびりついていた。思い浮かんだのが「溜」であり、そこに偶然テレヴィでお寺の鐘をつく映像が目に付き、私は「アレッ」と膝を打った。これは重大な芸術の秘密ではあるし公開すべきかどうか、迷ったのだが、原稿だけは残しておこうとタイプ(ワープロ)に向かって座っている次第。(2015/8/12)

(146回) 短文集−9 (2015/8/17)

1)   マッサンと松田晃演の考察
  NHKの連続ドラマ「マッサン」が終わろうとしている。中森良二氏の投稿欄(2014/11/6)の「マッサンと松田晃演の考察」をもう一度お読み下さい。
 Andre´s Segoviaに日本で「貴方のような若者がヨーロッパに行って音楽を勉強すべきだ。」と中森良二さんの投稿欄のようにいわれて、ヨーロッパにきてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラであの偉大なるAndre´s Segoviaのレッスンを初めて受けた時、ソルのソナタOP.15を弾きました。弾き終わるとセゴビア先生は隣に座っておられたタンスマンさんとなにやらひそひそとささやかれた後「Japan now has a guitarist」と言われました。もうそれは50年以上前の事になります。

2)   「Japan now has a guitarist」
 今にして思いますと、この言葉はセゴビア先生のものかタンスマンさんの言葉かは解りません。あのAndre´s Segoviaの夏期講習会の後アメリカ演奏旅行に私を招待してくれたジム・ノリスさん(故人)がアメリカで使い始めたものですし、大声で「Japan now has a guitarist」と言われたのは確かにセゴビア先生だったのですからそれはそれで正しかったのでしょうが?ジム・ノリスは私のアメリカ公演を成功させるためセゴビア先生のネイムヴァリューを利用したかったのかも知れません???
 セゴビア先生はタンスマンさんとヒソヒソと話された後にこの言葉を発しられたのは事実です。

3)   生まれて来てよかった。
 一度でもギターを手にした人は生涯ギターを弾く事を止めないと言われています。ギターからはなれていた人もギターに戻ってきます。
 わたしは何の恐れも無くギター演奏家になりギターと一緒に生涯を終えられると信じて人生の門出をしました。それは神戸大学経済学部を卒業した時でした。1点の迷いも無く、JRの六甲道の駅に大きな看板を出し、先ずはギター教室を開き生活の糧にしようと計画を立てました。
 無謀な人生計画でしたが今になりますと生まれて来てよかった、生まれて来てギターを弾いていてよかったと思っています。

4)   声優のはまり役
 ある著名な劇に、ある声優の吹き替えの声ががぴったりであったとしましたら、その役は他の人では代役は出来ない。それはある作曲家の演奏と演奏解釈がもしある演奏家にぴったりであったとしたら他の演奏家がその作曲家の演奏をどの様に弾いても間違っているとしか、または好い音楽であるとは受けとられない。
 解りやすく言えばクリント・イーストウッドの日本の声優さんの声(語り口)は他の声優では代用出来ない位すっかりクリント・イーストウッドそのものに成り切っている。クリント・イーストウッド本人の声でも日本人のファンには満足してもらえないほどのはまり役である。
 これは大変な事で西洋人の発想が(感情においても)日本人に出来るというエヴィデンス(事例)であり、音楽家にも大きな可能性を示してくれる実例とは言える。西洋音楽に関して日本人が音楽的音楽解釈を思い切って出来ても不思議ではない事例でもある。
 一例を上げれば、J.S.バッハのプレリュードとドーブルのフーベルマンの演奏です。出色の演奏解釈です。コジツケに聞こえるかもしれませんが、フーベルマンのこの曲に心を奪われた事のある方はフーベルマン以外の人のこの曲目は物足りないかも知れません。こうしかないと言うこの曲の演奏でありまして、私共演奏家はどの曲を演奏するにしましてもこうしかないと言う演奏解釈を日夜探し求めていると言えます。
 例えば翻訳物でもその事は言えます。好い翻訳家の訳で読むと非常に解りやすい。

 

(145回) 短文集−8 (2015/8/10)

1)   エドガー・アラン・ポーの言う個性
 エドガー・アラン・ポーの文に“個性なるものは理性ある人間の穏健な考え方の中に存在する。しかして、個人なる語によって我々の理解するのは理性をそなえた知的実在であり、また常に思考に伴う意識というものが存するが故に、この意識こそわれわれすべてを、いわゆる「我々自身」にさせるのであり、他の同じく考える存在と区別し我々に個人性を与えてくれるのである。”とありました。これらの言葉は真の芸術家を見出し、目指して学び、素直に従おう(真似よう)とするものに取っては記憶しておくべき至言でありましょう。
 「他の同じく考える存在」とは我々が見本とする名手=偉大な先人の事でしょうか。

2)    コーチ
 この間テレヴィで将棋の名人羽生さんとチェスの元名人の対談があった。
 わたしが最も興味を覚えた事は日本の将棋にはコーチがいなくて西洋の将棋のチェスにはコーチがいるのです。わたしに取っては非常に興味深い話でした。ギタリストにコーチがいない事は私のように年を取ってくると残念な事のように感じていました。
 でもわたしの様にある意味では出来上がって居る演奏家に対してものが言えるコーチが居るでしょうか。でも先生ではなくてコーチなら存在出来るのではないでしょうか?逆に、私がコーチになり得る素質はあるのでしょうか。私を雇って給料を支払うギタリスト演奏家、そして向上心を失っていない演奏家はいるでしょうか?私がコーチを雇う場合にはコーチの資格検査をします。そう言う出来上がった方は私と仲良く遣って行けるでしょうか。
 私が資格ありと認めた方は音楽の理解力が勝れて、しかもギター演奏についてはたぐいまれな知識をお持ちでなければならない。

3)    内村航平君
 「尽善尽美」をわたしは言っていますが2500年前に孔子さんも言っておられた事を最近発見しました。そして体操の航平君もそれと同じ意味の事を言ったり考えたりしています。彼は6年間世界で無敗であるとか。凄い。美しさを求めた器械体操。
 わたしはセゴビア先生の亡き後クラシックギターもエレキギターもひっくるめてわたしを超える人が出ていないと言われている。これも凄い事なのかも知れません。何しろ28年の間世界チャンピオンの座を守り抜いて来たのだから。
 わたしは「尽善尽美」で生きている。それは人生において美を求める事以外に価値を置かない事です。すべてが美に奉仕しなければ成らない。

 
4)    ストラヴィンスキー
 1959年大阪朝日国際音楽フェスティヴァルでわたしは初めてAndre´s Segoviaの生の演奏を聞いた。何と言う興奮であったでしょう。ギター一辺倒であり、私に取ってはものすごく記念すべき年で、忘れる事が出来ない年でもある。あれだけの大興奮をしてわたしはギターをやっていてよかった、ギターをしていたからこその大興奮だったのだと正直そう思いました。
 その年の朝日国際音楽フェスティヴァル大阪にストラヴィンスキーがN響を指揮された事を今日(2015/5/23)知った。セゴビア先生はマリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコのコンチェルトを読売交響楽団、朝比奈隆さんの指揮で弾かれ、わたしは読売テレヴィの放送の為の中継車に陣取って、カメラの選択を任されていた。(セゴビア先生は1980年来日の時にあのコンチェルトは東京でのコンチェルトの渡辺暁夫に比べると大阪のオケはよくなかったと20年以上前の事を良く覚えておられた)

5)   読者の注意を喚起しておきたい事があります。最新の投稿欄「振り子」をお読み下さい。

 (144回) 続モウドリ(2015/8/5)

 モウドリを言ってきましたが、私の弟子の一人が経営する私が名付け親である喫茶店「リオ」(JR甲子園のすぐ南)では私の演奏を何時でも鳴らしています。その弟子はいつの間にか上手くなって来ている。「天才の演奏を頭に描いての練習」は、だから可能である、誰方にでも可能である、と言う実例をお示ししました。
 ある人物の演奏を頭に叩き込んでおくとそのもとの人物の演奏よりもっと完璧な音楽演奏(つまり天才による演奏)、が頭の中で鳴り始めます。嘘ではありませんが、難点はその人物の演奏、演奏解釈があなたの心に響かないと何度も聞く事が出来ません。何度聞いても飽きのこない演奏でなくてはならないのはもちろんの事でしょう。
 何度も言いますが、その名手を素直な心で見つけ出し何時も心に響かせている事は真実大切な事です。
 その人物の演奏が頭で鳴り始めたら、真似事になるとの心配する必要はありません。頭の中で鳴らしておけばいいのです。その元の演奏を凌駕してあなたの頭の中で鳴り始めるのは時間の問題です。ただし私の言うのは頭でその元の演奏を凌駕する音楽がなり始めるという事です。あってその元の演奏を凌駕してあなたの頭の中で鳴り始めた音楽の演奏が出来る様になるとは言っていません。その為にはサッカーの宇佐見君のように猛烈な稽古をする事が出来るあなたでなければなりません。天才的な演奏はそこから生まれます。そうすれば誰でも天才的な演奏家になれるのではないかと私は信じています。
 天才の演奏を頭に描いての演奏であるが天才の演奏を凌駕する事は殆ど不可能です。天才的な音楽演奏にはその為には超絶的なテクニックの習得が不可欠ですから。宇佐見君が仮想の天才の守りを抜いてゴールする事が出来ないのと同じです。
 上達への提言でした。

(143回) ギターで哲学 (2015/7/28)

 ギターで哲学が出来るとしたら新たなギターの愛好家の増加が見込めよう。ギターで哲学と言うと大袈裟です。ギターで物を感じ考えましょう!ギター界の新陳代謝だ!!!
 ものを考えない人を淘汰して物を考える人がギターの世界に入れ替わって来る。知的な(頭を使いたい)人、感受性豊かな人の知的遊具になる。
 人類の作った多くの思索的な言葉を網羅した表現を音楽によってして、ギターによるゴージャスなゴブラン織りを織る事が出来るというコンセプトによれば真のギター人口が増加するかもしれないという思い。人口密度ではなくて、密度の高いギター愛好家、ギター音楽愛好家が増えるのではと私は一縷の望みを抱いています。
 スマホのユーチューブで私の名前、まつだと入れると私の最も忌み嫌う松田聖子の名前が最初に出てくる。そこであきのぶともう3文字加えると私の音楽に出会えます。バッハとポンセです。あれらの演奏をして以来私はある意味で本来の私の音楽の傾向に戻って行った。つまり、大衆を意識しないで自分に語りかける音楽の演奏です。ずっと昔アメリカでいみじくも私のコンサートの演奏評として「マツダ は自分自身に語りかけるように演奏をしている」とあった事がある。それはずっと前の事だが(原文あり)私は本質的に、自分自身の為に音楽を演奏してきた。もう一言、(悪い癖ですが)加えると「一般大衆の為に演奏するという事は、通俗的な音楽の演奏のみに許される事であって、クラシック音楽にはあってはならない事です。なぜなら、クラシック音楽は選ばれた人間の為の音楽ですから」(クラシックとは選別するという意味です)一般大衆とは人間として平均的な知性と品性を持つ人々の事です。
 ただ私は自分はそんなに偉い人間であるとは爪の垢ほども思ってはならないと自戒している。ただ自分は流行歌等のカラオケを歌って現(うつつ)を抜かしている人々とは別世界に住んでいるのではないかと勝手に思ったりしています。 

(142回) 溜息と舌 (2015/7/22)

 又吉直樹さんが「僕の生活のリズムは溜息(ためいき)と舌打ち」と何かに書いておられたらしいが、セゴビア先生の言葉でスペインの言葉、「溜息が舌に“お前行って私の言いたい事を探してこい”と言った」を思い出しました。
 蛇足ながら、溜息は詩情、感情、又は感嘆符、舌は言葉またはテクニック。
 もう一つの蛇足。テクニックでは詩情、感情、又は感嘆符は現せないのでなんとか表せる言葉を探しに行ってこい、どこでも良いから・・・・。
 朝日の天声人語に『少し前の又吉さんの著書にこうある。ものづくりに触れ、「大人が死に物狂いになって血だらけで作った品にしか銭を払う気がしない」』と、そうであれば現今のコンサートの演奏会のチケットは値が高すぎる。高すぎるのに人は銭を払う。何故でしょう?

(141回) モウドリ=妄想ドリブル (2015/7/22)
天才の演奏

 サッカーのハリルホジッチ監督が宇佐見は天才だと言っている。
 宇佐見はモウドリという稽古を一人でしているらしい。仮想のディフェンダーがいてそのディフェンダーはものすごく優秀だ。そのかれの防御は絶対に抜けない。(そのディフェンダーを抜いてゴールに達する事は出来ない。)1人練習にはそのディフェンダーが相手をしてくれる。彼は防御が絶対に抜けない天才をパートナーに持っているからハリルホジッチ監督は宇佐見は天才だと断定しておられるのだ。
 ギターにおける理想の練習法はある曲目を天才が自分の頭の中演奏している、その演奏解釈が完璧であるためにそれ以上の演奏は人間には出来ない(かもしれない)。その天才の演奏を頭に描いての演奏であるから宇佐見と同じく永遠にその天才を追い抜く事が出来ない。しかし、その音楽を鳴らす事が出来ない(頭の中で鳴らない)人は不幸である。鳴らす事が出来る人も大変な努力を強いられるし良心的な心の持ち主は何時までたっても人前で演奏する事が出来ない。つまり仕上がらない。
 昔、演奏家はこれしか無いと言う演奏解釈を探して稽古をしているのだと聞かせてくれた人が居る。わたしは永年これしか無いと言う演奏解釈は実際あるのだろうかと生涯の疑問になっていた。実はAndre´s Segoviaの演奏、つまりは演奏解釈は何年か前のものと最近の演奏とが殆ど変わらないと思っている事があり、疑問であった。わたしの小さな経験によればセゴビア先生のレッスンでは先生のいわゆる音楽解釈であるべき運指だと思っていましたがそれを弟子に対してはどんどん変更される。おまえの演奏ではこうだと仰っているのだろうとわたしは理解していた。思わぬ綺麗な解釈になったり。
 以下の結末はどうか自力でお考えになって頂きたい。

(140回) 投稿欄 (2015/6/2)

 札幌の中森良二さんから久しぶりに投稿を頂いた。これをきっかけに投稿欄もお読み下さい。
1987年6月2日にアンドレス・セゴビアは無くなられました。わたしはNHKより連絡を頂いてその事を知り、急遽スペインに旅立ちました。
 わたしは文章を書き貯めて居ますが日毎に厳しく、激しくなって来て居ます。それで発表出来ずにいます。先日の第82回ダービーでは「ドゥラメンテ」と云う馬が優勝しました。Duramennteとはスペイン語では「厳しい」と言う意味です。わたしはダービーと同い年です。スペインに留学した頃スペインで悪童どもが教えて呉れたスペインの悪い言葉の一つはカラドゥラ(caradura)でした。(caraは顔の事でduraは堅いです。で、わたしは日本語に直して面の皮が厚いであると思い込んでいました。でも本当は「下劣な男」という意味でした)

(139回) 芸術的演奏解釈の為に (2015/3/20)

 昔は通信教育の教材の模範演奏に関しては、初心者は知的能力が最低だとの古い考え方で制作発売されていた。一体、1から3または4まで数えられない人のためとの前提のもとに模範演奏をしていた、させていた、またはさせられていたように思えました。それはギターを弾きたいと思う人が白痴かなにかだとの蔑視から始まったのではないでしょうか。ギターでなくても初心者は音楽的にはそのようなレベルであると思われていたのかも知れません。
 音楽においては1と言う単位はないと思います。1と言う単位は無限です。例えば木の葉が1枚づつ異なるように。米粒でも1つづつ違います。だから名人の1と2を真似る事は音楽演奏においては
真の理解力を持ってするか、気の狂った、または正常ではない精神でするかしかありません。(米粒一つでも人間には造れない)それで真似る事を恐れてはなりません。面倒くさいと思ってはなりません。名人の1と2は、ある恐ろしく完成した1と2なのですから。不可能な事かもしれませんが。
 エドガー・アラン・ポーの文に”個性なるものは理性ある人間の穏健な考え方の中に存在する。しかして、個人なる語によって我々の理解するのは理性をそなえた知的実在であり、また常に思考に伴う意識というものが存するが故に、この意識こそわれわれすべてを、いわゆる「我々自身」にさせるのであり、他の同じく考える存在と区別し我々に個人性を与えてくれるのである。”とありました。これらの言葉は真の芸術家を見出し、目指して学び、素直に従おう(真似よう)とするものに取っては記憶しておくべき至言でありましょう。
 註―「他の同じく考える存在」とは我々が見本とする名手=偉大な先人の事です。

 

(138回) 短文集―7(2015/3/12)

1)  「Start again」
 最近ではポンセのソナチネ等のテクニック難度の高い曲と平行して初等科の練習曲を勉強している弟子が何人か居る。これこそは時間を節約して「Start again」をする事が出来る最短で最善の方法です。「Start again」とは「初めからやり直し」。

2)  ギタリストの進む道
 私がスペインに初めて行った時セゴビア先生は全コースを終了後に食事会を開催され、終業の挨拶をされた。「この夏の夏期講習会も終わった。それぞれが得意の分野がある。演奏家としてやって行く人もあるが、先生になってギター音楽を教えて行く人も居る。それぞれの分野でわたくしが教えた事を守って世界にスペインのギター音楽の素晴らしさを広げて行って欲しい」といった趣旨のお話をされた。
 私がその時思ったのは自分が完成していないのに弟子を取ってその弟子に何をつたえるのだろう?
 セゴビア先生が教えている事を理解出来ないでどうしてその教えを弟子に伝えられましょうか。セゴビアさん馬鹿なことを言わないで・・・・・

3)  ギターでリートを
 ギターでリートをと言えば解ってもらえるでしょうか。易しい単純なメロディーをドイツリートを歌うように弾くのです。ギターは伴奏楽器ではないのです。リートでなくてもオペラのアリアを想像してもらっても結構です。
 メロディーのあらゆる部分、1音1音に工夫を込めて、凝りにこって強弱、音色、緩急を付けて弾きます。唄でもそれが出来ている(知っている)歌い手はまれ。ましてやギターで?そう、出来ると信じてやれば出来るのです。
 でも眼からウロコ?それともそんな事「どうでもええ」か?これ―(ギターで唄を歌うこと)は実は非常に難しい。人声では出来ないくらいのクラシックギターでの新テクニックを習得する事。
 それはピアノでも非常に難しい。不可能みたい。

4)   セカンドオピニオンを
 ギターを習っていて先生に対して不信感を持った場合、その先生に「セカンドオピニオンを受けたいので別の先生を紹介して欲しい」またはそうしたいと言って嫌な顔をされる先生は駄目で、そうしなさいと気持ちよく言ってくれる先生は信頼出来る。これは医療の世界も同じです。
 私は即決でそうしなさい、と言った事があります。アドヴァイサーとしての先生、教師を自認していらっしゃる先生は今度はこの先生にして見なさいとか言ってくださるのでこれは素晴らしく良い先生といえます。

5)   処方箋
 Recipe、ギター上達法へのrecipeは簡単には指示出来ません。演奏解釈を含み、その演奏解釈による演奏をする為のテクニックとそのテクニック習得法は各自異なった個性を持っているので各自が工夫しておこなわなければなりません。多分独自のテクニックを開発しなければならないでしょう。
 私からギター上達法へのrecipeを貰った人は「start again」をしなければならなくなりますがrecipeに何が書いてあるかが解らない人も居ます。わからない人は「start again」をしません。理解した人は多分その人の一生をかけて挑戦します。「今でしょう」・・・・・
 何かの疾病の時には間違ったrecipeを出すと生死に関わります。ギター上達の為のrecipeは間違っていてもそれほど重要な事件ではありません。それに上達しなくても良いのだと思っている人にはrecipeなど要らないのです。
 セゴビア先生が来日早々ココにrecipeがあるから眼鏡屋に行って、レンズを入れてもらって来て欲しいとの事。で、私はrecipeと言えばセゴビア先生のこの事を思い出します。セゴビア先生の分厚い眼鏡をかけられた目、こちらの心をじっと見通すような恐ろしい眼を思い出します。セゴビア先生の眼鏡のrecipeをコピーしておけば良かったと後悔します。

(137回) ギター開眼 (2015/2/19)

  私はある時「ギター音楽の可能性」に開眼した。それは以前私が十数年ばかり東京に住んでいた頃、通信教育の教材の製作依頼を受け、私は演奏だけならと、録音を引き受けたが今それらの演奏を聞いてみると確かにその時ギター開眼をしたと言える。
  ずっと後のある時、この通信教育の音楽を説明のアナウンスなしで録音し、カセットテープに入れなおした。その後、ギターを勉強している人、していない人、教えている人、教えていない人が私の車に同乗された時、車のステレオで聞かせる事があり、私も自分で運転中によく聴いていた。アナウンスなしで聴くと丁度CDなどのレコードを聴いているようで易しくて単純な曲なのに結構楽しい。自分で言うのもおかしいがこの演奏はなんとも言えずギターの良さと楽しさを感じさせる名演かもしれないと思われた。
ギターとしては最もテクニック的に易しい曲目(初心者用)を音楽として聴かせる、または聴くと言う新機軸だろうと思われる。ギターがオーケストラであるとして演奏する為にはこの程度のテクニックの易しいと思える曲目でも演奏家の持つ全精力、全能力を尽くさなければなりません。もっと言えばギター音楽がクラシック音楽を演奏出来る楽器として生き残る為にはこのような曲目が音楽として演奏され、それが当たり前であるとして、受け入れられるようにならなければギターの存在理由がないと思います。それは非常な高レベルのギター演奏のテクニックの訓練が別の意味で要求されます。(註)この程度のと言いましたが、ギター入門書のハ長調の曲目等の事です。
ピアノやヴァイオリンであのような単純で易しい曲目を音楽にして演奏する事は殆ど考えられません、不可能です。ですから、超高度なテクニックが要求されるギターの曲目のレパートリーを持っている人でもギターでは初めからやり直し、「Start again」をしなければなりません。そして易しい曲目の演奏解釈を再構築しなければなりません。ギター音楽は他のクラシック音楽の楽器と違ってそれだけ奥が深く、研究の余地が沢山残っています。そうすればギターを演奏する事をいつまでも楽しめるのです。
このギター音楽へのアプローチを軽視しているとあのマグロの大量死の様にギターを弾いている人が世界中合わせても突然、ただの3匹になってしまっていて、関係者は唖然としてしまう姿が目に浮かびます。
この通信教育教材が発売になった直後、東京在住のギタリスト仲間の先生方数人がこの教材を何処かで聴かれて、私が住んでいた渋谷の道玄坂上の住居に来られたこともあった。今では教材が手に入らないので全く残念なことだと思いCDレコードにし、楽譜も別売にして商品化している。「サウンド・オブ・ザ・ギター5」副題を「聴くギター音楽入門CD」としてARMレコードソサエティー(このホームページ)で売り出している。
私が易しい練習曲をこのように音楽として弾こうと考えたのは、当時ギターの通信教育教材が幾種類か発売されていたがそれらの模範演奏はお堅い(音符を逐一音にしたような)演奏で、私はそれをする(通信教育の教材製作の依頼を受け演奏する)に当たって、音楽の名手が弾いたらどうなるだろう(私が名手であるかないか、当時そうであったかなかったは今は問わないことにして)易しい曲を名曲とは言わないまでも魅力的な、心からギターを弾きたくなるような曲に仕上げる事を目標に演奏した。その方向に私の目を向けさせてくれたのは他ならぬ女房であり、教材の二重奏の部分の第二ギターも彼女が弾いている。その録音は、音色と言い演奏解釈と言いかなり音楽的な演奏になった。無味乾燥で無機的なアナウンスを取り除いて音楽のみを聴いてみると、その良さに気がつく。事務的なアナウンスがあると音楽が興醒めな練習曲であると言う印象を与える。
  このようにギターで音楽を作り上げるためには、易しい曲に真面目に面と向かって演奏をする必要がある。それには良い先生について学ぶのも一つの方法かも知れない。ギターで音楽が出来ると言う事を知り、自分が理想とする音楽を演奏される先生を一日も早く探し求め習い始める事もお勧めです。少なくとも良い演奏だと思えるCDレコードを手本にしてギター音楽を学んで欲しい。良い演奏を手本にしなかったので上手くなれなかったとしたらそれはあなたの責任です。「Start again」
ギターはこのようにギターにしか出来なくてピアノやヴァイオリンには出来ない、易しくて単純な曲を魅力あふれる音楽にしてみせる潜在能力を持っているのです。超絶技巧に向こうを張って最も単純で簡単な形式の曲に、考えられないくらい複雑な内容を演奏解釈に盛り込んで、技巧を凝らした音楽を演奏する事がギターでは出来るのです。ギターはオーケストラ。
  ギターに興味をもっている若い人も、また年輩の方でギターの新しい可能性を見いだして自己開発の為にギターを役立て知的な事柄の仲間に入りたい方々もギター音楽に開眼をして新たな楽しみと生き甲斐を見出して頂きたい。生まれて来てギターを弾きギターに出会ってよかったと思える人生を歩んで下さい。ギター開眼のおすすめでした。

(136回) 短文集−6(2015/2/19)

1)   家の前の池
 拙宅の前に約100メートル四方位の農業用ため池があります。拙宅は南向きの斜面に建っているので立地は最高です。敷地が狭いので前の小さな庭を敷地一杯につかう為、レンガ敷きにして池の方に張り出しています。 
 朝、出来るだけ早く起きて(普通よりも大分遅い)そのベランダ風の庭に出て、雀にえさをやり、軽く体操をする事を日課にしています。
 前にも書きましたが、私がこの池に下りて行って拙宅の小さな池に植えている睡蓮を一株植えておいた所、何といまでは約3000坪の池全体を覆うように睡蓮は広がっています。
 Andre´s Segoviaの開発されたクラシックギターの奏法でギターを弾く人が世界中にこうやって広がってくれると嬉しいのですが。今のところアマチュアの人しか私の事を正確に評価してくれていません。プロフェッショナルのギター奏者は自分が出来ないのでAndre´s Segoviaのギターによる音楽を評価するわけには行かないのが世界ギター界の風潮のようです。
2)   願い事
 流れ星を見たら願い事を言って下さい。そしたら叶います。しかしその1、2秒の間に最も大切な願い事が言えるかどうかにかかっています。と言う事は何時も頭にその願い事があるべきで、その願い事が何時も頭にあれば殆どその願いは叶います。
3)   ギターの静かな中心
 私は三島由紀夫が言ったといわれる静かな中心になっている。らしい?=ギター社会における静かな中心です。
4)   スペインのことわざ
「Cada Maestrito Tiene Sus Librito」
Cada=それぞれの Maestorito=先生、先生様=先生の縮小詞(少々揶揄的に)、 Tiene=お持ちになっている、 Sus=彼の、Librito=libro本、教本、教科書の縮小詞。
「どのお先生さまもご自分のやり方をお持ちでいらっしゃる」私の不確かなスペイン語です。
5)   ロボット
 前にも言ったが、ロボットを人間と考えて各種税金を払って貰えばば良い。人口問題、年金問題も全て解決。何十頭何百頭の馬の力を出して私共人間や荷物を運んでいる自家用車にも税金を払ってもらっているのですから。
6)「尽善尽美」
 先日井上靖氏の「孔子」という本を読み直していたら、孔子さんがある村に行くと、しょう(昭=元の漢字は音編に召す)と言う楽器の演奏をしていた。それを聴いた孔子さんは「尽善尽美」と言われたそうだ。2500年ほど前の事です。この場合美を尽くしていると言う意味だったらしい。
7)   競争社会
 私の言う「ギター開眼」を行えば其処は独占企業社会の様で、競争相手は今のところ1人も居ません。それでは発展がないので一人でも多くギター開眼社会に移住して欲しい。

(135回) 音楽の先生は船長 (2015/2/14)

 大海原に漕ぎ出そうとしている音楽学生に正しい進路を示してあげるのは先生の果たすべき重要な役目です。人格的に優れている人が必ずしも立派な先生とは言えないと言う事になるかも知れません。音楽の船長も人命を預かるような責任感を持っていなくてはならない。何故ならこの奏者もあの奏者も頑張って真面目に勉強をして上達しようとしているのであるから尊重すべきですと当たり障りの無い事を教えるていると、行き着く先の島が間違った所であっても取り返しがつきません。どこへも行かずにじっとしている方が未だましです。
 またもし悪い癖、悪い音楽性を持っている人からは反面教師として学べる事が多い等と、弟子に言うべき言葉ではありません。反面教師とは無責任な言葉です。なぜなら1音でも悪い癖、悪い音楽性を持っている人の演奏なり音なりを聴いて感受性豊かな貴方の弟子が悪い影響を受けないはずはありませんから。
 2人の著名な世間に名の通った演奏家が居たとしてその二人の演奏解釈の良否(勝ち負け)をお弟子に正しく評価して上げるのは先生の大切で責任重大な仕事です。発売されているクラシックギター音楽のCDの演奏または演奏解釈の良否の事を言っています。聴いてもいいCD、聴かない方が好いCD、といろいろあると思います。アマチュアの方は好きずきにお聴きになれば好いのであって、この事は真面目にギター音楽の世界に精通し音楽家として大成したいと求めている方にはいい加減な評価を指し示すのとは次元の違う話です。確固として毅然とした態度で芸術的に優れているかどうかを指し示すべきです。ギターを弾く事が出来ると言う事を楽しみにしようとしているアマチュアの方は私のこの話は右から左に聞き流しておかれるのが得策です。私の場合極端に微妙な優劣の話をしています。
 真の音楽家を目指す人には聴かない方がよい演奏はこれだと一日でも早く教えるべきです。真の音楽家を目指す人は、「聴く」と言う楽しみ、つまり遊びをさせない事です。こいつは自分より上手い下手だ等と言って聴く事は正しくは遊びです。時間のむだです。
 ギターの雑誌はそこでは難しい立場にあるのでしょう。私がある時期関係していたギター雑誌はギターの愛好家が馬鹿であるからそれを是正したい、との創立者の強いご要望があったのでわたしは、そうかな?と疑問に思いながらもその雑誌の意向に賛同をして全力を尽くして創刊号をお作りしたような歴史があります。その時は楽器の選び方に関して馬鹿だと言う話でしたが、音楽の選び方はもっと厳しい物です。楽器の選び方に関しては今でも馬鹿が多いようです。雑誌の目標がどうでも良いからギターを売る事であれば仕方のない事です。演奏または演奏解釈に関してあまりに正確で厳密な評価をプロの演奏家を対象にして述べると営業妨害として訴訟される可能性もありますし、この雑誌の売り上げはがた落ちになるでしょう。
 わたしは幸いにしてSPレコードレコード(78回転)しか存在しなかった時代にギター音楽に興味を持ち始め、ギターの練習を始めました。そこでわたしはギターに興味を持ち始めたのが姫路市と言う田舎であったので先ず手始めにSPレコードを買い集める事しか思いつかなかった。ギターのギが付いているレコードを全部買いあさりました。ずっとずっと後になって面白い事に気が付くそれは原点でした。その当時私が買ったまたは買わされた多くのSPレコードの雑多なギター奏者中で今日残っている演奏家(のレコード)はAndre´s Segoviaしかありません。かろうじてミゲール・リョベートです。ミゲール・リョベートはそのAntonio de Torresという楽器の特徴を駆使してギターで出せる最も美しい音か、とも言える音を出しています。
 ではいま現代に置き換えればLP、CDレコードレコードに録音して売り出されている著名なギタリストの中で未来に残る奏者は何人あるでしょう。SP時代のわたくしの経験からしますと、1人か2人しか残らないでしょうかまたは誰も残らないかも知れません。私の場合、それら多くのSPギター奏者の中から選択してAndre´s Segoviaしかないと気が付くのにそんなに時間はかかりませんでしたが。
 二人の奏者が居てどちらの演奏解釈が優れているかの判断(勝ち負け)をお弟子に正しく評価して上げるのは先生の大切な仕事です。誰も聴く気もしなくなる廃棄処分すべきCDの演奏家が二人の内の一人である可能性があるのですから。
 セゴビア先生は私に取っては船長でした。先生は或るギタリストの評価について私が微妙な質問をしました所、彼はその或るギタリストは芸術の園から出て行ったとはっきりと示して下さいましたので、芸術家として私が向かうべき方向にすっきりと迷いを無くして下さいました。
 それを言ったりさし示したりしますと人格を疑われる事になる可能性もあります。人間には未来は解らないのですからね。そしてその人人(ひとひと)にはそれぞれ生きて行く権利、生活権、そしてその人なりの信念もあるはずです。生活がかかっている事ももちろんあります。実証されない未来を予測する事は人間には出来ない事なのですがでもその人のいまある姿を批判する事は先生が生徒に指し示すときには教育としては許されるべき事かも知れません。芸術、芸術家の良否はたいていは歴史が示す事になっています。それでその先生がよほど芸術的判断力の優れた方であれば生徒は迷い無くその先生を信じる事が出来るのでしょう。
 実証主義といいますと賭け事に行き着きます。予言がなされそれの真偽が問われる時、お金をかけていると負けた方に賭けた人は文句が言えないのです。芸術の良否の結論は50年100年で決まりますので中々賭けの対象にはなり得ない。
 何時だったか、私のギター仲間の一人が或る著名なギタリストの方がAndre´s Segoviaよりも絶対に優れていると言い張っていました。彼の言い分は「歴史が証明する」でした。それほど優劣をつけるのは難しいのです。でも良い師匠である為には弟子に対してどちら(どちらの奏者)が優れているかを正しく指し示さなければなりません。どちらも良いとは単なる逃げの姿勢です。人生において何事に対しても二者択一を迫られ、二者択一をする習慣をつけて行く事は芸術を志す人には大切な習慣です。どちらが美味しいか、どの店の食べ物が美味しいか等は先ず手始めにしてみても良い訓練かも知れません。その勉強のときは値段の高い安いは考えない事です。
 話を単純にしますとこうなります。正しい方向を示して頂いた場合はどこまでものびて行きます。 
 セゴビア先生について私は「セゴビアは駄目だ。言う事を聴いていては大成しない、信じては駄目だ」と多くの方から何度か言われました。セゴビアの直弟子の方にも、さらにさる日本の大学の音楽教授(外国人)にもそして結構著名な作曲家(外国人)や評論家にもそう言われた事があります。こちらの島に居て、あちらの島の人の悪口を言うのは当然なのかも知れません。船を漕ぎ出す勇気が無くて感性も、知恵も無いのでこちらの島に停まっている人達の言葉ですから。セゴビアさんは私の信念でした。私が命をかけて選んだ道でした。

 

(第135回)短文集−5(2015/1/9)

1)    投稿欄が賑わって
「教室に入門して3年目を迎えます」
 素直さが流れ出ているようなレッスンの報告です。
 芸術のレッスンを受けるとき素直さが大切です。選んだ先生を100%信じていないと何も学べません。100%信じて従う事が出来る先生を持つと言う事はその人の生涯に於いてその人に取ってとってもしあわせなことです。
 優れた芸術を学ぼうとする時、その道の教師(優れた芸術の表現者)への尊重と尊敬を絶対に忘れない様にする事をしないと不可ません。乾先生の芸術家の業績と人格を尊重し信じようとする態度は全く尊敬に値します。
 芸術家ともあろう人が評論をする、推薦文を商業ペースで書くということはあり得ません。なぜなら信じている音楽なり芸術を自分以外の人が成している事は滅多にないからです。芸術家は温厚にはなり得ないのです。辛くない塩、辛くないペッパーでは意味がありません。
 「芸術開眼」、塩谷君の投稿がありました。中々面白いとわたしには思えます。
 「音と言葉その1、その2」渡辺君
 「真のクラシックギター演奏」佐藤さんは勇気を持って発言して下さいました。
 「マッサンと松田晃演の考察」中森さん
 などと投稿欄も賑やかになっています。
 GOOD!FABULOUS!BRAVO!ESTUPENDO!等と言う言葉が出て来ます。
 私のホームページを愛読なさっている方々もぜひご投稿欄を御一読を。そしてご自身の考えをご公表して下さい。!面白いメールメッセージが時たま来ますが、発表されたくない方もいらっしゃるのは残念です。
2)   大衆にクラシック音楽をは矛盾
 大衆にクラシック音楽を!とは大変な矛盾です。
 わたくしの推進しようとしたクラシックギターは大衆を排除する方向にあります。ですからクラシックギターを盛んにする事とは正反対の方向に向かっています。盛んにならない方向に私はパッションを抱いていました。なぜならクラシックギターが芸術であるとしますと一般大衆の好み、または情感とは相容れない精神を推進しようとしていた訳です。彼らの楽しみたい欲求は芸術とは全く相容れないのがクラシック音楽です。
 松永貞徳(俳諧師)では無くて松尾芭蕉の世界です。松尾芭蕉は蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られた人です。

3)   日本語で言えば
 日本国内では日本語で外来演奏家を批評すれば間違ったことを言っても大丈夫だ、本人には伝わらないだろう、と日本では思われていた。なぜなら大家の批評をする時、その人に的外れであろうが恥ずかしいような判断であろうが平気で紙面に出す事が出来た。大家とは欧米での評価が定着していると言う意味です。従って日本には大家は居ないのでは?とも言えるでしょうか?何故なら日本は欧米ではないのですから。
 今はどうなのかわたしは不勉強で批評文が私まで届かないから解りません。録音された音楽物への批評はどうなのでしょう?それらは一応人類が続いている限り日本語に限らず批評の対象になった音楽演奏、音楽解釈とともに永遠に残るでしょうから?評論を書くとは非常に勇気の要る仕事です。

4)   和食屋さん「新」
 この間家内に「先生、しんでもええよ」と声を掛けられてびっくりしました。
 どこで夕食をと相談していた後でしたので、まあ今日の夕食は美味しい和食屋さんの「新」と言う店にしよう、と言う呼びかけだったのでほっとしました。

 

2014年

2014年も終わりに近づき沢山の投稿でにぎわいました。諸兄も時間を割いて投稿欄にも入って下さい。この私の拙文は、必ず諸兄のギター上達、ギター音楽発展進歩に役立つ事を信じています。またこれらの投稿者に負けないでギター音楽の発展の為にご協力をお願いします。諸兄のご意見を心からお待ち致します。ギター音楽に取ってと同じ様に皆様にも2015年は佳いお年であります様、祈っています。2014年大晦日

(第133回) 短文集−4(2014/12/16)

1)   フィギュアスケート
 昨日フィギュアスケートの羽生さんが1位入賞した。入賞のインタビューで彼は溜めが出来るようになったのでと言っていた。それでリズムが良くなったのだろうと僕は思っていました。それはジャンプをするタイミングに関しての感覚的な心理状態に付いて一般の人に説明を解りやすくする為の言葉でした。

2)   民度
 演奏家が民度に影響される事は再び料理に例えると解りやすい。
 或るレストランがある町で開業してしばらくするとその町のそのレストランのファンの嗜好に大きく影響されて味が落ち着いてくる。その現象は多くの方が認識されている。
 演奏解釈の場合も同じです。青い目の聴衆を前に演奏している奏者と、黒い髪の毛の人々の前で弾き続けている奏者とはやはり、その聴衆の審美眼、音楽性に影響されその土地の人たちの民度に同化されて行きます。
 私はと言うと初心の頃からギター音楽演奏解釈に関しては「バタ臭さ」と言う言葉に影響されて教育されていたので、姫路という片田舎に住んでいても姫路の民度に同化されないで感性を磨く事が出来て来たと思っている。
 東京に住んでいた頃、或る著名なピアニストと終演後、彼のサインを待つファンの列を前にして話していた時、彼は私に向かって小声で、「私ならこの聴衆を前にして演奏し続けていると一月も持たないで駄目になってしまう」と言っていました。欧米で演奏活動をしている彼の率直な(マネージメントやマスプロに絶対に聴かせられない日本音楽愛好家についての)意見だと思いました。

3)   泥沼の中のギター
 ギターは泥沼に浸かっている。
 松尾芭蕉は最も低俗な素材である俳諧を使ってそれを芸術表現の手段とした。
 セゴビアはギター界の松尾芭蕉であり泥沼に浸かっていたギターを芸術表現の手段として高尚な楽器にするべく大きく貢献した。ギターと言う楽器の持っている本性を見抜いた天才の予見(prediction)は誠に正しかった。
 ギターは泥沼に浸かっている。Andre´s Segoviaの遺志を無視しては不可ない。先生が成就しようとされていた事は解りやすいので、それに目をつぶらないで発展させて行くのが私共ギターに携わる後継者に課せられた多くの任務の重大な一つなのでしょう。
 ギター音楽は芭蕉の俳諧の形式とおなじく短詩形である。
 詩は長過ぎてはいけない。これはエドガー・アラン・ポーの詩の原理に於いて主張された詩の必須要件です。で、私はギターは詩情を持っている人の詩を表現する手段としてまさにぴったりの武器であろうと思っている。ギター関係者はギターの曲目が小品ばかりだと卑下したり残念がったりする必要は一切ありません。
 小品(又は易しい曲目)をギターによって弾く事で音楽の美しさを遺憾なく表現して行こうと努力して下さい。Andre´s Segoviaはギターの詩人であると昔から言い古されている真の理由を思い出して頂きたい。


4)   chapeaux
 chapeaux(シャポー)とは日本でもシャッポを脱いだ等と言いますが、欧米でも音楽のすごい演奏を聴いたり見たりした時chapeauxと言う事があります。すごく好意的に敬意を払う時の常套句でしょうか。参ったと言う代わりです。

(第132回) 弘前より投稿欄=昔の想い出 (2014/12/14)

 松田先生こんばんわ。私が中学高校のとき弘前市民会館で2度リサイタル。大変感銘を受けました。その少し前コーガンが同じ場所でリサイタル。でも私にとってはそれ以上でした。
 当時私は教室用教本、カルカッシ25とギターを習いたてでした。アルハンブラ、グラナダ、タレガのパバーヌ、ミランのパバーヌ。その後実演であれ以上の演奏は聴いておりません。
 今日は先生の「CD聴くギター」と楽譜をお願いいたします。私の手元には昭和48年7刷の最新ギター教本があります。実用ギター演奏法はありません。これは最新ギター教本no2ですか?まだ入手可能ですか?
 ギターは小さな星のオーケストラは図書館で借りて読んでおります。
 松田晃演註―メールメッセージを頂きました。匿名ご希望とのことですす。
 随分前の事ですが、私の少年時代、姫路のギターの先輩でもあり後には友人になりそしてその後弟子になられた山田さんが青森県の弘前で事業に成功されて、弘前の方々に世話になったのでお返しにお礼の意味で私のギター演奏を無料で聴かせてあげたいとの趣旨のコンサートを2度も開かれました。その後山田さんとはジュリアン・ブリームを招待したいと言う事で、十和田湖に1泊旅行をしました。その時の写真が在る筈ですがそのうちにこのHP載せましょう。ジュリアンも快く応じてくれましたので湖の観光船を借り切って1周したりと楽しい思い出も作って頂きました。(山田さんは弘前の山田マッチの社長さんです)
 註−2、各地で山田さんのようにその地の文化の為に優れた音楽家を招請して音楽会を開いてあげるような経営者が日本に沢山居られたら好いですね。その結果、この様な方がたくさん育つと日本も捨てたものではなくなるだろうと温かい気持ちになりました。

(第131回) M.Andre´s Segovia (2014/12/5)

 M.Andre´s Segovia と書けばMessieurs(ムッシュー)またはMr.セゴビアの略かMaestro Segovia の略かと普通は思いますがもう一つ、Marquis Andre´s Segoviaの略でもあります。
 Marquis とは侯爵の事で、偉大なアンドレス・セゴビアはスペイン国王からMarquis の称号を授けられておられます。ギタリストがMarquis であるとはギター音楽にとってなんとも言えないくらい名誉な事であり誇り高き事です。
 Marquis は侯爵であり私共が公、侯、伯、子、男と覚えている2番目つまり皇族の次に位する爵位です。Marquis de Salobrena(スペリングは正確ではありません)。Salobrenaはさぞかし素敵な領地なのではないかと思います。2、3の候補地が出ていまして、先生がこの土地 SalobrenaのMarquis(サロブレニャ侯爵)になられる事を自分で選ばれました。先生の日本演奏旅行中の事でした。
 なんと堂々とした爵位をセゴビア先生はもっておられたのでしょう。私はその方のレッスンを受けたり日本滞在中お側で お世話をさせて頂いたりと非常に名誉な事であったのだと思い出しています。思えば先生はどこか計り知れない堂々とした近寄りがたい風格の持ち主であった事は確かです。
 世界で爵位をもっている音楽家が他にあるのかどうか私は知りませんがギタリストが持っているのだからギター関係者は胸を張ってギター存在価値の高貴さをもっと主張しても好いのではと思います。
 クラシックーギターは少なくとも私が何時も主張していますように、一般大衆を大切に思っているがそれは大衆の上に立つ人物の目線でなければ正しく毅然とした存在の主張をして行く方向にならないのではないでしょうか。諸兄もギターと接するとき常に音楽の高貴さを念頭においていてギター音楽の高い理想を頭に描いて居て頂きたいと思います。

(第130回) 「プラテロと私」藤城さんとのえびすホール公演回想 (2014/11/29)

 何時も、投稿欄に投稿して下さる札幌の中森良二さんから数日前にメールメッセージを頂きました。以下です。

前の部分省略
 さて、一昨日の日曜日、家族を連れて「札幌芸術の森美術館」で開催されている藤城清治の世界展に行ってきました。
 会場は大勢の客でいっぱいでした。多くの作品の中にあって、一際、憂いを秘めた作品に目頭が熱くなり30分ほどその場を離れることができませんでした。
 それは、松田先生の依頼により創作され、藤城清治さんの影絵と八千草薫さんの朗読、そして、松田先生のギターが織り成す芸術、「プラテーロと私」の影絵と、ボール紙でできたプラテーロが展示されていたからです。
 影絵の説明は、松田先生から依頼され、本を読み感動し、作品ができるまで2年の歳月を要したこと、八千草薫さんと松田先生の競演のことなど、事細かく書かれていました。
 今にも動き出しそうな七色の輝く影絵を目の前に、松田先生のギターが頭に浮かび堪らなくなりました。
 さぞ、素晴らしい演奏会だったのでしょうね。
後略

 あれは丁度神戸大震災の後だったと記憶しています。わたしは昔から「プラテロと私」は朗読が無ければ、声に邪魔される事無く音楽をゆっくり堪能して聴いて頂けると思っていたものですから藤城清治さんに話をして、影絵との共同開催を提案しました。内容を絵で伝えていけばギター音楽に集中して聴いて頂けるので「プラテロと私」演奏には理想的なのではないかと思いました。藤城さんはどうしても朗読を入れると言われたので少々がっかりした事、そして震災後ではあったのですがリハーサルに何度か西宮から東京まで通った事等を思い出しました。今でも記録として思い出して頂けるのだとすれば苦労して努力した甲斐があったのだと納得しています。

(第129回) 貴重なものが落ちていた (2014/11/25)

 道を歩いていると100円硬貨が落ちていることに気付く。それは悪魔かまたは天使が置いたもので、10メートル毎に置いてあるらしく、5分以内に拾わないとその先の硬貨は消えてしまうらしい。
 さて貴殿ならどうする?永遠に拾い続けるだろうか?その努力は何時まで続けられるだろうか?死ぬまでか?

 ギター上達法を心(の底)から求めているとき、ある何者か、悪魔かそれとも神か天使か、の幽かなささやきを感じ取り、その方法は僅かずつではあるが確実に自分の求める音楽演奏上達の方向に効果があるらしい。その上その苦しい稽古によって自分の知らないまた誰も見た事のない音楽世界を垣間見る可能性もなきにしもあらずらしい。それは非常に苦しい努力を要する練習であり、その苦しい稽古をやめると上達は止まってしまい、今までの努力の成果もすべて深い霧の彼方に消えてしまう。且つ、実に幽かな上達の兆しも絶対的に信用出来るものかどうかの確約はなく、また、悪魔かそれとも神か天使の上達法は、寝食を忘れて行わないと不可ない(効果が出ない)との条件付きである、と解っていたら?

 結論!
 道に落ちている100円硬貨は・・・入れる袋を持っていなくてはならない。持っていてもそれが小さいとそこが限界。
 音楽演奏の上達の方向に効果がある(かも知れない)トレイニング法があるとしたら、次に絶対に必要なあるものが存在します。
 さて、何でしょう?

 100円硬貨を入れる袋と同様、その袋が大きいか小さいかで「寝食を忘れて行なった」うえでそのテクニックを入れるもの、それはまぎれもなく「貴殿の詩情」です。その入れ物は時に無限大で時に何も入らず、従って何も残らない底抜けの袋かも知れない。

 著者註ーこれも他の文章と同様、プロフェッショナルの為の話です。

 

(第128回) 眼からウロコ(ギターはオーケストラ)(2014/11/21)

(11/22日加筆あり=10行目)

 セゴビア先生が「私はギターの為に書かれた楽譜を作曲家から受け取るとその楽譜のオーケストレーション(註ー1)をしなければならない」と言っておられた事を知っている方は多いかも知れません。
 この話には大きな落とし穴がある事を知るギター弾きは少ない。
 それはセゴビア先生が出版されたり指導されているすべての版(楽譜)はすべてオーケストレーションがなされているものだ、セゴビア先生の出版された楽譜はすべてオーケストレーションが済まされているのだとの思い込みです。
 紙に印刷されているギターの為の楽譜はどれもオーケストレーションはされていません。ギタリストは一曲一曲自分の責任に於いてオーケストレーションをしながらギターを弾かなければなりません。それが生涯をかけた仕事であるがごとくに!
 ギターがオーケストラであるためには、セゴビア先生の言っておられたようにギター奏者は今から弾く曲のオーケストレーションは個々の奏者が自己の責任に於いてしなければなりません。それは個性を発揮出来る場所であり、ギターを弾く事の大きな楽しさの存在する所でもあります。
 セゴビア先生の言っておられるのは「自分はオーケストレーションをしてから演奏をしている」なのです。解りやすく言えば、「自分はオーケストレーションをしてから演奏解釈をし、公開演奏をしている」です。
 紙に書かれた楽譜を弾かせると、全然違う音楽、つまりオーケストレーションがされていない音楽を弾く人が殆んどであるのは驚きです。セゴビア先生が出版された楽譜であってもオーケストレーションはされていないのです。
 オーケストラの指揮者はオーケストレーションをしなくてもよい。スコアー=総譜があるからです。指揮者は楽団の前で棒を振っていればオーケストレーションに関しては殆ど間違える事はない。それにひきかえ、ギター弾きはその小さい頭の中にギター演奏解釈を仕上げた上での総譜を持っていなければならない。この事は絶対に忘れてならない事です。
 眼からウロコでしょう。
 ギター弾き(世に言うギタリスト)はアンドレス・セゴビア(真のギタリストで音楽家)の楽譜さえあれば頭は使わなくても楽譜から音楽が弾けると思い込んでいるのではなかろうか?お陰でギターを弾く演奏者は頭のない演奏に終始し、指のみが支配しているギター弾きに成り下がっている。指使い(註ー2)さえ手に入れればその楽譜で音楽が出来ると思いこんでいる。洋の東西を問わず、なんとギター弾きは浅はかで馬鹿なのでしょう。セゴビアの指使いさえ手に入れればオーケストレーションがされているのだから仕上がったも同然だと錯覚している様です。
 オーケストレーションをするという才能と知力が要求される仕事(hard work)の後に、ギター奏者に残された仕事は強弱と緩急を付ける事です(情感)。曲を弾く練習とはオーケストレーションをする事が出来る頭脳と感性の持ち主であればそれは大した仕事の様に見えないでしょう。でもそれはそれほど簡単ではなくて、ここからまだ大仕事が残っているのです。ギター奏者が自分のギターの指揮者になる作業が最後の大仕事なのです。指揮者がいないとギターはオーケストラではないのです。オーケストレーションの仕上った現実の音楽を聴衆に聴かせるのが、真のギタリストの前で棒を振る目に見えない透明な指揮者の仕事です。
 (註ー1)オーケストレーションとは作曲家が曲をピアノの楽譜に書いて、音を頭に思い描いてそれをオーケストラ用の何段かになっている楽譜に書き換える作業を言います。例えば、このフレーズはヴァイオリンに、ここはフリュートに、ここは管楽器の何かに等々とです。
 ギターではもっと詳しく細かくオーケストレーションをする事も出来ます。例えば1つのフレーズでも初めはヴァイオリンで途中からホルンにとかが奏者の頭の中では組み立てる事が出来、ある楽器から別の楽器へのグラデーションをかける事も出来るのです。
 それをするには多くの修練がいるのでギターをそのように弾く事があまりに膨大で気が遠くなる様な作業なのでギタリストとしてプロになるのをやめようと決心する良心的な人もいます。あらゆる音色が使い分けられ無数の陰影がその指から紡ぎだす事が出来る感性とテクニックの持ち主でなければなりません。。また、そんな苦労をしたくない。聴衆はお前は上手いとほめてくれる、と自己満足に落ち入って自分は演奏家であると思いこんでこれこそはクラシックギターですと言って何も知らない大衆にギターを聴かせて回っている人も沢山います。「セゴビアは別だ」と叫んでいる人もいます。ただおれはギターを弾くのが楽しいんだと思っている人も多い。そう嘯(うそぶ)いている彼の心に風が吹き込み、こんなことを生涯続けて行くのは空しいと密かに感じていたり、何時か感じるようになってくる人も中にはいるに違いありません。
 そこでプロではなくて聴くだけ、または自分で弾いて楽しむだけにしようと、別の生活の手段を見つけてアマチュアに甘んじて幸福な生涯を選ぶ人もいます。
 (註ー2)指使いは運指とも言います。フランシスコ・タルレガ(「アルハンブラの思い出」等の作者)が自作の楽譜に取り入れた非常に革新的なギターの為の記譜法で、左手は人差し指、中指、薬指、小指の弦を押さえる指を指定し1、2、3、4の記号を順に当てはめ、右手には親指、人差し指、中指、薬指の弾く指の指定をしp,i,m,aの記号を順にあてはめる事になっています。そして幾つかのポジションで弾く事が出来る音はどのポジションで弾くべきかと言う指定と同時にギターには6本の弦がありますので一番細く、高い音の出る弦から順に@ABCDEと使う弦の指定を楽譜の側に書き加える事にしました。

 

投稿欄には久々に投稿がありましたので、上梓しました。投稿欄もお読み下さい。
なお諸兄も奮ってご投稿下さいます様お待ち致します。(2014/11/12)

(第127回) 短文集3(2014/11/1)

1)   野菜サラダのレシピ

 私の野菜サラダはチャールス・レニエさんのレシピを基本にしています。(第122回) レニエーさん一家 (2014/10/8) 参照
 野菜は季節のもの。主にはニューヨーク・レタス、それに玉ねぎの薄切り、胡瓜で、その他生のピーマン、チコリ(アンディーブ)等美味しそうかなと思えるものが目に付いたらそれらを加える。
 ドレッシングは直接野菜に振りかけます。先ず少量の塩を手につまんで振りかけ、オリーヴ・オイル、最後にレモンを搾る。ドレッシングはレシピの神髄です。何度もしているとその人の味になります。音楽演奏・解釈と同じです。面倒な時は市販のドレッシングで口に合いそうなものを選んで買っておくのもよいかも知れません。なおレモンの代わりに、ヴァルサミコ酢(マデラ製)をかけると特別に美味しい。ヴァルサミコ酢は出来るだけ値段の高い上等が好いです。

2)   阪神セリーグ優勝
 阪神球団が巨人に無敗で勝ち切った。その立役者はゴメスでした。
私はゴメスの名(マウロ・ゴメス)を聞いて何時もマウロ・ジュリアーニを思い出していました。
このHPの第35回’09/10/12掲載のマウロ・ジュリアーニを参照して下さい。トップページのBack-nomber 3をクリックしますと第35回のマウロ・ジュリアーニが出ますのでそれをまたクリックして下さい。

3)   火山の噴火予知
 火山の噴火予知は不可能だと言う話を今テレヴィでやっています。天気予報ならかなり正確に答えが出るようなアルゴリズムがあるそうです。火山の噴火予知に関してはそれぞれの山に経験則で予知しなければならない。それはあたかも音楽の発想、演奏解釈、のようです。特にギターではアルゴリズムは存在しません。アルゴリズムとはある計算の数式があってそれに数字を入れて行けば答えが出る便利なものです。感覚、頭脳を要しない世界の話です。
 ギター演奏の楽しみを見付けて知恵、感覚を研ぎすます事に没頭して下さい。

4)   コンクール
 わたしがコンクール嫌いな事を知っているので、僕に習っている人も僕に相談せずにコンクールに応募して、予選も通らないという事態が起こっているので、わたしは何か行動を?と思っていない訳ではありません。昔は(わたしの若い頃)コンクールに出演したわたしの弟子は殆ど上位を占めていた。よく考えてみるとわたしは今のコンクールの審査員の先生方より音楽性が劣っているのかその逆か、それともコンクールの為に音楽を教えていないのかどちらかです。
 一つ言える事はコンクールでよく入賞していたある人物が私に習いに来ておられるが、今ではコンクールを見向きもしなくなているようです。その人は音楽を教え指導するわたしのレッスン態度を非常に理解し始めているようで、真の音楽をする楽しみを感じ始めておられるようです。
 

5)   ずっと若い頃から非常に不思議に

 私はずっと若い頃から非常に不思議に思って来た事があります。それは日本のギター学生はどうしてヨーロッパにギターの勉強に行くのだろうかと言う事です。遠い国のアメリカの方は一度も会った事のない私をギター音楽のレジェンドとして、アンドレス・セゴビアの伝統の具現者として評価して下さった。(第114回=Ben Cisco's World of Music又は第117回=短文集1の3ツ目のトーレス参照)これは日本におけるギター音楽の歴史的事件だと私には思える。

6)   音楽の具体と抽象

 音楽の具体と抽象について、音楽演奏においては楽譜が抽象であり演奏や演奏解釈が具体です。説明は抽象で、演奏乃至演奏解釈は具体です。つまり演奏解釈を具体的に説明する事は出来ない。説明は抽象ですから。
 鶯(名鳥)の歌が具体でありそれを楽譜にしたものは抽象。

7)   セゴビアはイノヴェイション奏者

 セゴビアはイノヴェイション(新しいアイディア, 新手法, 発明)奏者であると言う方向に進んで行けば人(ギターを真面目に学ぼうとする人)は間違いなく間違わない。

8)   セゴビアの弟子

 わたしはアンドレス・セゴビアの弟子であるため何の遠慮も無くAndre´s Segoviaの真似をしていたって構わない。楽譜は先生の引き写しで弾いても誰に遠慮する事がない。楽譜ではなくセゴビア先生のレコードに録音されている曲目はそのまま真似る事が出来る地位に居る。「この曲はこう弾けと教えられたのだから」と出版されている楽譜が間違っているとまで言える立場にある。
 その上、多くの場合セゴビア先生は作曲家のapproval(了承)を得られているように私は想像する。私はその現場に同席した事もある。それは「プラテロと私」を弾き始められた頃の先生のコンサートの直後にマリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコさんのハリウッドのお宅でパーティーがありそこであれこれと先生が改変された部分を弾いてテデスコさんの賛同を得ておられた。
 スペインやロンドンでその指は間違っていると仲間たちに指摘されて「Maestro Segovia がこう弾けと言われた」と言うとなんと魔法のようにそれが通る。皆は黙る。全知全能の神セゴビア!


9)   真似

  真似をする事は非常に難しい。真似をする相手を完全に理解し、殆ど自分のものに出来てしまっていないと滑稽になってしまう。

10)   BGM

 拙宅の近所にクラシック音楽をBGMとして鳴らしているスーパーがあります。例えばベートーベンのメヌエットなんかは人に気持ち良さを与えている。僕だけかも知れませんが。言うならばベートーベン、モ−ツアルト、等々クラシックの大家の音楽を聞くと背筋がすっとのびてくる事は確かです。(わたしだけかも?)逆に通俗的なBGMを聞いているとこの演奏者は「誰の言う事も聞きたくない、聞かないでいよう」という強い意思が伝わって来るようなのもあります。(これもわたしだけかも?では無くて事実です?)また楽器を引っぱたいているだけの音楽もある事を知らされる。

 

(第126回) フィギュアースケート (2014/10/25)

 先週高橋大輔の引退に付いて書きましたが、何年も前にダンスのバレーを見ていてその振り付けは音楽(バレー音楽)の解釈をしている事になると考え、音楽解釈の見本であり勉強になるのではと音楽演奏家になろうとしていた私の立場から興味を持って見ていた。
 メキシコの大作曲家、M.M.ポンセの「ハープシコードとギターの為のソナタ」(全3楽章)をハープシコード奏者の本庄礼子さんのご協力を得て公演をし後でコロムビアで録音をしてCDにして発売したがこの曲は高橋大輔さんが彼のフィギュアーのBGMにはぴったりではないかと思いながら見ていました。この曲にわたしはギリシャ神話から「キマイラの踊り」と命名して聴いている。そのような事はクラシック音楽には邪道かもしれないが弾いているとあるイメージが自然に湧いてくる事は往々にしてあります。

(第125回) スケートの高橋大輔引退 (2014/10/15)

 テレヴィで高橋大輔はフィギュアースケートで銅を取った時に日本人として初めて世界の舞台でメダルを取ったと騒がれたらしい。私は古い話で申し分けないが1961年に世界で初めてギター大国スペインのセゴビアギターコンクールで第3位をとった。その時私の演奏を聞いていたスペインの新聞記者達は私が第1位だと信じていたにもかかわらずです。
 その結果をマドリッドの日本大使館に報告に行った所、「良かったですね」の一言をいただいてすごすごと引き返しました。そこまではまだ良かったのですが、フランス人の友人にその事を話すと、彼は驚いて、フランス大使館だったら大パーティーを開いただろう。フランス人がギター大国のスペインでクラシックギターの演奏で銅メダルを取ったのだったら「それは世界に誇るべき歴史的事件だよ」と。その為か、何故わたしは日本大使館で門前払いを食ったのだろうと不思議に思うようになりました。
 私はその夜一人、マドリッドの当時唯一の中華料理店に行って鶏の丸焼きをメインに数種の料理を注文して侘しく祝杯を上げた。料理はすごい分量で例えば鶏の丸焼きは5人でも食べ切れないくらい大きかったのを今でも覚えている。
 高橋大輔はセゴビア先生の亡くなられた年に多分未だ1才だったのだと知って如何にも古い話だと恐縮です。そしてわたしはまだ引退する気が全然ないのは恥じるべきか?誇るべきか?

(第124回) ピアノはレシピの通り (2014/10/11)

 ギターでは一つの楽譜が全く違う音楽のように響き始める事があります。それはギターでよい演奏(完璧な演奏)がされた時です。わたしの若い頃、ギター演奏の唯一の手がかりは楽譜だったので楽譜どおりに忠実に演奏しようとしていたが、アンドレス・セゴビアのSPレコードによるある曲の演奏を聞いたとき衝撃が走った。わたしの先生であるお坊さんもこんな曲だったのかと驚きの声をあげられた。
 料理のレシピに例えれば分かりやすい。今までレシピに従って忠実に料理を作っていたが、同じレシピによって料理の名人が同じ料理を作ったのを食べた時の衝撃です。私のは本当の料理ではなかったのだ、という驚きです。こんなに美味しい料理は食べたことがないという衝撃です。具体的な見本です。また真に料理の上手な人はレシピなしに恐ろしく美味しい料理を作ることもありその完璧な料理のレシピーを提供する人でもあります。
 ショパンは凄い料理を考えてピアノ演奏をし、楽譜(レシピ)を書き作曲をした人であった。ピアノ音楽はピアノの料理は誰でも楽譜通りすれば凄い料理に近いものは出来るのです。ピアノ音楽の作曲家は自分の作品の考えを的確に後世に伝える事が出来る。ピアノという楽器を介してその方法を言い残している。ひどく悪い言い方をすれば、ピアノは音楽のデジタル化の先駆けで、ピアノ楽譜はある意味でコピーのように正確に作者の考えが奏者に伝わり音になる。ピアノはそれほど優れた楽器なのです。ただし、ピアノの名曲のレシピたるや見ても解らないくらい素材も複雑で豊富。アマチュアにはとても近づけないくらい、あたかも料理の大天才のみのためにあるかのようです。
 ギター音楽にはレシピがない。大雑把にしか書いてない。これが2つの楽器の絶対的な大きな違いです。ギター音楽のレシピは料理の天才が演奏するものであるとの前提のもとに存在する。
 ギター演奏は絶対に!ピアノのように弾こうとしてはいけません。ピアノでは絶対に出来なくて、ギターでしか出来ない演奏の実現をするべく努力しなければなりません。ギター音楽の凄さとはそういうものでなければなりません。アンドレス・セゴビアのギター演奏はそういったギター音楽演奏解釈の一つの完成された姿です。言い換えますとギター音楽の楽譜には演奏者に音楽を作る自由が沢山残されているのです。
 終わり!

(第123回) 卒業 (2014/10/8)

人は成長して行く。
 より高級なもの、より高度なもの、より優れたもの等を見たり知ったりした時、人は脱皮し以前の自分を捨ててそこから卒業するべきだ。それをわたしは以前スタート・アゲインと呼んだ。でもそのスタート・アゲインは今回は精神が幼稚園のままで死んで行くなと言う意味に取って欲しい。幼稚園から小、中学校、高校、大学、大学院とあがって行くべきです。私が特に気にしている訳はある程度の年配の方が「若い頃はあのような音楽を聞いて興奮して楽しかったのに近年年を取ったのか面白くも何ともない」と言っておられる方を見るときです。その精神状態を卒業と言わなくて何と言ったら好いのでしょう?冒頭の「等を見たり知ったりした時」は等を見たり知ったりしてしまった時と置き換えるべきです。感受性が鈍くなったと嘆くのではなくつまらないものに感心しなくなったのです。俺は、私は、何と大きく進歩したのだろうとお祝いをする時です。
 音楽の場合、ポピュラー音楽からクラシックへ、クラシックの中でも解りやすいクラシックから表現には高度な精神を必要とする言うなれば美を表現する、もしくは哲学的精神、崇高さ、精神の昂揚、魂の興奮を呼び起こすであろう高度の音楽的次元に至る芸術的段階の表現力につながる高みへの飽くなき進化、これこそ人間がする芸術の進歩ではなかろうか?芸術のこの階段を上る事を拒否した時人はある学級の卒業を拒否した事になる。
 芸術、芸術と叫ぶ事を恥ずかしい、わたしは芸術家ですと人前で言わないと言う人がいる。芸術は人には出来ない、芸術をするとはおこがましいと言われるのでしょうか。
 わたしはギター音楽は芸術家が芸術をする手段であるべきと思っている。作家、詩人を目指す人がペンを持つのは芸術をするためである。芸術家としてペンを握っているのだと宣言するのは恥ずかしいとは仰らないでしょう。
 わたしはギター音楽を恥ずかしい、全然芸術とは思えないような、いわば学芸会のような演奏や合奏をして聴衆の前で堂々と演奏するギタリストがいると腹が立つ。偉大なアンドレス・セゴビアはいみじくもそれをはっきりと私に伝えられた事がある。
 いつも、昔から不思議に思っている事がある。はじめに言ったように、若い頃はこんな音楽を聴いて感激していたのに今はもう全然感じない。ああ!年だ!と嘆いている人がある。あなたは蝶になったのです。青虫の頃はあの青い木の葉を食べて喜んでいたのに今は見向きもしないし美味しそうにも見えないし魅力も感じない。年だなあ。もし貴方がちょっと前トンボのヤゴや蝶の蛹であったなら今秋の空に向かって飛び立つときです。若いときはどうして水の中で小魚を捕らえて食べていたのか今では解らない。音楽は晴れた空に飛び立つトンボの心境で奏でる事が出来ます。
 今日車で走っていたら赤とんぼが何匹か飛んでいた。トンボもあの醜い水の中を悪魔のように小魚を捕まえて食べていたヤゴから空を自由に飛ぶトンボになった。
 人も、年を取るといよいよ、2本足で歩き知恵を持つホモサピエンスになったのです。空を自由に飛び回る事が出来る、いわば戦闘機になったのです。青虫やヤゴの時代を卒業したのです。

(第122回) レニエーさん一家 (2014/10/8)

 わたしが初めてのヨーロッパ留学中、レニエーさん一家(私のロンドン留学中のドイツ人の弟子の家族)には大変お世話になった。
 偉大なアンドレス・セゴビアに憧れてギタリストに成りたかった彼らのご子息アナトールがイタリアのシエナで私と同じ教室であった。その年、セゴビアさんはシエナに来られずシエナでの代教はベネズエラ出身のアリリオ・ディアスさんでした。それでわたしがセゴビア先生のサマースクールに参加するためスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラに去った後、アナトールと手紙のやり取りがあって、ロンドンでジョン・ウィリアムスに習っていたわたしはこの年のクリスマスをどうやって過ごそうかと心細い思いをしていたわたしを彼の家族がミュンヘンの自宅に招待して下さった。それは心細いわたしにとっては本当に有難い事だった。
 彼ら一家は子息のアナトールがわたしに習うため、驚いた事に全員がロンドンに来て暮す事になった。かれの姉カローラは事のついでか?ロイヤル・バレーに入学する事になって、バレーの勉強をしていた。それで時々バレリーナのような歩き方をするので面白いなとわたしは観察していた。彼の父チャールス・レニエーさんは世界的に知られ歴史的に著名な戯曲「春の目覚め」の作者・フランク・ヴェデキントの娘さん(女優、パメラ・ヴェデキント)と結婚されていて、演劇の監督もなさっていたし、映画ではリチャード・ウイドマークとの競演(私も興味があるのでその映画をロンドンで見た)もしておられた。ユダヤ系のフランク・ヴェデキントは第二時大戦中、多くのユダヤ人をドイツからスイスに亡命させたと話しておられた。彼の母パメラ・ヴェデキントさんは如何にもドイツ人らしい風貌の美しい女優で、わたしがミュンヘンに行った時にはわたしとアナトールのギターソロと彼女のフランス歌曲で1つのコンサートを企画して下さったこともある。そこではパメラさんがギターで伴奏しながらフランス歌曲を独演をされた。舞台をいっぱいに使って女優さんらしく観客を魅了されていた。
 チャールスは時たま演劇や撮影の合間を見てロンドンに来られる。愛車、あの車高が上がったり下がったりするシトロエン、を飛行機にのせてロンドンに来られた事もあった。1961年当時としては大変な事に私には思えた。彼らご夫妻のお付き合いの関係で高名な俳優アントン・ウオールブルック(赤い靴の主演男優)のお宅に招待されてご飯を炊く実演をして上げた事もある。アントン・ウオールブルックさんは私がカタルニア民謡を奏いてあげると「遠い東洋の日本の人が西洋音楽をこのように理解して演奏出来るとは考えられない(奇跡だ)」と言ったような評を下さっていた。なお映画に出てくるような凄いお家に住んでおられた事もお伝えしておきます。またパントマイムのマルセル・マルソーのロンドン公演のときには楽屋で紹介された。その時の公演ではマルセル・マルソーはカルカッシのギター練習曲をBGMに使ってうらぶれた雰囲気を演出していた。
 私が有り難かったのはアナトールにレッスンをする代わりにほとんどの食事を彼らのフラットで一緒にして下さったことだ。チャールスがロンドンに居るときはチャールスがなま野菜の味付けをして我々に食べさせて下さっていたので、わたしは今でも彼のやり方で野菜サラダを作って楽しんでいる。彼らのマンションすぐ側の角を曲がったところの小さなレストランの2階を私の生活のために借りて下さって、食事は彼らのフラットで一緒にしていた。彼らのフラットはロンドン郊外のアベイロード(ビートルズの録音スタジオがある)にあった。そこはジョン・ウィリアムスのフラットに近いベイカー街(シャーロックホームズで有名)の地下鉄の駅から北に3つ目のセント・ジョーンズ・ウッド駅の近くで、レニエーさんの友人の俳優がアメリカで映画撮影の留守中を彼らにこのフラットを提供していたらしい。

(第121回)「尽善尽美」 (2014/10/4)

美の為には何をしても好い。
「尽善尽美」とは中国の約1700年前の書聖とも言われた偉大な書家、王羲之の座右の銘です。「尽善尽美」と言う言葉を知る前にわたしは芸術において「美の為には何をしても好い」と言う白黒時代の写真家スティーグリッツ(註)の言葉を知って、ギターの演奏においては「何をしても好い」とはどうする事だろうとずっと考えていました。「尽善尽美」を英語にすると「Do the Best For the Beauty」となり、善を尽くすとは good better best のbest で日本語でもベストを尽くす、と言いますので最善を尽くすと言えば解りやすいです。
 で、そこには忘れてはならない重要な但し書きが必要です。それは奏者の審美眼です。何をしても好いが審美眼をもたない人がそれをするとどう駄目かは、当然「美の為には」を忘れているからです。美しくなければ何をしても不可ないし、結果が美しければすべてが許されます。それは常識、学識、セオリーの域を超えられる唯一の道です。
 美しくない音楽をBGMとして平気で流しているお店があります。全ての音楽は美しく善であると考えているご仁の何と多い事でしょう。頭にのみ描く事が出来る美なる音楽はこの世に存在しない美しさを持っているはずで、それを頭の中に描ききれない人間に音楽演奏は無縁のものです。
 ここまで言い過ぎてしまったようですが序でにもう一言、わたしも現代の悪徳(VICE)であるYou-Tubeに自分の演奏を載せていますが、You-Tubeには何と恥ずかしいギターの演奏が公開されているのでしょう。わたしはたまにYou-Tubeに出ているギターを弾く自分以外の人のギター演奏をクリックして聞いてみますが、(一回きりでそれも数小節で二度と聞きません)ギターは何とひどい音楽を奏でるのだろうと、顔が赤くなる演奏が殆んどです。メディアとはそんなものなのでしょう。もちろんセゴビア先生の演奏以外の話です。
 花は美しく在って欲しいのです。でなければ、人は寄って来ません。蝶がその前に淘汰してくれています。見向きもされず、離れて行きます。美しくないのに花(ギターの音楽)が好きだと言う人は、全くの変人かマニアです。
 花が自然の中のお花畑に咲き乱れるように何千何万と言うそれぞれが個性を持って美しく咲き乱れているのが僕のYou-Tube界のその中のギター音楽への夢です。自然の中には不思議な事に美しくない花は一つとして見当たりません。自然の中のお花畑に咲き乱れる花のようにYou-Tube界はその内に大きな波が起こって自然淘汰される時期が必ず来るでしょう。僕はそのメカニズムの作製法を知っているのですが今は沈黙です。沈黙は金です。
 註ー今朝競馬番組を見ていたらスティーグリッツと言う名の馬が2才新馬勝をしていました。2014/10/4(土)将来名馬になって勝ち続けてくれると好いですね。

(第120回) オットー・クレンペラーNo.2 (2014/9/25)

 オットー・クレンペラーの事で気になっている事があります。それはあのオットー・クレンペラーが指揮をしたオーケストラがどのオーケストラであったか僕の記憶にはありません。ただあの楽団員の方々はその後十分に上達されたか。あんなに凄い演奏と演奏解釈が出来た人たちはオーケストラの楽団員のままで生涯を終えられたのだろうか。たしかにあんなに凄い演奏が出来たのです。一流のオーケストラの団員なのですから。
 素晴らしい音楽を自分の物にしている偉大な人物に出会ってその方に教わった事がある人はその後の生涯をどう過ごすのだろうと言う疑問です。
 セゴビア先生のレッスンを一度受けた事がある人が何年かの後(約20年後)来日中のセゴビア先生に部屋の入り口で「弾くか?」と言われて両手を前に差し出し後じさりをして帰ってしまわれた。側にいたわたしの眼にその姿は焼き付いている。
 偉大な先生から一回のレッスンでその先生のすべてを習う事が出来る弟子はいない。それは何故か。芸術だからです。芸術を完成させるには想像を絶する修練と並外れた個性が必須です。名人は弟子に個性を磨かせるべく教育をする親切心はないのかも知れない。そして本当のことを言えば名手とは異なる個性の持ち主には、名手はその個性にtouchしないでいるしかないのも事実でしょう。よい弟子とは先生の指導によって自分の個性を、いかなる困難をも乗り越えて伸ばして行き、その先生の作り上げた芸術に対する憧れを失わないパッションを持ち続ける人です。どのような努力をも惜しまず、初心の憧れを見失わない事です。

(第119回)  短文集(2)(2014/9/21)

練習

 ギター演奏の習得を始めて少しした頃、わたしはプロになろうと決心をした。私はプロで通用するにはどうすれば好いか。何も解らないのでとにかく練習するしかなかった。そこでわたしは芸術とスポーツの競争とは異うものだがプロになるなら先ずは人よりも上手くならないとと思った。私が自分に課した課題は人の倍または3倍の時間の練習をする事にした。人にはそう言う時期(プロになろうと思ったら)も必要かもしれない。ヨーロッパ留学中マツダはDEVOTED GUITARISTだと言う風評を得ていた。わたしはDEVOTEを神などに献納する、捧げるととって人生をギター音楽に捧げているのでその通りだという気持ちになっていた。

3流を目指して

 3流を目指してクラシックギターを勉強していた人は40年経ったいまでは4流まで到達されただろうか?と書いた事がある。一流の奏者になるには超一流を目指して下さい。私はそうしていました。そしてそれを公言したりして人に嘲笑された事もありました。超一流を目指して一流の奏者になるのはそれでも大変な事です。すべてをDEVOTEしなければなりません。

ギターを楽しむ

 ギターを飯の種にしようとしない人でも、ギターを楽しむ為には好い先生に付く事です。何時まで下手のままでいるの???と言われないで下さい。わたしはあまりにも真剣にクラシックギターのことを考えているので楽しみにしている人にはわたしの言葉はどこか苦い所があるかも知れませんがお許し願いたい。私の信念は『クラシックギターの本質を理解してその上で演奏が巧くなり演奏解釈が一丁前にならないとギターは楽しめない』です。

クラシックギターの敵

 クラシックギターを本当に愛する人たちには共通する大きな敵がある。それは一般大衆である。クラシックギターを本当に愛する人たちの集団は作れないが、クラシックギターを本当に愛する為の大きな波を起こさないと不可ないとはわたしは考える。

善人は孤独

 この間クリント・イーストウッド主演の「シークレットサービス」という映画を見ていたら「我々善人は孤独に生きて行くしかない。」と言う言葉がありました。

翻訳と念仏

音楽演奏は翻訳と同じだ。演奏解釈だからです。
 日本人は意味も判らず念仏を唱え、唱えられるという事に慣れてしまっている。念仏は原書を音読みしているのです。
 音楽演奏は音楽解釈であり文学では翻訳である。
 西洋では念仏を唱える様な、「意味を理解しない」ままで「祈り」と言う行為をする事は多分行われないし考えつきもしないでしょう。
 音楽演奏は念仏ではないと強く記憶しておいて頂きたい。
 念仏を唱えていれば意味が解ってくるとの信仰は、音楽の勉強に持ち込まない。意味なく音を繋げて演奏していると何時かは音楽の意味が解ってくると思って練習している人が居り、ヨーロッパでもそう思って演奏しているギタリストがほとんどなので驚かされる。そのような演奏は1000回弾いても千年やっても音楽が解って来ない。

僕のアンドレス・セゴビア

 近年頓に思い感じる事ですが私の10歳代の始め頃、アンドレス・セゴビアを見上げ、特に彼のバッハ、ポンセの演奏を(SPレコードによって)聞いて感激し啓発されていた。理解出来たと言えるはずもないがその事でバッハ、ポンセを尊崇しアンドレス・セゴビアの演奏によるバッハ、ポンセの音楽のクラシックギターによる演奏の可能性を信じてバッハ、ポンセの音楽に帰依する心を養ってきた。
 ギターによって崇高な音楽芸術の世界を実現できる=実在させる事が出来る=可能性を予感した。実在させるとは今までこの世に存在しなかったものを新しく創り出す事です。実体のあるものとして出現させる事です。
 今年の年頭の文と重複しているようですが、若者にこの件をもっと知っておいて欲しいと思い再掲しました。

松田節への追加

 松田節は第97回と第42回と2回も出している。私のお気に入りという訳ではなく前に出した事を忘れていただけです。
 折角気が付いたので読み直してみましたが「音楽に発想を付ける手段には色々と在りますが」として説明をしているところでもう一つ大切な事を言い忘れている。それは「溜め」と言う事です。フレーズの始めにある音がある。その時その溜めをもって音を出す事も出来る。五線譜のなかで寸法を測るように、物差しで言うと音がゼロの点から始まると考えるのではなく「うっ」と間を取ってから音を出す。間を取らないこともある。そこに個性と言いますか「誰それ節」と言う癖が出ます。日本の能楽にはその様な事があるらしくそのお話を能楽の堪能な方に話すと非常に佳く理解して下さった。それが美に奉仕するようであれば貴方は名手です。

サングラスをかけた自分

 サングラスをかけた自分を見る事が出来ない。鏡に映しても見られない。???
 鏡に映るサングラスをかけた自分はサングラスをかけて見ているサングラスをかけた自分である。

聴くギター音楽入門CD

 CDはレコード盤として聴いて頂く為に順序を考えて発売しましたが勉強のため楽譜は練習の為でもありますので漸進的に学べるように順序を並べて上げないと不可ませんね。
 これらの曲目はすべて耳に胼胝が出来るほど聴いて欲しいのです。ずっと前の私の演奏であり演奏解釈ですが、今も私は車に載せていて毎日のように聴いています。飽きる事はありません。
 クラシック音楽とは毎日何度聴いても飽きないものをクラシックと言うのではないかと思うこともあります。そしてこれらの曲目は多くはギター練習を始めた初心者の為の曲ですがクラシック音楽と言っても好いのではと思います。
 ギターを勉強しようとする人全てに聞いて勉強して欲しいです。
 私に関係のない方でも同じ曲を勉強される事はあるはずですが、その時に見本にお聞きになれば必ずお役に立つと思います。

第5回私の先生−1(2005/5/8更新)

面白いから是非お読み下さい。このホームページのトップペ−ジのバックナンバー NO1 をクリックし第5回私の先生−1をクリックして下さい。ついでにバックナンバー NO1 の第6回も見て下さい。そこには大事な事が沢山書いてあります。

 

(第118回) SPとCD (2014/9/16)

CD盤の音楽はリピートを掛けておけば何時間でも?鳴っている。
 SPレコードは1面、1曲、4、5分で止まってしまう。
 You-Tubeはその意味においてはSPレコードと同じです。You-Tubeは普通1曲しか聴かない。そのかわり好い演奏であれば同じ演奏を何度も聴く。そのため曲目によってまたは演奏家によってアクセス回数が片寄る。名曲の名演奏の名演奏家による演奏解釈に人は群がる。逆に或る曲目の演奏解釈がぴったりとその曲にはまると、その曲は名曲になる。
 なおSPレコードの時代は4、50年位以上は続いたでしょう。録音のない時代はそれ以前の何百年、何千年とありました。
以上です。
以下は蛇足。
 セゴビア先生のSPレコードにしろ、他の偉大な名演奏家のSPレコード、そしてそれらの方々の名演奏にしても同じ演奏家が好い演奏をしておられる盤は何度も聴かれてすり切れるほどになっている。再現したくても聴けないくらいに痛んでしまっている盤もある。同じ名手の盤でもそれほど痛んでいない盤もある。
 我々(わたし)はそれを見ると偉大な名手でも好い演奏をしたり曲目によっては名演奏をしなかったりするのだなと感じていた・・・。
 You-Tubeでも試聴者による選択がなされているようだ。ただし、You-Tubeはすり減らないが良い演奏であればアクセス数がうなぎ上りになる。
 何年かすると誰も見向きもしなくなるSPとかLPそしてCDのレコード盤がある。私はSPレコードの時代にどんどん発売されていたギタリストのレコードを全部買って持っていた。それらの人々のレコード盤は今では探しても見当たらない。ゴミになってしまっている。それで思い出すが、フリュートの名手、モイーズさんがテレヴィのインタヴューで言っておられました。「わたしはバッハを録音してこの世にゴミを増やすという悪徳はしなかった」と。
 蛇足第2、レオナルド・ダヴィンチのモナ・リザはそう言った絵です。人々は何故かこの絵は何度でも見たがる。美の力。
 蛇足第3、参考までに。1曲でも後世に残すため、では無くて、自分が「この曲の演奏、演奏解釈はこうしかない。曲のすべての音、音と音=フレーズからフレーズへの間(ま)、和音の調和が完璧だ」と言えるような演奏をしたいと思って勉強して欲しい、つまりそのように思う事を試みて欲しい。それは若い頃では出来ない演奏ですが、若い頃から希み憧れ努力して積み重ねないと幾つ何十になっても出来るようには成らないでしょう。ある魅力的な曲目のほんの数小節に限ってでも芸術家志望なら出来るように成ってみようと希求すべき事柄です。

(第117回) 短文集(1) (2014/9/14)

レオポルド・アウアーの「ヴァイオリンの奏法」

 この本について以前に書きました。(このエッセイ集の第94回と第96回)あとで再版が出ている事を知りそれも読みました。しかし折角なのですが古い翻訳の方が切実に私の心に迫って来たのです。古い翻訳は非常に読み難い日本語なのですがこの訳者のヴァイオリンに対する憧れ、西洋音楽へのあこがれがそうさせるのでしょうか?とくにこの訳者の丹念な訳注が興味深かったです。馬場二郎訳、大正11年12月5日発行、定価貳圓。

アンドレス・セゴビアと芥川龍之介

 私はセゴビアさんを良く知っていてごく身近な人に感じていました。そして芥川龍之介は非常に古い日本の作家そして芥川賞の作家としての認識が強くありました。ところが彼らは同年輩なのである事を知り驚いています。セゴビアさんは1893年、芥川龍之介は1892年うまれです。ちなみにAntonio de Torresが無くなったのが1892年です。  

トーレス(フェニックス)

 アメリカのウエッブ上の雑誌にわたしの事が載っています。トーレス及び私に関する記事です。「ギターと私」欄(このペ−ジ)、第114回にその日本語訳を出しています。
 元のウエッブ雑誌(英語版)へはここにアクセスして下さい。
http://bencisco.com/wp/blog/2014/07/14/akinobu-matsuda/
 アメリカ人のTWITTER、この人はわたしをギターにおける歴史的に重要な人物として、クラシックギタリストで唯一のセゴビアの後継者のように書かれています。

生涯で2度認められて

 1)偉大なアンドレス・セゴビアは私の演奏を聴き才能を認められて日本からヨーロッパに招待された時。(日本ではヨーロッパに行って勉強すべきはこの人だとは誰も言っても、思ってもいなかった。)
 2)先日アメリカのtwitter誌で全てのジャンルのギターの代表はクラシックギターであり、そのクラシックギター演奏の第一人者は全世界において松田晃演であると断定された事。(世界の音楽界の中で誰も松田晃演はギターの全てのジャンルの演奏家の代表だと思っていない今。)註=上のトーレス参照
 松田註=私が感激しても当然でしょう。1)では私の知る限りの人は誰も私の事を日本では音楽の最高のタレント(才能)を持っているギタリストだとは思っていなかった。2)も私が世界のギター史において評価すべき第一人者だとは私も含めて世界中で誰も思っていない。

クラシックギターとそうでないギター

 投稿(2013/10/26)=松田晃演=投稿欄のこの文はぜひもう一度お読み頂きたい。

 

(第116回) 「ギターは小さな星のオーケストラ」(14/9/4)

「ギターは小さな星のオーケストラ」を欲しい、買いたいと言う方が多いので買おうと思って検索していましたら以下の投稿を偶然発見しました。で結局本は買えなかったのですが(売りたい方があれば私まで)!なお私のCDはSound of the Guitarシリーズで出していますが、Sound of the Guitarの2は売り切れで、3と4はまだ在庫がありますので私まで直接ご注文下さい。
 わたくしへの大変好意的なご評価をお書き下さった方には心からお礼申し上げます。私は何故か無名らしいのですが、わたくしはまだ現役で演奏しています事をお伝えさせていただきます。何時かalive の(生きている又は生き生きとしている)私の演奏を live (生の演奏)でお聴き下さる御好意がおありでしたら、時たまこのHPのInformation(お知らせ)欄を注目していて下さい。その内にと思っています。

 「ギターは小さな星のオーケストラ」への投稿
By Meg on 2012/7/4
形式: 単行本 Amazonで購入
世界的に名をはせた(おそらく日本で初めての)クラシックギタリスト、松田二朗(現名:晃演あきのぶ)氏の自伝です。

 これを読むと、純粋な演奏追求の姿勢とちょっとユーモラスな筆致に筆者の人柄が偲ばれ、若干自慢ぽいエピソードも散見されますが、とても好感を持ち、いまや伝説的な巨匠ギタリスト達との秘話など面白い内容がいっぱいで、購入して以来何度も読み返しています。

 松田晃演さんが、彼の兄弟弟子(アンドレアス・セゴビアの弟子たち)たとえばジョン・ウィリアムス、オスカー・ギリア等が日本でなされる高評価と注目度と比して、無名なことを不思議に思いCDを探しましたが、町のCD店には置いてないのでネットで探して聴いてみました。松田晃演註=オスカー・ギリア君は私が日本招請のお膳立てをして初来日をさせてあげた。ジョン・ウィリアムスもそうです。
 クラシック音楽愛好家としてギターCDはA.セゴビア〜J.ウィリアムス、A.ディアス、そして福田進一、A.ヴィドヴィッチや大萩康司を愛聴してきましたが、松田さんのものはセゴビアや初期のウィリアムスに通じる美しい和音と丁寧な演奏から楽曲そのものの詩情がこぼれ出るような素晴らしい演奏で大変なものでした。

 何はともあれクラシックギター鑑賞において造詣を深めたい方は読んで損はない一冊であると思いお勧めいたします。

 

(第115回) セゴビア・イノヴェイション(14/8/31)

セゴビアはイノヴェイション奏者である。イコール、新手法、発明、新しいアイディアによる手法などの導入、革新者。
 つまり誰も今まで気が付かなかった或る曲の或るフレーズの、或る箇所に美を発見、美を取り出す事に成功した。
 例えば松尾芭蕉が田舎家の縁側に座っていて、目の前の池か井戸に蛙が飛び込んだ。よく在る風景です。それを『古池や・・・』の5、7、5に凝縮した。
 セゴビアがギターで弾いている曲はそのような一見平凡な情景を永遠の美の世界に閉じ込める事もしておられる。それは科学で言えば発明(invention)であり、発見(discovery)で、革新(innovation)的なギター音楽の創成であり、彼の向かった方向にギター音楽演奏家の卵はまっすぐに、脇見をせずに取り組んで進んで行かねばならない。ギターを学ぶ学生はその道を目指して進まねばならない。その先にギター音楽世界に新しい展望が開け、ギターが一般音楽に匹敵する、いや凡ての一般音楽を凌駕する音楽を演奏出来る楽器であるとギター関係者のみではなく世間一般に、ギターはああでなければならない、ああでないギターは邪道のギターで通俗的音楽を奏でるギターであり我々の奉じるギターとは言えない、との正しい判断と評価が生まれる。ああでないギターはギターではないとの認識。
 その世界はあたかもアンドレス・セゴビアがギター関係者皆の為に、いや、ギター音楽の為に開かれた(=お開きになった)芸術の園なのだろうと人に思わせる美の楽園である。
 その楽園の入り口である門は多くの人が覗き、這入りたいと願って入るが、出て行く人も多い。自然界には元々、道なんてものは存在しない。多くの人が通れば道になる。セゴビアの居る楽園には、あまり留まっている人が多くなく、その門の周りだけは多くの人の溜まり場であり、人の出入りで踏みならされたただのだだっ広い広場になっているようだ。
 もう一度言う。ギタリストのセゴビアはイノヴェイション奏者である。イコール、新手法、発明、新しいアイディアによる手法などの導入、革新者。真剣に評価して学ぶべきである。ギターでしか出来ない貴重な実例である。

(第114回) Ben Cisco's World of Music (2014/8/10)

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このアーティクル(by Mr.Ben Cisco )は私の事を全然知らない人で、先日私あてに送って来られたものです。最後の段落に私との関連が取り上げられています。私の拙訳を掲載しておきます。

マツダ アキノブ
 日本のクラシックギタリストマツダ アキノブはアンドレス・セゴビア、フェルナンド・ソル、フランシスコ・タルレガの伝統を弛まず受け継ぎ続けている。
 多くの読者はもう既に気付いているでしょうがクラシック音楽は多くの他の、ジャンル、ロックやジャズも含めて影響を与えて来た。事実、クラシック音楽の影響はNeoclassical Metal(ヘヴィーメタルのジャンルの一つ)として知られているロックの分野に増え広がっている。イングヴェイ・マルムスティーン(Alcatrazz), リッチー・ブラックモア (Deep Purple, Rainbow), ユリ・ジョン・ロート(Scorpions) andランディ・ローズ(Black Sabbath)達はこのスタイルを世に広げた最初のギタリスト仲間である。
 それで、マツダ アキノブは注意を払って眼を留めそして耳を傾けるのにふさわしい日本の最高のギタリストであると思われる。
 松田は1933年日本の姫路市に生まれ14才でギターを弾き始めた。初めは近所に住んでいた坊さんにレッスンを受けるよう推薦された。たまたまお坊さんはクラシック音楽が好みで彼の弟子の興味を優れたクラシックギターの名手へと導いた。
 1959年松田はAndre´s Segoviaに出会った。Andre´s Segoviaはマツダ アキノブの演奏に非常に強い印象を受けたのでスペインに来て自分のところで勉強するようにと招待した。松田は翌1960年にヨーロッパに向かった。そこでは2年間セゴビアと他のクラシックの優れた奏者ジョン・ウィリアムスの元に学んだ。
 松田は音楽歴の過程において沢山の賞を授与されていて世界各地で演奏をして来た。彼は数枚のアルバムを録音し、ギターのテクニックに付いての教本も出版している。彼はギタリストとしての思いを2001年に出版したエッセイ集「ギターは小さな星のオーケストラ」に書き留めている。残念ながらそのエッセイは日本語でしか入手出来ないが、マツダ は何時か将来には英訳が企画されるでしょうと言っている。
 松田さんの愛器は1892作のトーレスです。Antonio de Torres Juradoは19世紀の最も重要なスパニシュギター製作家としてひろく認められている。Acoustic Guitarmagazineの2003年秋号の記事の著者Kenny Hillは次のように言っている。 
 19世紀の半ばAntonio de Torresはギターを再定義し考え直した。彼はあの時代の決定的な先駆者であり改革者でそれ以来のギターメイカーのギターを世界レベルにおけるステージ用またはコンサートホールのコンサート用楽器に成長して行くべき新しい進路を示す事にもなった。
 トーレスは1892年に亡くなっているので Matsudaの所有するトーレス製のギターは、このスペインの弦楽器職人の最後の作品の一つなのです。まことに貴重な秘蔵の財宝をお持ちです。そして松田さんの演奏は、この貴重な楽器の歴史と出来栄えを、充分に発揮させてくれ、しかも、松田さんの師であり指導者であったアンドレス セゴビアの偉大さを忠実に伝えてくれるのです。
 In the middle of the 19th century Antonio de Torres redefined the guitar. He was the deciding innovator of his time,bringing various elements of guitar making together in a new design that has shaped the work of every guitar makersince, and even shaped the growth of the guitar as a concert instrument on stages and in concert halls world-wide.
 De Torres passed away in 1892 so the guitar that Matsuda owns is one of the last made by the Spanish luthier. It is,indeed, his most prized possession and his playing does justice to the history and stature of this guitar and to his teacherand mentor, Andre´s Segovia.
松田晃演註=
私が知らない世界のどこかで私のギター演奏に歴史的な価値があると評価して頂いた事は私にとりましては非常に名誉な事だと思いました。最終のフレーズではギター音楽における歴史的重要人物と言うような意味での表現は私の全く考えても居ない事でした。一応その部分には原文を添付しておきました。
このウエッブ雑誌へは http://bencisco.com/wp/blog/2014/07/14/akinobu-matsuda/ ここにアクセスして下さ。私の写真、You-Tubeなど見て頂けます。

(第113回) 梶井克純先生 (2014/7/31)

 京都大学、大学院の先生が姫路の拙宅に来て下さいました。梶井純(よしずみ)先生です。
 バッハの無伴奏ヴァイオリンの歴史的名演の(多分)世界最古の録音盤を私共が所蔵していまして、それを聴くために来られました。それはいわゆる手回しの蓄音器での試聴でしたが、先生はそれはそれは熱心にお聴きになられました。
その後、数週間の後に先生は真空管のプリメインアンプをご持参下さいました。素晴らしい作品です。
 梶井先生へのアクセス
http://ultra-pure-sounds.jp/about.html

 先生の含蓄の深い真空管のアンプの事等の記事が書かれています。興味のある方はアクセスしてご覧下さい。
 今回お持ち頂いたアンプによって私共の今まで知らなかった再生音が私共の音楽室で鳴り始めました。セゴビア先生は録音は自分の演奏の陰だと云われましたが、この様なアンプによれば音楽はCDもLPも生に近い音がして居ます。目を開かせて頂きました。

(第112回) オットー・クレンペラー (2014/7/10)

 1961年でしたが、ロンドンのフェスティヴァル・ホールで今夜オットー・クレンペラーが指揮をするから、と私のドイツ人の弟子アナトール・レニエーの父チャールスさんが聴きにいくように強く薦めてくださった。
 私はロンドン生活にも少しは慣れて来ていたので、早速ロイヤルフェスティヴァルホールに出かけていった。当然当日売りはなく、しかもオットー・クレンペラーは当夜の全コンサートのほんの一部、Beethovenのレオノーレ3番序曲の一部のみの指揮をされるとの事であった。私は沢山の当日券の返券待ち(キャンセル待ち)の行列の最後尾に並んだ。暫く待っているとこのコンサートの最高価格のチケットのキャンセルがあり列の一番前から順に購買希望者を募ってくる。幸い私のところまで手を挙げる人はなくわたしは1枚のチケットを手に入れる事が出来た。
 当夜のオーケストラは普通の演奏をしていたが、その指揮者と交代して杖を突きながら指揮台に立ったオットー・クレンペラーがふっと上げた指揮棒をすっと降ろすと、驚いた事にオーケストラは今までとは全く違う音を出し始めたではないか。
 現在の私の「ギターはオーケストラである」という立場からギター演奏の事に当てはめるとオットー・クレンペラーはギターを弾く人の頭脳でありギターという楽器はオーケストラです。ギターを弾く指はオーケストラの楽団員です。ギターを弾く人つまり頭脳(指揮者)がオーケストラつまり楽器から音を出させているのだと言う事を如実に物語っているのだと解らせられました。
 これ以上何も説明する必要は無いでしょうが。
 昔わたしはマドリッドでラミーレスのお店を訪れた事があります。その時お店のギターをポロポロと弾いていると店主が出て来て、もっと好い楽器を見せてあげると、偉大なアンドレス・セゴビアから預かっているギターだと言って手渡してくれました。それを手にして弾くと恐ろしいほど何の努力も無くセゴビアトーンが出るではないか。腰が抜けそうになりました。
 頭脳と楽器と指についてですが、どんな楽器でどんな指ででも恐ろしいほどの凄い音が出せるという事です。何日もその楽器を使っているとその楽器はその人の音になります。一つのヒントはギターを膝に乗せる時、凄い音を出すのだという強い心を持っている事です。出る音を強く心に描いている事です。凄い音とは弾く音楽にはこういう音が絶対に必要だ、このような音を想定して作曲をしてあるのだという想像力と、決意があれば出せるのではないか。およそソロ楽器の名手、名演奏家たるもの必ずその人の音を持っている。そしてその音色のヴァリエイションはその名手の理解の範囲内で多くの作曲家に必要な音に適合している。それはその名手の頭脳が作り出す音です。
 このように神経を音楽に集中するためには、悪い音、不完全な音、はっきり言えば、音楽的に未熟な人と付き合わないようにすることもひつようです。そして、通俗的な音楽に耳を染ませない事です。精神が低俗になります。
 音楽は神聖なものです。音楽によって崇高な精神を表現出来ます。歴史に残る詩人の詩のような感動を人に与える事が出来ます。それは魂の強烈な且つ純粋な昂揚を生み出します。悩める心、絶望に沈む心に慰めをもたらします。美しいものに触れたときの人間の魂の興奮です。ギターによれば奏者が精神を集中して演奏しているとそれが可能です。音楽学ぶ人は決してエンターテイナーになろう等と思ったりしてはなりません。エンターテイナーとは人に娯楽を提供する人の事です。
 エドガー・アラン・ポーは「詩の原理(The Poetic Principle)」において、芸術は天上の美へのあこがれである、と言っています。芸術に関心があり、それを生涯の友としようとされるのであれば、このエドガー・アラン・ポーの本は是非共お読み下さい。わたし如き非才がする受け売りを聞いても薄っぺらな話に成ってしまいます。この文を読めばエドガー・アラン・ポーと直接に話が出来、詳しい知識を得る事が出来ます。
 終わりに、わたしはクレンペラー氏のように音楽を理解しているが目の前の人たちに、オットー・クレンペラーがオーケストラの楽団員達に頭に在る音楽を伝達する様にうまく伝達出来るかどうかは自信がありません。自分が、自分の楽器によって或る程度それは出来ると思っている。生徒たちと同じ楽器を使って弾いてみせる事が出来ます。それは大変便利で有利な事で、お弟子のオーケストラと同じ編成の楽団で弾いて見せてあげる事が出来るのは嬉しく楽しい事です。ある先生は「先生は生徒よりも下手なのが当たり前だ」とおっしゃっていたそうだが、(ギターの先生ではない=謙虚な方だ)わたしはまだ弟子より下手だとは思っていません。面白いのは、生徒の鳴らすオーケストラに負けないオーケストラの音を鳴らして聴かせて上げられます。そして深い精神的な芸術的な音楽については、見本として弾いて聴かせられます。易しい初心者のための練習曲だと思われているような曲では、その小品を美しい音楽にして見本として聴かせてあげられているのではなかろうかとも思っています。易しい練習曲を馬鹿にしないで勉強の糧にして欲しいのです。(この易しい曲目を名曲のように弾くという事はギターでしか出来ない特筆すべきギター演奏の特質ではないかとわたしは思っています)糧とは大きくなるための栄養です。これらの事はオットー・クレンペラーがしようと思っても出来なかった事かも知れません。
 註ー2006/9/15にアップした「ギターと私」第13回のサッカーブームを参照して下さい。第13回はホームページのトップペ−ジの中程のバックナンバー NO2をクリックして頂くと出ます。

 

(第111回) 幼児とクラシック音楽 (2014/5/8)

私は仙台で保育園を経営しています。
 園児は0〜2才 19名 3才以上が13名 計32名の小規模な保育園です。
 一般的に保育園内でいつも流れているのは、幼児向けに作られたテレビ番組のテーマソングなどがほとんどです。このような音楽を聴いて子どもたちは音楽的な感性を高めることが出来るのかいつも疑問に感じていました。
 当園ではアンドレスセゴビア、松田先生のCDを園児たちに聴かせるようにしています。0〜1歳児にはお昼寝の時間帯に聴かせていますが、園児たちは気持ちよく睡眠しているようです。3才以上児には朝の登園と食事の時間帯(園内ではレストランごっこと称している)で聴かせています。その他、オーケストラはもちろんチェロ、ピアノ、ヴァイオリンなど歴史的巨匠の演奏家を中心にBGMとして園内で流しています。
 子どもたちは嫌がりもせず、何の疑いもなく聴いていて、保育士が「今日はどんな音楽がいい?」と尋ねると、ギターやクラシック音楽のリクエストがあります。
 アメリカでの複数の研究結果によって、幼児期にクラシック音楽の刺激を受けて機能強化されることが、証明されていてフロリダ州では「託児所で毎日30分間クラシック音楽を流すよう、指導する」という法案を可決しているようです。
 クラシック音楽を聴く事だけで子どもたち全員が美しい精神を持った人間に育つなどとは考えてはいませんが、幼児期から美しい音楽や絵画、美しい自然などに触れることが多ければ、子どもの純真の心のどこかに美しいと思える感性が少しでも芽生え、成長いくのではないかと期待しています。

加藤守節 (モリトキ)

松田晃演(註)
この欄の前回「塩谷宏太君との対話」 (2014/4/14)の「人は年と共に汚れていく」の部分及び(第101回) 「ギター音楽」 (2014/2/5)を参照して下さい。わたしは加藤さんの子供たちへの教育方針に全く同感し、このE-Mail messageを読んでうれしくなりました。

 

(第110回) 塩谷宏太君との対話 (2014/4/14)

塩谷宏太君から久々にE-Mailで詩が送られてきた。以下に紹介する。

*****
「疲れたこころに 春の光と芸術。
ほつれた考えを そっと 机の上に
置いて 忘れてしまったら
この世界はただ ひたすらにうつくしい
苦しむほどに。 うつくしい」

松田さんの芸術は、
春の穏やかな あたたかな 日差しの中できくと
涙を誘いますね。

汚れていませんよ。
まだ こころまでは。

塩谷宏太

*****

それで書き置いていた次の文章を思い出し、彼に送った。

『「人は汚れていく」
「人は年と共に汚れていく」

肉体的にも精神的にも、人は年とともに汚れていく。それは留まる所を知らない。残念なことです。
肉体的な変化は、外見も内臓の変化もわかり易いし意識されている。
ところが、精神的な劣化は簡単には見えなくて、意識されることは少ない。
精神の汚れが肉体にも現れるが、精神そのものの汚れも意識するべきではないか。

わたしが愛読していたギリシャ神話に、父が母に殺されてその子が父の仇として母を打つという話がある。(『アガメムノンとオーレステース』)そのような人生が、人を待ち受けていることも往々にしてあり得る。
父の死後その仇討ちを父の霊前に誓うが、それはその子の運命なのか。実人生でも人は汚くなっていくが、その真の理由は世間には見えない。

幼い子供が立派な大人をみる(眺める)時の目は純粋だ。以前私は卒業した小学校の子供達にギターの演奏を聴かせてあげたことがある。
子供達が少し下からわたしを見上げる目は、遠い昔のわたしが今のわたしを見上げているのでは、という錯覚を覚えさせた。その目は純真だった。

有名人に、「子供が好きだ」と表明されている人は多い。子供達が強い憧れを持って眺めてくれると、汚い魂が純粋な魂によって洗われる気持ちになるのかもしれない。
でも、子供の精神は、実はまだそんなに美しくはない。何故なら強く美を求め理解する人に教育されていないからだ。教育されていない子供は動物=獣(けだもの)だ。』

と返信したのに対して、塩谷君よりまた返信があった。

*****

先ほどのメールは、とても素敵な文だなと思いました。中でも、

「子供達が、少し下からわたしを見上げる目は、
遠い昔のわたしが今のわたしを見上げているのでは、という錯覚を覚えさせた」

という箇所は、松田さんの「音楽」や「美」に対する姿勢が強く感じられます。

多くの人にこのエッセイは読んでもらっても、何ら問題ないのではないでしょうか。

子供のころに持っている憧れや好奇心、強いエネルギーを大人になってからも、
ずっと持ち続ける方法はないのでしょうか?

『純粋な精神』とは、どのような感覚なものなのでしょうか?

塩谷宏太

註(松田晃演)=塩谷宏太君の文章は投稿欄(2013年4月13日)の「塩谷君からのE-Mail 」を参照して下さい。

 

(第109回) 偉大な先輩 (2014/3/23)

 自己のDNAを残す為にだけこの地上の生物は生きているのだとしたら哀しい話です。
 人間だけが、芸術と言う手段によって、DNAへの関心が薄くてよい。つまり子孫を残さなくても業績(作品)?が残る。
 超一級の音楽家、画家、彫刻家、建築家、書家達は子孫、詰まり後継者を残す必要が無い。なぜなら、彼等超一級の芸術家の作品はDNAの進化の枝の最先端で完結しているから。その芸術家は彼の個性を発展させて、その行き着く究極の位置がその芸術家の生産物なのです。その芸術家は進化して行くその先がない所迄進化していっている筈ですから。進化の枝の最先端にいるのです。そうでなかったら、その芸術家の作品は、未発達のもので未完成のものと結論出来る。
 では音楽家の中の演奏家はどうか?つい最近までは、伝統の伝承であって弟子を作らなければその完成された演奏法は残らなかった。しかし録音と言う手段が発明された現在、作品(演奏)は残る?そして弟子によってその芸術家の業績は、発展させる必要はない。何故なら、その演奏家(大先生)の演奏は先生にとっては行き着く所迄行ってしまっておられるので、弟子が先生の演奏のDNAを頂いても、それは真似事にしかならない。そこで弟子は先生の進化された所とはの別の進化の枝を作って進んで行かなければならない。
 わたくしが言っている意味をご理解頂く為に一つの例を挙げておきます。
 バッハの、ショパンの、パガニーニの、リストの録音が、もっと言えばルイス・ミランのドゥ・ヴィゼーの、スカルラッティーの録音が残っていたとしたら演奏家の世界は全然違ったものに(演奏家と言うものにとって)成っていたに違いない。諸兄。想像力を働かせて考えて下さい。
 凡庸の演奏家=人、が生きて行けたかどうか?アマチュアは別として凡庸の人に演奏家に成ってやろうと言う意欲、情熱が芽生えたかどうか。感受性豊かな人が絶望しないでバッハ、ショパン、パガニーニの様に音楽の演奏が出来る様になるだろうと考えて努力を重ねて精進する事が出来ただろうか?です。
 「自己のDNAを残す為だけにこの地上の生物は生きているのだとしたら情けない話です。」とはそう言う意味です。感性、理性、知性等と違いDNAを残す為だけにとはSEXの為にのみ生きているという事で、人間の生存理由はないという事です。

(第108回) 精神の幼稚な人 (2014/3/20)

エドガー・アラン・ポーの文の中に「知恵の木や、死をあたいする禁断の木の実などの話をふくんだ比喩の中に、知識は精神の幼稚な状態にある人にとって不必要であるというはっきりとした暗示を見出したのだ」とありました。
 ギター演奏に於いては精神の幼稚な状態にある人が蔓延しているのではないか。ギターに限らず人は精神的に成長して行くので精神の幼稚な状態から脱する為に何をすれば良いかを各自、自己責任に置いて考えなければ成りません。ギターさえ弾いていれば満足であった時代を誰でも持った事がありますが、それが飽き足らなくなる時が来ます。それが来ない人を精神の幼稚な人と呼びます。ギターさえ弾いていれば満足であった時代を一刻も早く抜け出さなければ成りません。
 ギターさえ弾いていれば満足な、その様な人にギター演奏に関する知識詰まり、演奏のテクニックを教える、伝える、という事は不必要であるという事です。

(第107回) 学生ギター (2014/3/20)

 正しいギターの弾き方を習いたくもないし知りたくもない集団、それをわたしは「学生ギター」と名付けている。芸術的音楽等はどこ吹く風だ。それは雑草の生い茂っている人手の入った事の無い原野の様なギター演奏の事です。
 よく訓練されたギター演奏は手入れされた美しい庭園の様です。

(第106回) 純粋音楽 (2014/3/16)

純粋音楽と言う言葉があまり使われなくなっている。
 わたしはギターに接した早い次期からギター音楽を純粋音楽としての存在意義を持たせなければと言う強い願望(希望)を持って来た。(らしい)
 本当のギタリストによる本当のギター音楽、アンドレス・セゴビアの弟子たるものは何の役にも立たない音楽演奏(何かの役に立てようとの目的意識を持ってしない音楽演奏)に生涯を掛けてその生きて来たその事に後悔をしない。わたしはそのような生き様を目指して来たのだろうと言う様な気がする。如何に音楽の天才であってもその業績が「有用であった」として自己の生涯を正当化する事が出来ないという立場にあるべきです。
 わたしは私のギター音楽演奏が癒しの音楽であり、慰めになると言われても心から喜べなかったのは、そこにある。この言葉(慰めになると言われても心から喜べなかったと言う言葉)が嘘に成らない為に言っておけば大金をかけて作製したCDが少しでも売れて欲しいと言う欲から「わたくしのギター音楽は癒しの音楽である」と言って宣伝的な事は言った事があります。でも言い訳を言わせてもらえば、真のギター音楽詰まりギター音楽が純粋音楽であっても癒しの音楽であると言い切れるのでありそう言える事がギター音楽の特殊な本質であるとも思えます。
 僕の理想は「ギター音楽」はユニヴァーサルであるべきだ、ということです。何時何処でも誰でも、つまりギター音楽に国境は無い、言葉が通じなくても理解されるべきだ、と思っています。教養の高い方々のみならず、一般大衆の低俗な音楽を愛好される方までも含めてわたくしが演奏する様なクラシック音楽を楽しんで頂けるのが「ギターによるクラシック音楽」でなければならないと信じて居ます。
 自己宣伝に成りますがわたしのYou-Tubeに掲載しているJ.S.バッハのチェロ組曲よりのプレリュードとジーグは約36,500、ポンセは21,200というアクセス数を数え、多くの方々が評価して下さっています。ついでながらそこへのアクセスのアドレスは
バッハ、 You-Tube-1 Bach Akinobu Matsuda "J.S.Bach Cello Suite no.3" 
ポンセ、 You-Tube-2 Ponce Akinobu Matsuda / Allegro Non Troppo "Prelude" (Ponce)
これらをクリックして頂きましたらとなっています。
 音楽は理屈っぽくては不可ません。そして拍手喝采を求めて拍手喝采を得る目的の演奏乃至は音楽解釈をして、聴衆に聞かせようとしては不可ない。聴衆に媚びる事はいけない。
 僕の音楽演奏、演奏解釈は日本ではスタンディングオーヴェイションをして頂いた記憶は殆んどありませんが、アメリカ合衆国ではスタンディングオーヴェイションをされた事も幾度か在りました。あなたの音楽は「Soothinngだ(慰めになる)と言うお褒めの言葉、そして舞台に若い女性の方が上って来てハグをされた事もアメリカ合衆国では何度かありました。
 わたしは近年「ギター音楽に国境は無い、言葉が通じなくても理解されるべきだ」をモットーとして演奏する事を忘れかけていました。或る種の気難しく理屈っぽい音楽演奏を目指していたのかも知れなくて、ギター音楽の大切なユニヴァーサルである一面を忘れかけて居た様な気がして大いに反省をして居ます。

(第105回) 音楽と数学 (2014/2/10)

 小学校4.5年生の頃だった。太平洋戦争たけなわ、敗色濃厚の頃だったと思う。わたしは学校帰りに何時もの様にお城(姫路城)の中堀の乾いている所をランドセルを背中に歩いていた。何処からとも無く2、3才年上の悪ガキが数人出て来て堀の中で囲まれていた。僕はどうも坊ちゃん風で弱々しく見えたのかそれは判らないし彼等もどう言う意図で僕を取り囲んだのか自覚していなかっただろう。その内の一人が、「通知簿を見せろ」と僕に迫った。ランドセルから通知簿を出して見せると彼等は非常に驚いた。それには全部に5が付いていたのだ。「こんなん見た事無い」と一人が言った。もう一人が「おまえは勉強せー。わしらは工場で働き武器を作り戦争に行く」「お前は頭をつこて、ええ武器を作れ」と言う言葉を残して何処かへ去って行った。
 わたしの2、3才年上で天才の誉れの高かった先輩は(この地方からは1人か2人)天才教育をするのだと広島に天才教育学校が出来てそこに集められて原爆のため帰らぬ人となった?らしい?彼等は事実、戦争の為に新兵器を作る為に広島に集められていたのだそうだ。
 つい最近素数に関する本を読んでいたが、天才ガウスやリーマンは殆ど引きこもって素数と複素数に付いて研究していたらしい。彼等が書き残したノートは今に至って多くの数学者を悩ます命題(正しく最後まで証明されていない或る意味では予想)が書かれていてそれらを証明する事が未だに出来ないでいる命題もあるらしい。
 読んでいると面白い事に、ある著名な数学者がヨーロッパの戦争のため監獄に入れられていたが、その間に(1、2年か)、数学の複雑な問題の解を考えて編み出したらしい。実はわたしは若い頃、監獄に入れられてもギターさえ持ち込ませてくれたら凄い演奏が出来る様に成るだろうと思っていた事があります。ヨーロッパ留学もそのような感情、誰も知る人が居なくて、誰とも挨拶はしなくて好い、つまり、世間的付き合いが何もなくなって、ギターの事しか考えなくていい生活が待っているとの大きな期待が不安の一方には在った。
 ヨーロッパでも戦争の武器製造の為に数学の出来る人は協力をさせられていたらしい。
 素数と複素数については中々複雑でわたしのごときものには到底理解しがたいのだが(虚数=2乗してマイナス=√−T等も関係して来る)それらについて研究が進んで来て音楽に関係がある事が判って来たらしい。どのような複雑な雑音も、勿論オーケストラのトゥッティ(全奏=全楽器が同時に弾く)も正弦波に分解して人工的に作製出来るらしい。それに反して、ギターとその音楽及び演奏は何処まで行っても知的な人々の研究対象にはなって来ていない。ヴァイオリンは昔から豊かな才能の持ち主が最高学府で教鞭を取って来られたと言う歴史が有る。羨ましい限りである。偉大なアンドレス・セゴビアはケンブリッジ等で博士号を与えられたとかの記事をみた事があるがそこには音楽を理解し教鞭をとりセゴビアさんを迎え入れる素地が無かったので何の意味も無かったのだろうか?
 わたしはおこがましくも、かの著名なヴァイオリニスト、ヨアヒムのSPレコード盤を彼が生涯で録音をして残している5枚のうち4枚持っている。残りの1枚がオークションに出たと言う報告がレコード会社から在り、オークションに参加してもらった。幾らになるのかびくびくして待っていた所、ケンブリッジ大学の音楽部に競り落とされたとの報告を受けた。幾らで落ちるのか心配していたが或る意味でホッとした。
 そのヨアヒムのレコードはバッハの有名なヴァイオリンの為の無伴奏パルティータのブーレとドーブルで、セゴビア先生の編曲も録音も在りギターでは良く知られた曲目の一つである。

(第104回) スタート・アゲインのお勧め (2014/2/9)

わたしがここまで来れたのは私の考えが(沢山に言ったりしたりして来た事)間違っていなかった証です。では無くて、如何に間違いを発見しスタート・アゲインをして来た事の証です。誰もが出来無かった事をしなければ成らない。そレが世界一に至る道です。それを聞き分ける耳を持ち判る耳を持ち根気よく鍛える事です。

(第103回) デュ・ソートイの「素数の音楽」=其所から派生したわたし達 (2014/2/7)

リーマン予想、
混沌から現れた秩序
 ポンセの或るソナタは混沌から現れた秩序、とわたしはずっと前にポンセの楽譜の頭に書き込んでいた。その曲を弾いていてわたしはポンセがその感じを音楽で現そうとして書いたのだと思えば演奏解釈がやりやすいとわたしなりに思ったらしい。それを音楽にして演奏出来る所まではわたしは中々そこまでは行かないし大体の所で行き停まって居る。
 リーマン予想がそれで、ガウスもリーマンも数学の非常に難しい証明をノートに書き残しているらしい。わたしが出来る事(証明)は録音しかないようであるが、例えばポンセの他の作品でそれに似た様なヒントを演奏する事が出来ていると云えるかも知れない。頭、心の中に持っている感じを説明しているという事です。なおバッハの音楽はそれらの公式の解(つまり演奏=演奏解釈)の様な余人には伺い知れない複雑な解=正しい演奏解釈が存在する様な気がしている。真の音楽家にしか評価出来ない音楽解釈は多分真の優れた頭脳を持つ数学者にしか判らない数式の羅列の書かれたノートブックの様なものを通して説明されても判らないでしょう。
 残念ですがデュ・ソートイの「素数の音楽」はわたしは読んでも半分も判りませんが、なぜか面白いのです。素数に付いても数学の素人にも一応判る様に説明が為されている。ギター演奏によるバッハの音楽をギターを弾かない人、他の楽器の音楽家にも判る様に説明出来ればそれを読む音楽をしない部外者にも楽しんでお読み頂けるのではとの刺激を受けました。それによってギター音楽の真の価値が正しく評価されるようになるのではないかとわたしは信じている。
 それらはギターにしか出来ない音楽の表現であって、それは何かと言うと弦に対するタッチがギターを極めたものにしか出来ない、つまり楽器と弦とが人間の体を通して一体に成っている奏者、仕上がっている奏者、にのみ感得出来ている極致である。
 それらに付いての不思議な会話は投稿欄に熱心な方々がわたしのレッスンに付いて感想をお書きになっています。
付記 先日面白い事を思い出した。あるギター音楽の初心者、詰まりギター音楽に興味を持って生涯を捧げても好いかなと思っているらしい人が居てその方に4、50年前にお会いしたが、その方はその時「わたしは3流を目指してギターの勉強をしている」とわたしに(特に私に向かって)お告げになった。その方は今では人前で演奏為さっているらしいが、わたしは「その方はもう四流くらいまでは行っておられるかな」と思い出している次第である。

(第102回) 発想を付ける楽しみ(グラデーション及び溜め or 矯め)(2014/2/6)

グラデーションを美の表現に!
1つのフレーズを(2、3小節に渉って)弾く時の課題を与えておきます。
幾つかの考え方が在ります。
1)強弱(強から弱へ、弱から強へ)
2)音色(SOFTからHARDへ等)
3)緩急(徐々に速く、または徐々に遅く)
4)各音の立ち上がり。(staccatoではない)
 1)は2つの音にも適応する事が出来ます。2つの音を同じレベルで考えない。FからPにとかいろいろと利用すべきです。2つの音に色彩や情感の変化を与える事が出来ます。その事で2つの音が1つのグループとしての働きを示し、演奏する音楽に内容と深みを与える事が出来る。
 2)は音色が明るい音から暗くなって行ったりその反対、白から黒、赤から緑、哀しみから喜び怒りから優しさ、等に在り其処に1)が加われば無限の変化を音楽演奏に与える事が出来る。
 3)はCresc. poco a poco またはRalentando poco a pocoが一応グラデーションを要求する指示でしょうか?
 4)は修練を要する。staccatoではなくて或る音の次ぎの音を弾く指が少し早めに次の音の準備をする結果としてある音の始めの部分が少々遅れて出る様な感じに成るのでstaccatoだと勘違いする様ですがそうではない、と正しく理解しておく必要が在ります。そしてその切れ目の分量が徐々に多くなるまたは少なくなる事に於いてグラデーション的な美を創造する。
このことはもっとも重要なので改めて説明をしておく。
 例えを上げれば。
 或る音(A)の長さを1センチとして9ミリに成った時に次ぎの音(B)を用意して1センチの所で弾く。(B)の長さを1センチとして9、1ミリに成った時に次ぎの音(C)を用意して1センチの所で弾く。これを繰り返して8つ目の音迄行くと(H)の音の長さを1センチとして9、9ミリに成った時に次ぎの音(I)の音を用意して1センチの所で(I)の音を弾く、となります。それは徐々にレガートに成って行くので美しい。その真逆のグラデーションも出来なければ成りません。
この技術はギターではやれば出来る事でしょうが、ピアノやヴァイオリン、チェロのような楽器では難しいかもしれない?判りませんが感性と執念が沢山有れば出来ます。

溜め or 矯めの応用
ずっと以前から3拍子の曲の各拍の弾き方を説明しておりましたがここに改めて説明しておきます。それによって溜め or 矯めの大切さと効用がお判り頂ければとのわたしの試案です、
1)第1拍目を少し遅れて弾く。
2)第2拍目を正しい位置で弾く。位置とは時間の流れの中での正しい在るべき時に弾く位置の事です。
3)第3拍目も2)と同じ。
これを各音の長さから観察すると第1拍目は0.9第2拍目は1、第3拍目は1.1の長さになり3拍子がこの様に各拍の長さを見た目では全て異なる長さで演奏している事になる。これがギターに限らず音楽演奏における溜めor矯めの効用である。

この様なテクニック、習慣、または感性を使いこなす事であなたの音楽に音楽家としての(もしあなたが音楽家もしくは音楽家魂=MUSICIANSHIP=をお持ちの方ならばですが)表現力を増す事が出来る。詰まりあなたはあなたが出す全ての音に心を込めて弾く事が出来るならば、大きな強い表現力を持った音楽家(詰まりMUSICIANSHIPの持ち主)として高く評価される事になるでしょう。

註=この文は成る可く早い時期にギターによる音楽演奏への常識の様なものを盛り込んだガイドブック的なものを書こうとしているうちに出来て来ている文の一つです。

(第101回) ギター音楽 (2014/2/5)

 最近頓に思い感じるのですが、10歳代の頃からわたしは偉大なアンドレス・セゴビアを見上げ特に彼のバッハ、ポンセのギターによる演奏に感銘を受け、わたしはギター音楽に生涯をかける決心をしその事に大きな意義を見出して居ました。
 ギターによって崇高な芸術世界を描く事が出来るのだと言うハッキリとしたアンドレス・セゴビア師の強い message を若いわたしは受け取ったのだと思います。

2013年

(第100回) 偉大なアンドレス・セゴビアの教えを受ける事 (2013/12/16)

 偉大なアンドレス・セゴビアのレッスンを受ける時、自分の個性を持っていないとおかしな演奏になるので先生の言葉(音楽)を受け入れられない人がある。
 喩えて言えば、セゴビアさんの服を借りて着る様なものです。なんとも似合わない。セゴビア先生の個性的な趣味の似合う人なんか居ません。セゴビア先生の個性は大変独特なので受け入れられない人は多い。
 わたしが生涯の最初に、生まれて初めてセゴビア先生のレッスンを受けて(1960年、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラにて)感じた事は「これは駄目だ、人間が(わたしが生まれ変わって)セゴビアにならないと駄目だ。習う私がセゴビアになるしか受け入れられない。」でした。「あの様には弾けない」「アンドレス・セゴビアのギターによる音楽解釈はアンドレス・セゴビア以外の人がしたら可笑しい=見ちゃおれない」でした。
 結論としましては、強力な個性を持っていないとだめです。
 その上、強力な個性を持っていると音楽の神様の様なアンドレス・セゴビアには習えない。人智では計り知れない大きな矛盾です。
 セゴビア先生は私の意見ではセゴビア流の発想を一つも弟子に伝える事をされませんでした。実に不親切な教授法でした。これはあの様に未来を見通される方によって初めて出来る教授法であったと今頃になって思い当たります。
 説明をすれば、弟子がどのようにすれば上手く弾けるか、巧く弾いている様に見えるか、はわたしには見えていました。しかし先生はそれをされなかった。わたしには見えていたがそれを弟子にさせるとどんなに面白い滑稽な音楽に成ってしまうかセゴビア先生には見えていて、わたしには見えていなかった?らしい?のだ。
 セゴビア先生には見えていたに違いない真のギター音楽演奏(演奏解釈)を、セゴビア先生はこのもの達に教える事が出来無いのだ、何故なら「このもの達にわたしの美しい服を着せると面白い姿になって終う」ことが先生にははっきりと見えて居たのだ。

 

(第99回) ジョン・ウィリアムスが引退宣言 (2013/10/26)

ジョン・ウィリアムスが引退すると言うので大阪でのコンサートを聴きに行きました。
演奏法、演奏解釈等についてはNO COMMENTにさせて頂きます。なにしろわたしの元の先生ですから。
 夕食に誘いましたが終演後少々時間を潰してからホテルに迎えに上がりました。1960年のロンドン時代の共通の友人達に付いての近況など、懐かしく積もる話が沢山あるのでという事で、彼の好物のうな丼を食べながら話し合いました。大阪に前回来たときからもう22年になると彼はよく覚えていました。あの時は多分スカイのメンバーと来て居たと思います。
 ジョン・ウィリアムスを1965年に日本に初めて紹介したのがわたしで、ロンドンで世話に成った事でも在りわたしの故郷、姫路にも招待し山に行って、松茸のすき焼き等を奮発した事を彼はよく覚えていた。もの凄く高かったのをわたしも思い出しました。
 わたしがロンドンに行った当時は殆ど日本人がいなく、運良く通訳の仕事も引く手あまたで心配して居たホド生活は苦しくなかった。
 スペインからロンドンに着いて何処に留まれば好いのか判らず、空港で途方に呉れようとしていた時、一応ジョン・ウィリアムスに電話をしてみたが快く自分のフラットに来いと言ってくれた。数日してジョンが新聞でロンドン郊外のアガサ・クリスティーのミステリーでも知られていたクロイドンに、生活の為の住処を見付けてくれその宿泊所に落ち着く事が出来た。わたしは其所からジョンのフラットに毎週通う事になった。クロイドンには最初ジョンが一緒につれて行ってくれた。一応其処に住むことになって二人でロンドンに荷物を取りに帰ったが、帰りの電車に乗り違えて、ジョンは今後しては不可ない事を教える為にわざと間違えたのだと冗談に言っていた。クロイドンはもともとロンドンの飛行場の在った所だ。
 クロイドンからロンドンまでは2、30分の電車でヴィクトリア駅に着き其所から2番の二階建てのバスであのシャーロックホームズで有名なベイカー街で降りる。途中バスはバッキンガム宮殿の裏を通る。
 几帳面なジョン・ウィリアムスは毎週一回のレッスンを殆ど欠かさずしてくれた。わたしは何時も思い出しては感謝している。それというのもセゴビア先生が、お前がロンドンに連れて行って教えてやれと僕のためにジョンに命令をして下さったから、レッスン料も無料であったのは本当に有難い事だった。ジョン・ウィリアムスはセゴビア先生に無料で教わったから君には月謝を貰えないとわたしに説明して呉れていた。
 ジョンが新聞で探して見付けてくれたクラブはどう言う所かと言いますと郊外の町に点在する一戸建ての住宅を沢山持っていて、センターにクラブの様な集会所が在り各自は其処に食事に出かける。毎日食事は3回支給されて週に5ポンド(当時のポンドは1050円)でベッドメイキングも週に一回はしてくれるし、部屋にはガス、水道、炊事道具、カップと皿、ナイフ、フォークも付いていて約12畳くらいの広さが在った。食事は本当に質素なもので朝の食事には、"Egg or Bacon?"と訊いて廻ってくれる。詰まりどちらかしか付かない。
 クラブの近くには大きな広いヒース(原野の様な灌木林)が在り小鳥ガ一杯啼いていて散歩には最適であった。運が好いとヌードの写真撮影の場に行き当たり、自然の大木に美しい裸体の果実?が生っているのを鑑賞出来る事もあった。
 クラブではチェッカー、ビリアード等している暇そうな老人達がたむろしていた。若いわたしはギターの事しか頭に無く、周りがどうこうという事は殆ど気にならなかった。ジョン・ウィリアムスに与えられた課題は、ギターに生涯を賭けたわたしは相当難しいものであったがわたしは必ずそれらを暗譜してレッスンを受けた。翌年のセゴビア先生のコンクールに向けて準備するには本当に静かで気を散らす事も無くギター三昧の毎日を送る事が出来た。わたしはこの度ジョン・ウィリアムスと話していてあの苦しかった勉強に明け暮れた毎日を思い出して居ました。コンクールの課題曲はテデスコのボッケリーニ賛歌全楽章とかソルのグランソロとかが含まれていた。
 わたしはそこでロンドンでの生涯を掛けてクラシックギター音楽演奏家になるための旅立ちの準備が出来つつあったのだと思います。

(第98回)孔子さんと周公(2013/10/13)

 孔子は時々周公の夢を見ていたらしい。周公は孔子に先立つ事数百年の中国の歴史的に偉大な周の国の王であった。孔子は紀元前500年頃の方でその孔子が夢に見るくらい周公に私淑しておられたらしい。それで、最近周公の夢を見なくなったと孔子は晩年に嘆いて居る。
 わたしがその話を読んでハッとしたのは、実はわたしも最近セゴビア先生の夢を見なくなっているのです。昔はよくセゴビア先生の夢を見たものです。嘆かなければならない。
偉大なアンドレス・セゴビアの夢と言えばやはり自分の演奏会にセゴビア先生が来ておられる夢です。こんなに恐ろしい事があるでしょうか。わたしは夢の中で震え上がっていた。幸い何時も開演までに夢は醒めたのだが。
 余談ではあるが、わたしはセゴビア先生にわたし自身の演奏によるCDを聴いてもらった事はない。渡した事が無い。勿論ジョン・ウィリアムスにも上げていません。
 セゴビア先生の弟子達はセゴビア先生を恐れる。何故か判りません。セゴビア先生はあんなに人格の優れた人であるのに、自分たちが何か悪い事でもしている、またはして居たかの様に恐れます。皆でサンティアゴ・デ・コンポステラの公園で遊んでいた時遥か彼方にセゴビア先生の姿が見えた。皆、木の茂みに身を隠したものだ。またジョン・ウィリアムスがあるとき或る世俗的な事に大いに興味を持っていたのでその件について私がジョン・ウィリアムスに確かめた所、かれはこの件についてだけは絶対にセゴビア先生には言わないでくれと、わたしに念を押したものだ。そこ迄恐れなくてもとわたしは思ったが。
 セゴビア先生の夢を見なくなっているのはわたしが成長したからか堕落したからか?????そして孔子は周公を恐れていたのだろうか?????
 孔子さんと言えばわたしの好きな言葉「遠者来、近者悦」があります。遠くの人がその人を慕って来る、近くに居る人は楽しい(悦とは満悦の悦です)、と言う意味でしょうか。わたしも最近はわたしが知らなかった方が遠くから拙宅に習いに来られるし、近くの人にちょっと聞かせて上げると望外に驚き喜んで下さる事も在ります。

(第97回)松田節(2013/9/12)

 わたしは若い頃自分の演奏を松田節だとギター仲間に評された事がよくありました。評されたのではなく揶揄されているのだと若い私は感じていた。ギター仲間以外では、わたしの演奏評でわたしが最も共感する事が出来て居た音楽評論家の一人に松本勝男さんがあります。そして彼の言葉でわたしがよく覚えているのは、「文人画」であった。「文人画」に堕さない様にという意味でのご忠告であったと記憶しているが、「文人画」とは好い意味でか悪い意味でかその言葉は取りようによって変わって来るが、まあ気をつける方がいいのかなあとも思っていました。文学者、小説家等が描く趣味的な絵の事だろうと思っていました。
 しかし奏者は自分の言葉を持つ事は必須です。或る意味、テクニック主義に堕する事と「文人画」は正反対なので良い意味に取るべきだと今では思っている。
 偉大な芸術家である作曲家の精神に共鳴する事。
 音楽に発想を付ける手段には色々と在りますが
1)緩急
2)ヴィブラート
3)間を取る
4)音に対する柔軟な対応の仕方
等々一言で言えば癖であり、俳優さんでは一流の方で癖の無い人は居られません。上の1、とか3、などですべて当たり前の様に皆様は癖を持っておられます。
 誰が話しているのか判らない様な名優は居ません。

(第96回)レオポルド・アウアーのヴァイオリン奏法について-NO.2(2013/9/12)

 わたしは古い翻訳(1921年大正時代、ニューヨーク刊)で読んだのですが、この訳をされた方は、アウアーさんが言及されている著名なヴァイオリニスト、音楽家等全ての方について克明にお調べになって注釈を入れておられます。これは大変な労力であったでしょうが、こんにちでは或る程度簡単に検索して調べる事が出来るので、著、訳者はそこ迄はされないでしょうし実際上読者もそこ迄詳しく調べないでしょう。注釈が正しいかどうかは別として実に興味深い注釈で思い致らされる事が多く在りました。
 「レオポルト・アウアー(Leopold Auer, 1845年6月7日 - 1930年7月15日)は、ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリン奏者、教育者、指揮者作曲家、」ウィキペディアによればアウアーさんはこの様な方です。」この方のお話やお喋りを身近にお聞きする事が出来ます。
 何れにしても音楽に関心のある方が気をつけてお読みになると収穫の多い書物です。
 アウアーさんが多くの大芸術家を育てられた事は大きな業績です。私は、そしてギター音楽はと言いますと何と貧弱な事に成っているのだろうと残念で成りません。偉大なアンドレス・セゴビアの弟子達の一人として偉大な芸術家であると世間から崇められる様な人は未だ出て居ないのです。何故でしょう?アウアーさんの様な人が居なかったからか。違います。ギターを愛し、ギター音楽を理解し尊重する人が、アンドレス・セゴビアの様な芸術家が存在して欲しい、偉大なアンドレス・セゴビアに迫る感動をアンドレス・セゴビア以外のギタリストによるギター演奏によって感じさせて欲しい、と言う強い欲求が殆どなかった事によると私は思います。
 セゴビア以後のギタリストがアンドレス・セゴビアに匹敵するだけの芸術性を持ってクラシックギターと言う楽器を演奏出来る筈であり、その様なギタリストを育てる為に情熱を注がなかったのです。それの出来るギター演奏家が周りの努力次第では出現しても不思議ではないのに出現させようとは夢にも思わなかった。音楽ファンはギターで表現出来るギターを弾く偉大な芸術家が居なくてもいい、または出現の可能性を信じなかったのです。凡庸なギター演奏による、中途半端なギター音楽を聴いて楽しめると思っているのです。一方、ギター関係者は、ギターが演奏出来る大芸術家を育てないとギターによる音楽芸術が貧困なまま終わってしまうかも知れないと言う危機感を持たなかったのです。貧困なまま終わって終う事を是としたのです。
 音楽学校は実に凡庸な教師のみをギター科の教師として取り上げた。アウアーさんの言われるプロフェッサーをギター科の教授にすると言う先見性がなく内部抗争(ギター界の)に明け暮れた。プロフェッサーとは単なる教師、教授ではないのだとアウアーさんは仰っている。大変な権威をその方に与えるべきギター音楽への尊崇の念が音楽教育関係者にはかけらも無かった事に起因する。ギターに何時か大芸術家と称される演奏家は出るのでしょうか。誰かの死後その偉大な業績を残された何方かは偉大な芸術家であったと崇められるのでしょうか。一方でギター音楽に憧れ携わる若者の一人でもが死ぬ迄に、死んでからでも偉大な芸術家であったと、言われたい、または偉大な芸術家に自分は憧れているのだ、偉大な芸術家は現世の成功不成功は気にしないのだ等と殊勝な事を心に抱いてギター音楽を勉強しているのだろうか。
 ギター音楽が芸術的音楽の一ジャンルとして認められていないし、一ジャンルにしようと思う音楽関係者は一人としていないようです。セゴビア先生に言わせると、芸術的音楽を演奏しそれを標榜するギター演奏家が一人も居ないのが実情で、真のギターを知っているものからするとギター音楽の評価を貶める演奏家が町に溢れていて、これこそはギター音楽ですと演奏して廻っている事はギター音楽を愛するものに取っては堪え難い屈辱なのです。
 町の先生、ギター教師の一人でもその様な生徒を育てたい、育てて見ようと思っているのでしょうか?それともそうは思っていたのだがこの程度の弟子しか育たなかった、と仰っしやるのでしょうか?自分が、弟子に対して何も大切な事を命がけで、探し探求してやらなかった、何処かに好い先生が居る筈だと探してやらなかった事をかけらも恥ない、自責の念が無い、と仰っしやるのでしょうか。わたしの初級の頃のわたしを指導して下さった先生(お坊さん)は日本中から「こマシそうな先生」を探して下さったし、彼にとっては不自由なドイツ語の文献を旧制高校のドイツ語の学生に訳させてわたしの為にドイツの原書を読んで下さった事も有った。
 続編を書きたくなればまた書きます

(第95回)真実(ほんとう)のクラシックギターを広める会(作.2011年,2013/8/30改編発表)

クラシックギターの定義は何か。クラシック音楽とは何か、に通じる難しい問題です。
 正しい定義が為されないと、クラシックギター演奏、または演奏家に対する正しい評価、批評、評論も為されないし、それに もとづいてクラシックギター音楽の発展もあり得ない。若者が学んで行く目標にもなり得ないし、ギター音楽に憧れる若者の育成もあり得ない。
 この会の定義は、一般大衆(衆愚)の評価を目指さない、迎合しない、媚を売らない。衆愚が加入しないし衆愚を蔑視する音楽愛好家達の集まりである、とする。ギター音楽関係者達はあまりにも一般大衆の支持を求めて公演を企画し未完成のまま、演奏をしすぎた事を反省すべきである。その事を懺悔して心を入れ替えギター音楽の正しい位置を獲得する(取り返す)必要が有る。ギタリスト達は(統べての音楽家達もそうかもしれないが)チケットさえ売れれば好い、チケットの売り上げこそは善である、ひいては美であるとの迷信、錯覚に踊らされて来たのではないだろうか?
 そこでわたしは「見えない結社」の結成をするべきだという事を提案する。
 まことに、エドガー・アラン・ポーが言っている様に天上の美への憧れ(渇望)を持って(いる人達が)ギター音楽を真の芸術家の手に取り戻すべきである。
 第2の提案は、音楽は100年後、200年後に評価される演奏、演奏芸術を求める事が出来る現況(現状詰まり科学技術の大きな進歩)である。詰まり今でこそ録音、録画が悪の様な存在と思われ勝ちであるが、音楽は100年後、200年後に評価される運命を今では持っている事に各演奏家は目覚める時が来ている。名画、名著等と同等の存在生命を与えられている事に思いを致さなければならない。フランスの名フリューティスト、モイーズさんがいみじくも言っておられましたが「わたしはひどいバッハ演奏を後世に残すと言う悪をなしていない、」と彼自身がバッハのレコーディングをしていない事に就いての弁明をしておられた。
 音楽乃至は楽譜の或る箇所、或る部分、或るフレーズ、あるいは或る一音に今まで誰も気が付かなかった美を発見する事、それがこの会員に求められる資質でもある。これらの美を表現する事が出来る部分を発見し演奏によって表現する演奏家、そしてこれらの箇所の美を鑑賞し評価出来る能力の有るギター愛好家で有る事がこの会員の特質であるべきです。この秘密の美は震える様な喜びを会員たるもの、(詰まり奏者、聽者、詰まり知者)に齎(もたら)す。
 わたくしの最初の先生(お坊さん先生)は「一つの演奏会でたった一つでも好いから好い音、心が震える様な箇所が1つでもあれば好いのだ、」と、これは嘘ではなく、わたくしに対して何度も言っておられた事を私自身この歳、78才、に成ってヒシと、感じる。わたしは唯一つの音では無く可能な限りの美の存在箇所の探索、奏者、聽者、詰まり知者に、新しい発見の箇所の表現、表明を吾が結社であるのならば、あろうとするならば求める。
 会員の資格は、各自が決め、各自が会員の自覚を持つ事のみである。何の毀誉褒貶もない。生まれて来て良かったと、この世に生まれて来てギター音楽の中に美を発見しそれを自分が表現している事を自覚出来る事こそが「真実(ほんとう)のクラシックギターを広める会」の会員資格です。その事を知らないで生まれ、生き、死んで行く人達を哀れむ事が真実(ほんとう)のクラシックギターを広める会の会員の密かな楽しみである。
 何時か天国に行った時、この会員達はお互いを認識し喜びを分かち合う事が出来る。その時各自は自分が真実(ほんとう)のクラシックギターを広める会の会員に値するかどうか判るに違いありません。演奏者が無意識に今まで誰も気が付かなかった美を表現していたとするとそれは真実(ほんとう)のクラシックギターを広める会の会員たる資格は半減するのであって、いわば準会員でしかあり得ない。
 余りにも酷い演奏、パーフォーマンスが世間に溢れている事を嘆く人々が世間には溢れているのではないか。いい加減にして欲しいと思われる方々のYou-Tubeでの安易な演奏発表は辞めて欲しいと思う方は少なくないでしょう。
 ギター音楽の演奏家たるもの、作曲家の作品を素材として作曲家の作品の前に立つ彫刻家の様にその作曲家の作品をあたかも内包する素材、詰まり大理石または木材の様に感じて1音1音を彫刻刀で彫り出す様な構えで相対さなければならない。
 ロンドンのボンドストリートの瀟洒なホテルで偉大なアンドレス・セゴビアにお会いした時、「自分はひどいギターの演奏家が世界に溢れているのでこの年になっても演奏をして廻っているのだ」とわたくしにしみじみと仰(おっしゃっ)たことがある。
 話し変わって私は何をすればセゴビア先生の大きな期待、愛に答えて行く事が出来るだろうかと近年つくづく考えている。
 泥沼に引き落とされたギター音楽。これを救い出さねばならない。その救い出す方策の切っ掛けをわたしは作っておかねばならない。偉大なアンドレス・セゴビアの業績を正しく評価させその弟子たるものの条件を確立させておかねばならない。
 将来何時か花開く種を残しておかねばならない。

(第94回)レオポルド・アウアーのヴァイオリン奏法(2013/8/17)

 先日、レオポルド・アウアーのヴァイオリン奏法を本棚に発見、再読しかけているが実に興味深い。この本は、ずっと以前に入手していたのだが、それを入手して読み終えた1、2年位後に古くからの弟子がその部厚い本のコピーをわざわざ作ってわたしに贈ってくれた事がある。その弟子は今でもギターへのパッションを失っていなくて、わたしは大いに感心している。
 それとこれとは関係が有るかどうかは判らないが、この本を私に読ませようと思った彼の立ち位置が今日迄彼の音楽へのパッションを失わせなかったのだろう事、詰まりギター音楽演奏への情熱を持ち続けている理由は想像が付く。わたし自身八十才になってもギターを弾き続けている理由も昔にレオポルド・アウアーのヴァイオリン奏法を読んだからかも知れない。
 本題に戻る。私が読んだこの本は大正時代に日本語に翻訳されて出版されている。大変に読み難(にく)い。この本は今では再翻訳されて出版されている様です。わたしがギターで思い考えている事をこの方は100年も前にヴァイオリンで考えておられたらしい。そして何時もの様にわたしはわたしがこの本、レオポルド・アウアーの「ヴァイオリン奏法」の効能を書かないで(詰まり解説をしたり要約をしたりしないで)各自、(ギター)音楽を深く愛して、その可能性を知り信じているあなた方、このページの読者の皆様はこの本を入手されてお読みになって下さる事がレオポルド・アウアーの真意を曲げないで直接に伝わるのではないかと思っています。
 レオポルド・アウアーさんはヴァイオリンはオーケストラだと言っています。僕が「ギターは小さな星のオーケストラ」だと言った様に!
 続編を書きたくなれば書きます。

(第93回)ギターをオーケストラにしよう(松田晃演の世迷い言)(2013/7/26)

ギターを弾く人は「ギターはオーケストラである」と思って弾きましょう。ギターを学ぼうとする人はそう出来る様に成る為に成長して下さい。そうする事によってギターはピアノやヴァイオリンを凌駕した最上の音楽の演奏が出来る楽器になります。1台のピアノや1本のヴァイオリンでオーケストラの様に演奏する事は不可能ですが、ギターでは可能なのです。
 そう出来る様にさせる為にギター教育が出来る人は日本に、または世界を探しても居るでしょうか?その方向に弟子を育てる事が出来る人材はあるのでしょうか?
 NEW GUITARと言う概念の元にギターを学んで欲しいのです。
 その第1の取っ掛かりはわたしが必死でサンプル演奏をして来ています。80歳になってもギターは弾けるのだと言う実例を示していると言う事が出来るのです。
 NG(NEW GUITAR)の実現は簡単な事ではありませんが、ありったけの知恵と能力を駆使してギターの上達法を身に着けて下さい。
 ギター演奏にはトレイナーが居ないのです。特に演奏家になってしまっている人、または成ってしまっていると思って居る人は孤独です。誰もトレイニングをてくれないのです。
 特にギターはオーケストラであると知っていたり思ったりしている人の先輩、教師は世界中に探してもざらには見つかりません。
 年を取って来て生活に余裕が出来、ギター演奏に再挑戦を、しかも頭を使うのが好きで芸術に大きな関心をお持ちの方は沢山いらっしゃると思います。しかしその様な方を指導出来る人は殆ど居ません。そこで、その様な方々の中で頭を使うのが好きな方、芸術に大きな関心をお持ちの方々が中心に成って「ギターはオーケストラである」を実現する為の一大グループを作られたら如何でしょうか?或る意味では頭脳集団を作るのです。
 ギター上達にはその人の持っている全能力を使わなければ成りません。テクニックの発達については、或る意味年齢の制限、(年だから駄目だ)と言う事はありません。考えに考えれば無理だと思われた事、壁、障害も乗り越える事が出来ます。例えば、80才の人は100才までには出来る様に成ろう、詩人として「ギターはオーケストラである」を実現しようと、時間は掛かるが挑戦を初めて欲しい。
 楽譜としては単純だと思える曲目(作品)をギターではオーケストラの様に多彩な音楽として、オーケストラの様に演奏する、仕上げる(演奏解釈によって)事が出来るのです。嘘ではありません。
 もう一度言いますと、単純な曲(ギターで言えば練習曲の様な作品)をギター演奏(演奏解釈)によってオーケストラ(中には酷い演奏−演奏解釈をしている本物のオーケストラもありますがここでは一流のオーケストラ)の様に弾けずして「ギターはオーケストラである」と言う資格は無いし、ましてや、単純な作品をギター演奏解釈によってオーケストラの様に弾けずして、テクニック的に難しく、音楽的に高級な作品をオーケストラの様に弾く事は絶対に出来ないので暫くは諦めて頂きたい。
 あるいは「ギターはオーケストラである」秘密結社を結成して見ようと思われませんか。自分一人の秘密結社を作れば好いのです。
 誰にも教えない秘密の楽しみを持って下さい。それこそは胸がドキドキする様な楽しみではありませんか。
 松田のヒント=或るテクニックについて10回やって出来なかったら100回、100回で駄目なら1000回とすれば何時かは出来る。その技術は是非とも必要な技術であると見極めた時、密かな努力が始まる。(必要な技術であるかどうかを見極めるのはまたそれなりに難しい)そのテクニックを手に入れる方法は本には書かれていない。それともヒントにすれば好い様な惜しい様な事はその人が優れた音楽家であり原稿家であったら漏れ出る
 松田の報告=先日或る人がわたしに、「あなたのCDを友達に借りて聞いたが、全然良く判らなかった」と言われました。わたしはどう返事すればよいか言葉に詰まって、「判らないなら10回くらい聴いて下さい。そして朝から晩まで鳴らしておいて下さい。」と言いました。その方は「そんな聞き方をしても良いのですか?」と驚いた様でした。「車にでも載せて走りながら聴いて下さい。」とわたしは言いました。「クラシックとはそんなもので何度聴いても飽きないのですよ」と、そして「安物の音楽は1回聞いたらオシマイなのです」と言いました。わたしの考えとは、古典の書物は何度読んでも意味が完全には判らないが魅力が在る言葉が並んでいると。
 わたしの音楽、音楽解釈等について、ロンドンの音楽映画製作家に言われている様に、わたしが詩人で在るとすれば、わたしよりもより詩人である方でないとわたしの音楽について批評、または批判は出来ないと言える。とすればわたしの演奏、演奏解釈等について評論家が取り上げないのは当たり前なのです。

(第92回)正しい楽譜(2013/7/25)

 どうして、わたしがセゴビア先生の運指等を含めて正しい楽譜の幾つかを知っている事が出来ているのか、わたし自身も不思議です。セゴビア先生の在日中にふとタクシーで都内を移動中、音楽之友社と言う出版社を良く知っているので、先生の楽譜、特にスペイン物の出版を頼んでみたいが、と申し出て見た。ところが先生は出版等考えなくても自分が教えてやる、とのお返事であった、とわたしは思った。先生にお願いしてみたというのはまさに天の啓示と言えるかも知れません。
 翌日より、1日置きくらいに先生はレッスンをして下さった。先生の日本滞在1ヶ月の間教えて下さった。セゴビア先生が帰られてからこの話をあるマネージメントの方にすると「まつださん、あなたは殺されるよ」との言葉が帰って来た。それよりも、このレッスン内容をわたくし一人で持っていて(保管していて)好いのだろうか?
 偉大なアンドレス・セゴビアにギターを習う事が出来たという事だけでも、奇蹟です。偉大なアンドレス・セゴビアに習えるとなった最初の時(1960年)はたいした事だ、大変な事だと思った。50年程経って、それは本当に凄い事だったのだとつくづくとそう思う様になって来た。先生の完成したスペインの曲目1つでも習うのは大変です。セゴビア先生に習うという事は、楽譜無しで習うのですから、殆ど完全に暗譜していなければならない。言われた事は確実に記憶していなければならない。その上、弾きながら教わるのです。強弱、速さ、陰影、和音の変更(訂正)、ポジション、指使い、弦の指定、あらゆる音楽的な指導が飛び込んで来る。わたしはそれらを受け止めるのが当たり前だと思って受け止めていました。総合的に受け止めるのです。あの時、わたしはそれほどとは思わなかった。最も的確な事のみを先生は仰(おっしゃ)る。疑う必要が何処にも無いので、素直に聴いていればそれで良かったのです。
 これらの楽譜を後生大事に抱え込んでいるのだと誤解されては困るのですが、レッスンを受けに来られた方々には懇切丁寧にお伝えしているし、隠しておく必要もありません。ただ無縁の方々に公開するべきだという義務を感じていないまでです。その上、出版すれば海賊出版になるし、著作権侵犯になってしまいます。

(第91回)プロとアマ−理想的なプロとアマの姿(2013/4/30)

 プロと目されるギター演奏家は、殆どがわたしの敵であると言えるのかと聴かれると、残念ながら殆どがそうです、と答えざるを得ない。事の本質上そうなのです。何故なら、プロは素質と才能をお持ちであろうと無かろうと、自分より優れているかも知れない、または同等かまたは劣っている人物や演奏家の欠点を探し、吹聴して廻らなければ音楽を生計の糧となさって生きて行けないのです。
 ド素人と言う言葉がありますが、それはプロでありながらプロとしての素養も実績も知識も無く、その世界に巣食っている自称プロの事です。関西ではド素人と言う言葉は普通アマチュアの人を揶揄する為には使わない。
 わたくしはド素人という言葉を昔使った事がありますが、(或る方はドヂジロウトと発音していた)音楽においては、音楽を生計の糧となさっており、演奏したり教授面(づら)をして生徒を教えたりしているプロの方を、侮蔑の意味をもって、あの人はド素人だと言います。つまり音楽家としての素養と経験と経歴の無いプロのこと。もっと言えば風格に欠け、芸術家とは申し上げられない言わばセミプロであると申しましょうか。でもド素人という言葉そのものは実に品のない言葉ですのでわたしは最近は殆ど口にして居ません。
 プロがアマチュアの方に向かって「ド素人」と呼んで侮蔑している姿は、用語使用法の間違いであり、不愉快な情景です。アマチュアはギター音楽のファンです。プロにとってアマチュアは何時でも芸術について、美について、(ギター)音楽について判り易く話し、説明してあげるべき対象です。「美」は、真理に向かう「道」です。精神に向かう「道」です。美に憧れ、真実に憧れ、芸術を評価しようとしている人(真摯なアマチュア)を侮蔑するとは何事でしょう。
 ロンドンに居た頃面白い話を聞いた事がある。真偽の程は調べなかったが、タクシーには殆ど禁止事項が無いとか。Uターンも反対側への駐停車(逆向き駐車)もかまわない。そして、一般人の運転する車には親切に、運転し易い様に道を譲ったりする。何故なら、タクシードライヴァーはプロだから、とか。
 アマチュアの方の中で、音楽を真剣に勉強したことも無く、そして音楽を生計の糧となさる必要も無いのに、馬鹿なプロ(私の言うド素人)に馬鹿な考えを吹き込まれている為に、音楽の真実を求めて生涯をかけて苦闘している芸術家たるギタリストの音楽を軽く、または重く(重い言葉で)、貶す事に快感を抱き、クラシックギターの愛好者達(真面目なアマチュア)のオピニオンをリードしようとしている、族(やから)があります。(オピニオンリーダーとは大衆の意見、方向性をアジって、或る方向に持って行く機能を持った人または集団、またはジャーナリズム)つまり素人の中の素人です。これらの輩は特にギター界では雑誌企画編集の中に潜り込んだり、雑誌理念の方向性をリードしたりと、ギター界に取ってはあまり有難くない役割をなさっている方々もその部類に入ります。例えて言えば、一人のギタリストが芸術家でないのに芸術家である様に囃し立て、読者に思い込ませようとする事等。
 ある時、わたしの門を叩いた人が「松田晃演さんの悪口をあまりにあちこちで聞かされたので、この松田晃演なる人物には是非とも音楽を習ってみようと思った。」と言われた亊もありました。面白いでしょう。
 優れた芸術家である演奏家が演奏する音楽の中の1曲でも弾けたら、いや1音でも出せたらその方は素晴らしい。それはその音楽家の総べてを知った証とも言える。そんな人がド素人(自称プロ)の中にはいない。
 プロにもアマにも属さない音楽家も居るのです。それは音楽に生涯を掛けようとする芸術家であり彼は、戦う戦士です。命がけで戦う人です。彼はプロでもアマでもありませんし、その範疇で気軽に彼を評価したり判断したり、扱ったりしてあげない事でしょう。勝敗は、プロ中のプロ、詰まり真の芸術家であれば判定を付ける事が出来る。詩の批評は真の詩人でなければ出来ないのと同じです。
 スポーツはプロとアマの区別は無く戦いです。民衆はだから好むのです。そしてマスコミはそれを好んで取材するのです。特に、柔道、体操、シンクロ、アイススケートなど審判の採点が絡む競技では、芸術性とか美とかが重視されしかも、審判の審美眼が何処迄信頼出来るかがその競技の楽しさを倍加させまたは奪い去る事も有る。そこで音楽も芸術も戦いだと設定(認識)すれば、(天上の美を求める蛾の努力)クラシック音楽はもっと民衆や大衆の楽しみになりうるのでは無いでしょうか。今の芸術、芸術家の扱いが生温すぎるのではないのでしょうか。そして戦いである事は事実です。誤解を恐れずに言えばクラシック音楽の演奏会場は演奏家にとっては戦いの現場です。本当に本当です。マスコミがコンサート会場を取材に訪れないのは何か勘違いなさっているのだとしか、思われません。何故かと言えば、大衆は戦いの現場を見たくない筈がないからです。戦いの結果も知りたいのです。詰まり、読者、視聴者が求める内容の記事の素材がそこ、真のクラシック音楽の演奏会場には転がっています。大衆はお笑い番組のみを求めていると考えていたら、何時かは大きなしっぺ返しを大衆から食らう事になる事、必定でしょう。わたしはスポーツを目の敵にしている訳ではありませんが、これは事実です。そしてスポーツの勝敗は、運にもよる。詰まり相手が自分より弱ければ勝てる。相手が勉強、または練習をしていなかったらそして体調が悪かったら勝てる。勝負事はすべてそうです。芸術家はそうはいかない。絶対価値(勝ちではない)を要求され評価されるのです。なお、一言。クラシック音楽ではなく、流行歌(はやりうた、と読む)とかポップスの会場は、戦場ではなく遊びの場です。
 プロの本当の凄さは、アマチュアには判らないとよく言われている。だからわたしは言いたいのですが、その道に関わる人でありながら、本当に凄いプロの凄さが判らない人はプロとは言えない。はじめに言ったド素人です。ですから、プロ達は、本当のプロの凄さが判るべく努力しています。努力しているべきです。真の物理学者はアインシュタインの凄さが本当に判るし説明出来る。物理学者の卵や、物理学に関わる仕事をなさっている関係者は当然アインシュタインの凄さが判るのでしょうね。
 わたしが言っているのはプロの凄さと面白さが判っている人は居ないか、少なすぎて、少なくともマスコミには居ないのかも知れないと思われると言う事です。但し、プロの演奏が凄いものだと証明されたらそれが凄いかと言うと、それでは証明されなかったら凄くないのかと言う反論も予見出来る。これはまた別の話です。
 但し、美に関する議論は、単純ではなくアマもプロも区別出来ないのである。先に述べた、「プロにもアマにも属さない音楽家も居るのです。それは芸術家の音楽家であり彼は、云々」の件(クダリ)です。
 もう一度言います。芸術は天上の美を人間が創り出そうとしている努力です。
天上の美とは神々しい美で、それに憧れて芸術家は努力しているのです。

(松田晃演註)これはずっと昔に書いた文です。わたしの拙文を楽しみにこのペ−ジを毎日見て下さって居る方のからのご報告も在り何か載せないとと思いました。わたしとしましては何時からか差し障りの或る文章は遠慮して載せない様にしていたのですが。

(第90回)庭(セゴビア先生のレッスン)(2013/4/29)

楽譜を住居の庭に例える。−−−という事はわたしがその人(弟子の演奏)についてよく例にしてするアドヴァイスです。
 僕の説明は「毎日家の周りの庭を見て歩きなさい」です。そうすることで「ここに在るこの木は無い方がいい、いや、一寸南に移そう。草が生えて来た、この石は無い方がいい。」等歩く度に改善点が目に付くのです。
 アンドレス・セゴビアのレッスンを受けた人達の演奏は、例えるとそのレベルは、一度も手を入れた事のない庭から奇麗に手入れをしてある庭まで段階的にいろいろと在ります。
 わたしが言いたい事は、一度も手を入れた事のない庭に対しては、セゴビア先生はMuy Bien(大変よろしい)としかアドヴァイスのしようがない。自分の庭を注意深く見て歩いた事のない人に対しては、注意される点は殆どないのは当然です。
 自分の家の庭(弾いている曲目)を建て売り業者の様に一度しか見ていない人と、10回は歩いた(小さくて、狭いながらも)、それとも100回は歩いた、見て回った、それとも小さい庭だが1000回は見て回った(私の愛奏曲)とは全然違うのはお判りだと思いますが、この様な庭を見てセゴビア先生の発しられるアドヴァイスと建て売り屋(初見で弾く奏者、1回で弾けて2回目には暗譜出来てい、3回目に弾く人の方が飽きてしまっている人)に対してされるアドヴァイスでは全く質、内容が異なるのは自明の理です。
 以上です。

 

(第89回)オーケストラには詩情がない! (2013/3/22)

 ある時パリの街を歩いていると一緒に歩いていた人が小声でつぶやいた。それはパリのオペラハウスの横町の道でした。「ギターには詩情が在るがオーケストラにはない」と。わたしは最近になってその意味がはっきりとして来た。
 詩情と言えば昔ジュリアン・ブリームが日本に来た時、空港からホテルに着くなり、バーに直行、J&Bを注文し、(J&Bはウイスキーの銘柄でジュリアン・ブリームのイニシアルと同じなので彼のファボリット)直ちに話題を詩情(poetry)に持って来た。彼曰く、詩情はそこに有ると思えば其処にないし、ないと思えば其処にある、と。それはあたかも或るものを見ようと思って直視するとその見たいものは見えないが少し外れた所に目を移すとさっき見たかったのに見えなかったものが見えると言う事実に思い当たるようだったが、わたしはイギリス人の実証主義から来るための話かとも思った。わたしの英語力では簡単ではないので、ミステリー(神秘主義)の方へ話題を振った。神秘主義的な方面に彼の演奏(又は思考)を持っていけば好いのではとわたしは思ったからでした。 註ーその内にジュリアン・ブリームと東北の十和田湖に大きな観光船を借りきって遊んだ時の写真が出て来ると思いますのでここに掲載する事が出来ると思っています。なおご参考までに、彼はわたしよりも17日だけ若い。
 そんなに難しい詩情ではあるが、詩情に関してはギターがオーケストラより優れていると言う頭書の議題は聞き捨てならず、わたしの小さい脳みそを占領していた。
 さて、本題だが、一人の指揮者がいてオーケストラを指揮しているとする。ギターなら弾き手と指揮者は同一人物であるがオーケストラは何十人の奏者を一人の人間が指揮をする。さて、指揮者が詩情の塊であるとしたら、その指揮者の詩情は全員に伝わるだろうか?ギターなら必ず伝わるが(一人なので伝える必要がない)オーケストラでは何十人の楽団員全員に伝わるだろうか?これは物理的に不可能だ。
 ただそれだけの事。ハッハッハ
 そうは言っても、ギター一本で詩情を優れた音楽として表現するのは至難の技です。もしその奏者が溢れる様な詩情を持っていて、ある音楽作品に対面し、それを音にした時の姿を正確に、あたかも目で見ている様にしっかりと判っていた時、それをその人一人の頭脳で一人の奏者に伝え、あらゆるテクニックを弄して音に実現するその難しさは想像を超えるものです。優れたオーケストラの指揮者、優秀な芸術家であるギター奏者、詰まり芸術家そのものの様な頭脳の持ち主がギター奏者であれば、あとはそのギタリストがどれだけの、ギター演奏に付いてのテクニックを身に着けているかが勝負の分かれ目です。
 日本、または関西のみ?には面白い言葉がある。「大男、総身に知恵が廻りかね」。オーケストラの知恵、即ち、指揮者の知恵が全団員に伝わるかどうか。ギターなら大男ではないので伝わる、しかしそのギタリストの器が小さいと伝わらないし、そのギタリストの頭脳の命令系統が優れているかどうかはまた別の問題ではある。またその人の技術がそれに付いて行くかどうか。
註ずっと昔に書いていた文賞です

 

(第88回) 道―つぶやき (2013/3/21)

 セゴビアさんが歩かれた所は道です。道の無かった所に付けられた道です。道は、もともと何処にも無いのです。・・・・本来は。(10月11日)
 先程の道の事ですが、多くの人が同じ所を歩かないとそれはあっという間に、道が無かった元の荒れた地球の表面に戻ります。安心しないで!(10月16日)
 セゴビア先生の音楽の楽園へ入る門のあたりは多くの人が踏みならしています。奥へ続く道は途切れがちです。門から出て行く人が通った為に、そして出たり入ったりする人のおかげで門の辺りだけは道というより広場のようです。(10月17日)

 

(第87回) 新しい進化論 (2013/2/20)

進化には2種類ある。

  1. ダーウィンの進化論=肉体の進化
  2. 精神世界の進化論

 今日は2)に付いて考える。
精神世界の進化論とは精神の新しい環境に適応して進化を遂げる事である。
 精神の新しい環境とは進むべき先を明確に描いた精神世界。それが無いと進化して行かない。行く筈も無い。詰まり新しい環境がないと進化して行くにも行きようが無い。
 1)で言えば、例えば昔、ずっと昔、或る生き物が空を飛びたいと思った。その思いが強烈であった或る種のいきものが本当に空を飛び始めたのです。それが今日の鳥類の先祖です。
 では精神世界に於ける強烈な願望とは何か。
 その前に進化と進歩の違いを確認しておかねばなりません。進歩は或る出来上がったものがあってそこに至るための努力の結果その方向に幾らかでも進んだ事が認められる事であり、進化とは強い願望の為に例えば羽が生えて来て空が飛べる様に、詰まり先例のなかった生き物になる事であり、進歩とは「或る出来上がったもの」、既に出来上がって居る見本が存在しそれに近づく努力の結果、そのものに近づいている事が認められる時に進歩したと言う。
 進化にはそのものの環境が大きく影響している。或る出来上がったものと言いましたが、ギター音楽が作り上げる事が出来る理想的な美の世界(実在していない世界)を心に描いてそれをギター演奏として思い描く事、その描く為にしなければ成らない進化は強烈な願望、的確に描かれた理想的な美の世界を実現させる強い意思によってなし遂げられる。的確に描かれた理想的な美の世界を描く事が出来なかった自己と比較した上で、的確に描かれた理想的な美の世界を新しい環境と名付けそれに適応しそれを描く能力が付いた時、進化したと言う。
 壮麗な美の楽園に奏者は適応しなければ成りません。奏者はと言いましたが、奏者の頭脳の中に描かれた実在しない想像上の楽園です。それはその奏者にしか見えませんがそれが見える様にするのがそれを見た奏者の宿命であり、言わば天命です。それを実現させる事が出来るか否かはその人物の才能そのものの豊かさに依存する。そして努力に堪えうるか否かにも掛かっている。
 壮麗な美の楽園を思い描く為には、一般に想像されるよりも、もっと多くその楽器を知り尽くした上での、その楽器の能力と限界までも知り尽くした上でのテクニックが要求されます。テクニックを少しも発達させていない奏者は、創造力と想像力共に限界があります。
 小さな花も、何千年、何万年かかけて進化して来ました。そしてたった一種類の花を咲かせるのに大抵は1年掛かります。そしてその花は毎年同じです。演奏家にしてみれば、ただの1曲を死ぬ迄弾き続け進化させるのです。美しくて当たり前ではないでしょうか。
 2013/4/2、一部追加加筆

(第86回) 先生 (2013/2/19)

今習っているまたは習っていた先生を信じる事をしなくなる時の大きな動機は、その子が演奏活動を始めた時である事が非常に多い。または小さな動機としましては、ギターを飯の種にし始めた時、ギターを教え始めたときも加わるでしょう。
 そしてその先生に習うのを中止した子は急速に音楽的に堕落して行く。わたしは多くの事例を目にして来た。師を信じる事はそんなに難しい事であるらしい。でもわたしは先生を素早く捨てる子は(もう1人前に成っているとその小人(しょうにん)は自己満足をしているから大人です)芸術を見失っている。
 偉大な師を持っているにも拘らず、と言う但し書きが上記の子達の前には付くのですが、彼等は、ギターは、そして音楽は楽しみの為にしているのだから先生の言う、七難しい事はどうでもええ、と言う人は可愛らしい。そうではなくて、「先生の真似をして居たら自分が潰れるのだ」と気がついたと思っている子達の事である。どだい潰れる自分を持っているのかどうか。世間が拍手喝采をするから大丈夫だと思っているのであったら、その子は何時か心の中にポッカリと大きな穴が空いているのに気が付くでしょう。または天国に行くまで気が付かないとしたらおめでたい。
 註―セゴビア先生の言葉によるとセゴビア先生の最初の先生はMediocreであったとか。若き日のセゴビアはそのMediocreな(並の、凡庸な)先生の資質を直ぐに見抜いて習うのをお辞めになったし、それこそは、その見抜いて辞めると言う行為こそは、芸術家を目指す人に取って大切な資質で、見習うべき正しい行為なのでしょう。

 

(第85回) 真似る事 (2013/2/17)

ギター関係者の誰もが気が付きにくかった事に気がつきました。「ギター演奏において誰もがあまりやろうとしなかった事」又は「興味をもたなかった事」です。それは真の芸術家による芸術的なギター演奏を完全に細部にわたって真似るという作業です。絵画では普通の作業、詰まり有名な、完璧な絵画を模写する事で、それを追求する事によって自己の真の個性有る芸術的世界を展開するに至るのです。芸術の秘密を嗅ぎ取るのです。
 我々ギター演奏家はギター製造家達を芸術的地位が演奏家よりも低い地位に在ると思ったり信じたりしているが、彼等はその模写をしています。詰まりAntonio de Torresモデルの製作です。
 ギターにおいては製作家を真似て「アンドレス・セゴビアのレプリカコンサート」でもいいからやって見るとどうなるでしょう。楽器でなされているトーレスモデル製作のように堂々とやれば、どんどん売れるのでは?それともそこまでして売れなくても、お前恥を知れ等と叩きのめされるのでは。でも美しくない演奏を芸術ですと言って聞かされるよりアンドレス・セゴビアのレプリカですと言って聞かされた方が人々は楽しい気分になってコンサートホールを後にされるのではないでしょうか。ただしアンドレス・セゴビアの様にギターを弾く事は至難の技であり、アンドレス・セゴビアの様に弾く事は不可能な事のようです。
 その件について、三浦有加さんが『師匠を真似るということについて』(2013年1月10日前後)と題して大切な事をわたしのホームページの「投稿欄」に投稿為さっています。
 わたしからのアドヴァイス。「恐れず真似ましょう」です。それで自分の演奏に満足が出来ないとすれば努力が足りなかった、または努力の方向が悪く音楽的な調和を得られなかった等が考えられるかも知れません。終わり。
「至難の技です。の補遺」
多くの音色を手に入れる事が至難の技です。絵画であれば絵の具を買ってくれば済むがギター音楽ではそうは行かない。強弱を使いこなす事もそう簡単ではない。
 その次にと言うより、最も大切な事は精神の模倣です。芸術的センスを身に着ける、上品さとは如何なる精神状態であるか等を知る事です。
 堂々とした、毅然とした自信に溢れた落ち着き、優雅さ、優美さを求める。その様な芸術家を尊敬し、憧れる習慣がレプリカの製作(真似て演奏する事)をすることによって身に着く事を祈っています。
 そうする事によってのみ、ひとことで言えば、真の「審美眼」が養われるのではないでしょうか。

(第84回) 音の強弱・ピアノ・フォルテ(名演奏の秘訣)(2013/2/15)
(2013/2/16)ー追記追加記入 = 文末

わたしは若い頃、直感として気が付いていたのですが、「或る音の強さを倍にしようとするならば、弦に当るエネルギーの強さは10倍にしなければならない」と言う原理です。わたしは、それを人間の感覚的な強さはLOGに比例すると考えて説明していました。倍にしようとすれば10倍の強さで弦にエネルギーを与えなければ成らないと。この件に関しては、学者がすでに発表しておられる事を最近知りましたが、わたしが何故この件を今になって申し上げるのかと言えば、ギター音楽演奏における詩情豊かな表現をしたいならPPPが出せないと駄目なのです。そこで今の原理をP(弱音)で音を出すと言う方向に応用するとすれば、或る音を1/2の大きさにしたいならば、弦に当る強さを1/10にしないと音量は1/2にならないと言う物理学的事實(原理)を心得ておかねばなりません。
これは名演奏をするための秘訣でしょうか?
 であるとしますと、1/10の強さで弦に振動を与える事が出来るタッチを身に着けていなければ、或る意味においてどうしようもありません。その事はその楽器の第1級の奏者になりたいのであるならそのテクニックを知り身に着けている事が必要です。
 面白い事にピアノは元々はピアノ・フォルテという名の元に発明された楽器です。その意味するところは、弦を1/10なり1/100なりでまたは10倍又は100倍の強さでも叩く事が人間技では出来ないのでそれが簡単に出来る機械を発明したという事です。
 ピアノはですから増幅装置です。或る強さの力で鍵盤を叩くと機械的に何倍にもまたは何分の1にも出来るという事で、それが増幅装置の威力であり、ギターを弾く人はその増幅装置を持たないのである事を常に意識していなければなりません。それを知り、身に着ける事によれば、音色の変化を音楽に与える事が出来るギターは、その表現力において発育不全のピアノフォルテという楽器を、表現力において凌駕する事が出来るかも知れません。

追記 (2013/2/16)
 わたしがギターに興味を持ち始めた頃、世間の噂ではギター以外の楽器奏者はアンドレス・セゴビアの演奏を見本にして音楽、音楽解釈を勉強しなければ不可ない等と言われていた事は確かな事実です。この事は、ギターをもしアンドレス・セゴビアの様に弾けば、他の音楽はギター音楽を前にして平伏しなければならないと言う事が想像される様な、アンドレス・セゴビアの出現は、事件でもありました。諸君!ギターを前にして脱帽せよ!でありました。ご参考までに。

 

(第83回) 西欧コンプレックス。(2013/2/9)

わたしには全く理由(わけ)が判りませんが、東洋人は西欧人に対して何故か強いコンプレックスを持っていると思います。
 彼等は科学を進歩させた、多くの発明をした、そしてふと出会っただけで威圧される、彼等は或る種、毅然とした態度を身に着けていて体が大きいのが理由かも等々。
 私の兄はわたしが初めてヨーロッパに連れて行ってタクシーに乗った時に運転手が西洋人で言わば彼が好きであった洋画の主人公に見えたのか「反対やなー」と呟いた。ああこれが東洋人の西洋コンプレックスなのだ、とわたしはつくづく思ってしかも恥ずかしく思った事でした。
 わたしはその何年か前にヨーロッパに行き、ヨーロッパ人と普通に付き合っていたが、兄は初めてのヨーロッパであった。
 我々日本人は音楽をしたり学んだりする時西洋音楽だから西洋人が優れていると思い込んでいるが、そんな事は全然ありません。わたしがヨーロッパで学んだギター音楽にかぎって言いますと偉大なアンドレス・セゴビア以外は凡て、凡庸な音楽的センスの持ち主でした。全然恐れるにたりません。
 1例を上げますと、初めてヨーロッパに行った私、音楽学校にも行っていないわたしにヨーロッパでは1級のギターのマスタークラスに世界から来ていた生徒(クラスメイト)達の多くがわたしに教えて欲しいと言って来た事からも判ります。
 今日は以上です。

(第82回)クラシックとは? (2013/2/5)

先日面白い事がありました。
ある喫茶店でコーヒーを飲んで居たのですがそこで、わたしのCDが鳴っていました。「この曲知っている。CDを持っている、毎日、毎朝聴いている」という女性がおられました。まさかわたしがそばに居るとはその方も思わず、店主がわたしを指差したのでわたしの演奏と判りお互いに大喜びになりました。その方は30数年前わたしが住んでいた借家の近所の女性でわたしが引っ越した後にそのCDを手に入れられ、毎日聴いておられたのだそうです。30数年振りの出会いでした。
 その事をFacebookに報告をしましたら大きな反響がありました。
 それでわたしは「音楽」はクラシック(繰り返し何度でも聴けること)でなければと、特に「演奏」は繰り返し何度でも聴ける演奏解釈がなされていなければ、そして本当のクラシック演奏(何度聴いても飽きない演奏)が高く評価され、ギターに興味を持つ若者達の目はポピュラー(一度聞いたらお終い)からクラシック音楽に向かなければならないと思いました。
 文学でのクラシック(古典文学)は何度読んでも退屈しないし、何年も昔から読み継がれているものと解釈出来る文章だと思っています。そこには前人未到の発見が為されている。そして録音技術が発達した現在、演奏にもそれが当てはめられる時代になって来た事が確認されて演奏家としましては嬉しい発見でした。
 或る時クラシック音楽は判らないと言う方に出会って、判らなければせめて10回は繰り返して聴いて下さい、車を運転しながらでも好いですから、と言うとその方は「えっ、クラシックはスピーカーの前にじっと座って聞くのだと思っていました。」との返事。私は「だんだん判って来たらクラシックは10回でも100回でも聞いて居ても飽きないものなのですよ」とお話ししたものです。

 

(第81回)第一人者に學べ。嘘ではありません、大切な事です。(2013/1/13掲載)

わたしはなぜか囲碁が判ります。囲碁とは何かが理解出来て居るらしいのです。
 わたしは、第二次世界大戦の敗戦(1945年)後いつの間にかギター音楽に興味を持ち、ギターを上手く弾きたいと思う様になって居ました。13、4才の頃です。荒廃した日本の社会にはあまり目を向けない少年でした。
 それで姫路から時たま神戸まで出かけて行き中心街の中古レコード屋さんでギターのギの字が付いているレコードは全部買って帰って、蓄音機に掛け聴いていました。
 わたしは自分の選別眼がすぐに出来上がってきたことを感じました。アンドレス・セゴビア以外の音楽は全て駄目というもので簡単な事でした。
 わたしはセゴビア以外のギタリストの黒いSP盤(78回転)は買って来た最初のT回しか蓄音機に載せませんでした。黒いSP盤は1枚に2曲(裏表)だけ入って居ました。ゼンマイを捲きレコード盤を回転板の上に乗せ廻し始めます。重いピックアップに針をつけて盤の端にそっと乗せ、機械の前に座って、今置いた盤の演奏に気持ちを集中して音楽をじっと聴く様な仕掛けに成って居ました。ですから、聽者は必ず本当にその曲、その演奏が聴きたいかどうか選別をした上でその盤を回転板の上に乗せます。善悪、美醜の判断、詰まり審美眼がその時養われます。美か醜か!!!使わない盤を捨てたか捨てなかったかは事実上問題ではなくセゴビア以外のレコードは一回で音を出さなくなったのです。
 このSPでの選択眼、審美眼の自然な形での養成は今日ではされなくなっている。盤を載せるか載せないか、その労を取るかとらないか、ぜんまいを捲いてその演奏をじっと聴くか聴かないか。相当な名手の盤でもよく聴く演奏と聴かない演奏が出る。音楽にもよりますが演奏とはそのようなものです。
 アンドレス・セゴビアとその他大勢のギタリスト(ではなくてギター弾き)との音楽性の違いが大きかったからです。その頃わたしが手に入れた二流の人達のレコード盤は今では探そうとしても見つからないでしょう。今の現状に置き換えればレコードショップに並んでいるCD盤の殆どがわたしが聞かなくなった多くのレコード盤達と同じ運命を辿ってこの地球上から姿を消す事でしょう。
 ここからが非常に大切なところです。この文の初めの「わたしは何故か囲碁が判ります。囲碁の何たるかが理解出来て居るのです。」に戻ります。この何故か理解出来ている、の理由が最近になって判りました。大発見でした。
 それはわたしの2、3才の頃の事です。わたしの父は囲碁が好きだったので夏の夕方、庭に面した座敷の蚊帳の中に重い碁盤を持ち込み小さいわたしを膝に乗せて過去の名人達の打ち碁を並べるのを楽しみにしていました。小さいわたしはルールの説明を受けないでそのゲームの流れをじっと眺めていました。当時の偉い棋士達の名前でわたしが今思い出せるのは、木谷実、ゴセイゲン、等です。彼等の碁はこう来たらこう打つなどの方法が、理屈ではなく最も正しい選択をしておられたのでしょうか。わたしは中学の頃、誰にも習わずに大人の人と対等に碁が打てる様でした。中学の校長が噂を聞いてわたしをご自宅に呼び、一局打ってから、君は碁を勉強せず習った事も無いのに何故そんなに強いのだと驚かれました。
 今この年齢になって判ったのですが、わたしの父がわたしに名人の碁を見せたのが今のわたしの碁の強さに在るので、何の努力もしていないのにわたしは何故か囲碁が判ります。そして父は私に一言も囲碁に付いて説明とか講釈をしなかったのに、「理解出来て居るのです」に繋がります。因みにわたしはアマチュアの5、6段の棋力はあるようです。一言のばかな説明、解説もされなかったのが正しかったのでしょう。
 ご参考までに、私が2、3才の頃大家(超一級の棋士)の囲碁を眺めたのはほんの2、3回だったとわたしは記憶しています。
 さて、若いギター好きのお父さんお母さんにお伝えしておきたいのはこれです。黙って可愛いお子さまを膝に乗せて名手のギター演奏を御自分の為に聴く事です。下手なギター演奏を貴方は絶対に聴かない事です。ご自分による説明も、意見も聞かせない事です。この子が大きくなって来て、ギターに少しの興味を示すようになって来ても、決して「このギタリストにも好いところが在る、あの人にも好いところが在る、お父さんのギターにも好いところが在る」等とお子さんに言わない事です。ギター雑誌も読ませず好い音楽だけ聴かせていれば音楽のしっかりと判る人物へと育つのではないでしょうか。
 わたしの囲碁の学び方をギターに置き換えますと、過去の偉大な名手の演奏の録音を聴いていれば身に着く事が沢山在ります。詰まらない演奏家の演奏を一度でも聴くと頭が駄目になり耳が潰れます。(二流の棋士の碁は一度として見なかった)詰まらない演奏家のお話、名演奏の出来ない方(学者先生)の説明を一度でも聴くと頭が駄目になります。言葉が巧みだから騙されてしまうのです。詰まらない演奏家の演奏を聴いたりその人のマスタークラスとやら言う身の程を知らない方の説明もコーチも要りません。レベルの低い演奏家や音楽愛好家、音楽評論家達のなさる音楽の話は百害あって一利無しです。学生ギタークラブの出身者のレベルが低いのはこの所為です。
 くどい様ですが、名人は間違った事は一つとして言いません。そしてそういう名人はその辺りにざらに居る人ではなく類い稀な存在なのです。

 

第二次・エッセイ集

東京のミニコンサートに寄せられた感想及び評論2点no.3(2010/7/28掲載)

松田晃演ギターミニコンサート

「爽やかな風のコンサート、アットホームな雰囲気でトーレスの響きに浸る愉悦のひととき」

 

2010.6.12

三鷹沙羅舎B1「舞遊空間」

 

オーディオ評論家・林 正儀

 

三鷹駅から玉川上水に沿った「風の散歩道」の途中に、今日の会場はあった。沙羅舎「舞遊空間」だ。ミニコンサートと自然食を味わう会をカップリングしたお洒落な嗜好である。20〜30席ほどの小さなホールで響きがやや少なめだ。ステージとの距離も近いアットホームな雰囲気の中、愛器トーレスを抱いた松田晃演さんが登場。 いつもの白いスーツ、そしてリラックスした表情だ。プログラムは7曲で、確かにセミコンサート的なボリュームだが、まるで弾き語りのように軽妙なトークを交えながらのギター演奏に心が和む。

「慣れない場所は、弦が指にからまって外れなかったり演奏家にとっては大変なんです。また温度や湿度が変わると、音程が狂います。それほどギターはデリケーな楽器なんです。今日はよい部分が少しでもあれば楽しんで頂きたいと思います」。

静かに流れてきたのはバッハの「前奏曲とクーラント」。繊細で柔らかな響きだ。一音一音を慈しむように奏でる。余韻が空間に舞う。まるで小宇宙。爽やかな風がふくようなコンサートの始まりである。こうなれば松田さんのペースというもの。

ソルはお馴染みのメヌエット作品、そしてモーツアルトの主題と変奏が聞き手をとらえる。何と軽やかで楽しく響く旋律だろう。親しみやすさのなかに、さまざまに変容する音の色合いが生き生き描き出されている。

小休止をはさんでのタルレガとヴィラ・ロボス、ポンセ……の演目では弁舌が冴え、楽しそうに曲や楽器のエピソードを語ってくれた松田さん。「アントニオ・デ・トーレスはタルレガが使っていた楽器を作った人で、タルレガの発想はこのトーレスで生まれたものだと思います。このギターを持つと何となくタルレガの曲を弾きたくなるのですね」。うなずく私たち……。前奏曲5番とパバーナは、美しい音階が散りばめられた南欧風の明るさと力強いリズム。たくましさと軽やかさが印象深い。 ヴィラ・ロボスのプレリュード1番は、私のお気に入りの一曲だ。何度聴いても、深く沈む哀愁を帯びたメロディには泣ける。同じパターンのリズム音形は手叩きの太鼓を模したそうだが、強弱の起伏が激しく展開も大層ドラマチックで、このブラジル人作曲家の情熱と活力を松田ギターは余すところなく伝えて見事だ。たっぷりとためをつくり音楽に生気を与え、まさに音楽と一体になっているのだ。ポルタメントや重奏が多く、テクニック的にも難易度が高い。ギター一本でこんなことができるんだと感心しきりである。

続いてポンセの曲だ。「南のソナチネと訳していますけども、Meridionalというのは南イタリアということでして、“南仏”ならいいやすいのですが”南伊”って発音しずらい。難易度の高い曲なんです!」。一同爆笑である。

松田さんの師であるアンドレス・セゴビアの演奏技法を考慮して作曲されたといわれるものだが、濃密にして美しくコクのある響き。陰影をたたえときには激しく情熱的に荒れ狂う。リズムのキレと厚み、音色のゆらぎも絶妙といえるものだ。

「レオネーサ」はスペイン民謡の短い曲だ。松田さんがトーレスと出会うきっかけになったともいえる曲である。タレルガ直系の弟子、ミゲール・リョベートの演奏したレコードを昔聴いて、「この曲をいい楽器で弾きたい!」と思ったそうだ。願いは叶った。そんなエピソードを交えながらのトーレスの音色には、南風に誘われてうきうきするようなやさしさ、軽やかさがある。

最後はアルベニスの「セヴィーリャ(?)」だ。「グラナダ」と並び松田さんが得意とするプログラである。スペインに旅をされた風景を目に浮かべながらの演奏であろう。明るく陽気なギターサウンド。「生命を肯定する激しく踊り狂う町」と松田さんがいわれるように、輝くようなリズム、装飾音が散りばめられており、セビーリャの美しい町並みが目に浮かぶようだ。(演奏者、松田晃演の註=これは全くのわたくしのアナウンス・ミスでありまして、Granadosのスペイン舞曲第10番をアルベニスのセヴィーリャと言い間違えました。ただこのGranadosの曲はアルベニスのグラナダよりも、もっとグラナダ的ではあります)

アンコールの「鳥の歌」まであっという間の1時間だが、松田さんの飾らない人柄とトーク。そして何よりも誠心誠意トーレスの魅力を伝えようとする演奏家の心にうたれたコンサートであった。静かに拍手したい。

 

 

旅先の鹿児島で大橋先生の沙羅舎に於けるサロンコンサートに付いての評論を受け取りましたのでこのエッセイ集に掲載させて頂きました。

大橋伸太郎

かつて、クラシックギター演奏歴の長い知人に松田晃演氏のコンサートを聴いた印象を話した所、「え、松田晃演!?、死ぬまでに一度聴きたい人だ」という答が返ってきた、そういう演奏家が世界に何人いるだろうか。クラシックギターに限らず技術的に優れた演奏家はいくらでもいるが、人をしてこういわしめる境地に到達した演奏家は極めて稀である。楽器の垣根を越えて、松田晃演はその数少ない一人である。松田晃演が到達した境地とは誰も模倣ができない唯一無二の音色である。軽やかでいて神秘的。古雅でいて生まれたばかりのように清々しい。松田が愛器トーレスを弾いていると音楽の核心に住む妖精が姿を現し、時空と戯れている印象がある。
神戸在住の松田晃演(松田注=現在姫路市に住んでいます)は毎年関東圏の弟子のレッスンを兼ねて上京し東京オペラシティリサイタルホール等でコンサートを催しているが、今年の春は趣向を変えて、6月12日に三鷹市の個人運営のホール「沙羅舎」でファンとの交歓会を兼ねたミニコンサートを開催した。冒頭に紹介した、松田晃演を一度聴いておきたいという音楽ファンの「声なき声」に配慮したものと思われる。当日の演奏曲目は別記の通りである。
総演奏時間一時間程度の短いコンサートであったがJ.S,バッハの無伴奏チェロ組曲からの抜粋、ヴィラ-ロボスの前奏曲第一番など定番曲に加え、今回ハイライトに「南のソナチネ」を演奏した。M.M.ポンセはギター名曲の宝庫だが、その代表作の一つで「広場」「小さな詩」「祭り」の三楽章から成る、クラシックギターを志した者なら一度は挑戦したいギター音楽の精髄に触れる曲。この曲にもアンドレス・セゴビアの規範的名演奏があるが、セゴビアの直弟子である松田は、師同様に南イタリアの昼下りの神秘的な時間と鄙びた香気に満ちた夢幻的体験を聴衆の前に現前させた。
しかし、そればかりでない。この曲を演奏する上でのポイントであり難しさである無調に近い旋律と和声(えてしてつながらずバラバラな音楽になる)を軽やかな指捌きで無限に連続させ重層し、ポンセのギター標題音楽の中に潜む現代的な厳しい叙情空間を現出させた。1892年製造の楽器トーレスがその触媒。原曲の精神と密着した演奏者、楽器によって一曲の中に潜む「過去、現在、未来」の全てが立ち現れるのだ。音楽というものについて深く考えさせられる感動的体験を与えたこの日の一曲であった。

J.S.BACH
「前奏曲とクーラント」~無伴奏チェロ組曲第三番
F.ソル
メヌエット作品11-6とモーツァルトの主題と変奏
F.タレルガ
前奏曲第5番とパバーナ
H.ヴィラ-ロボス
前奏曲第一番
M.M.ポンセ
南のソナチネ
スペイン民謡「レオノーサ」
E.グラナドス
スペイン舞曲第10番

2010年6月12日東京都三鷹市沙羅舎舞遊空間

 

 

「松田晃演 トーレスを弾く!!」2月13日東京アイゼナハ・ホール

大橋伸太郎

    さる2月13、14日に東京神田小川町のアイゼナハ・ホールに松田晃演氏が登場、「トーレスを弾く!!」と題したコンサートが開かれた。クラシックギターの演奏界で巨匠の域にある松田氏は、ほぼ毎年東京でコンサートを開催しているが、今回は新しい試みに、比較的少数の聴衆を前にして、ミニコンサートと公開レッスンを行なった。そこでは、ギターを通して全てを語る演奏家・松田晃演氏と、ギター演奏と音楽の奥義と真髄を肉声で伝授する音楽指導者・松田晃演氏がいる。音楽愛好家なら興味をそそられる企てではないか。コンサート前半は松田氏単独の演奏で曲目は以下、演奏時間は約一時間だった。

2月13日東京アイゼナハ・ホール
曲  目
I. アルベニス   グラナダ          
L.ロンカッリ   ジーグ
         ガヴォット
F.ソル       モーツアルトの主題と変奏
F.タレルガ     パバーナ
J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲第1番から
          プレリュード(ポンセ編曲)
M.M.ポンセ     ワルツ
          アレグロ・ノン・トロッポ
H.ヴィラ=ロボス 前奏曲第一番
スペイン民謡    愛のロマンス(間奏曲付)
Photo by Takasi Kotanaka
 


     アイゼナハ・ホールは、クラシックギターの名器販売で知られる「アンダンテ」の店舗ビルの3階にある小ホールで、この日は、松田氏の演奏を聴こうと詰め掛けた熱心な音楽ファン数十人が詰めかけて満員の状態である。天井高はかなり余裕があるのだが、氏が最近東京でのコンサート会場に使う東京オペラシティ・リサイタルホールに比べると遥かに小さくデッド(音を吸って響きの少ない状態)である。第一曲の「グラナダ」からこれまで親しんだ松田氏の演奏とは響きのバランスが違う。トーレスから紡ぎ出す音色は変わらず雅やかだが、響きの地肌と音色の芯が浮かび上がる。弦と指(爪)がコンタクトする多彩なタッチのバリエーションが鮮明に浮かび上がる。大きなホールでの豊かな残響を従えた奥行きの深いスケール感の豊かな演奏もいいが、こうした一音一音が誕生し演奏が綾なされていく時々刻々を間近に見つめるのも、得がたい清新な音楽体験である。現代ギターの原型として余りにも有名な楽器がトーレスだが、松田氏は完全にトーレスを掌中にしており、全十曲を楽器と一体になり各曲の芯を掘り下げ音楽の魂が息づく繊細な演奏を聞かせる。
     興味深かったのは、1892年に製作されたトーレスを操り、ポンセやヴィラ=ロボスの20世紀の楽曲から近代的な叙情と和声感覚を掬い取り掘り下げ、きらめかせることである。ポンセやヴィラ=ロボスがこうしたギターの至高の名曲を書いたのも、アンドレス・セゴビアという同時代の巨匠演奏家の存在に触発されてであった。松田晃演氏はセゴビアに直接教えを受けた直系の音楽家である。曲の佇まいが近代的に変わってもその奥底にあるギター音楽の真髄、魂を完璧に表出する演奏法を松田氏はセゴビアから受け継ぎ自家薬籠中のものにしている。松田氏の演奏によってこそ、ギター音楽の大河の中の近代曲の存在の本質が味わえるといっていいだろう。
     さて、今回非常に面白く目から鱗の落ちる体験をさせてもらった。後半の公開レッスンである。前半終了後休憩を経て、松田晃演氏の音楽に心酔し、大分県、石川県等からギターを抱えてはるばる飛行機で上京したアマチュア三氏がステージに代わる代わる登場し、日頃研鑽し仕上げてきた演奏を披露した。この日(23日)登壇したのは、

 A 氏   メヌエット(ラモー)
 B 氏   アルハンブラの思い出(タルレガ)
 C 氏   前奏曲第一番(ヴィラ=ロボス)

である。三氏共アマチュアとしては上級者だが、松田氏の演奏の後では失礼ながら音楽が平板で表情(ニュアンス)と生命感がない。それを松田氏が丁寧に指導し演奏に生気を生み出していく。ギター演奏の具体について指導しているのだが、松田氏の一言一言が結局音楽とは何か、という教えなのである。「ギターは指が直接弦に触れて音色を作る楽器だ。指のコンタクトで無限多彩な音色が生み出される。ピアノでそれが出来たら名手だが、ギターはそれが演奏者みなに開かれているのだ。固体をぶつけるような弾き方、液体をぶつけるような弾き方を演奏し別けてご覧なさい。」「自動車がカーブを曲がる時のスローイン・ファストアウトです。一つのパッセージの終わりはゆっくりテンポを落としていって、次のパッセージに入って向かう所が見えたらすっと立ち上がってスピードアップすること。」「終止形をイメージして音楽を演奏してご覧なさい。」「人間の手は会社のようなものです。一本一本の指、つまり社員というのは気を配っていないと、独りでにあらぬ方向へ行ってしまったりするものです。ちゃんと指示を出しておかないとね。」等々。私にとって何とも耳が痛かったのは、「前の日に練習したら、誰でも明くる朝はその分演奏が上達しているものです。もし、前と同じだったらそれは練習法が間違っているのです。」事実、数語の指導でアマチュア演奏家のギター演奏に音楽のふくらみが生まれる。
     音楽演奏も音楽教室も世に氾濫しているが、町の教室に、音楽を学ぶ一人一人に何が本当に必要かを的確に教え、上達の障害を取り除いてやれる師は少ない。この日、松田氏の指導を得られたアマチュア演奏家は幸せである。ステージ上の彼らの喜び溢れる笑顔にそれがくっきりと表われていた。

古田中 孝
松田 晃演先生
 子供の頃からアラビア風奇想曲は聞いていましたが,低音で半音下がる2つの音をライトモチーフといい,それを同じように弾くことで,いつも同じ気分が現れる事,同じ場所へ導いていく感じが出る事,それが曲を仕切っている事は始めて知りました,こんな風にアラビア風奇想曲を聞いたのは初めてでした.普通の演奏が芸術になった瞬間をはっきり分からせてくれたレッスンでした.

久保 茂
 今回、生まれて初めて公開レッスンを目の当たりにして、音楽のすばらしさを身体全体で受け止めることができました。とりわけ最後のレッスン者の方はとてもうまく、松田先生が何をいうのかな〜、果たしてレッスンをつける箇所はあるのだろうかと思っていましたが、いざ先生のギターを聞くとその音色、深さ、表現力に圧倒されました。比べてしまうとレッスン者の方は技巧に長けているけれど平坦で感情の表現がまだまだたりない。私は楽器は全くできず音楽も全くの素人ですから、ここはピアーノで(註1−松田)とか切るようにとかの先生の指導は分からなかったけれど、譜面に縛られず作者タレガの心に迫ろうとする先生の姿に心を打たれました。行ったことも無いスペインの風に触れるようです。
私にとって忘れることのできない1日となりました。芸術と人の可能性は無限なのだな〜と感じ入りました。ありがとうございました。(註2)
(註1)2つの音が在って、一方を強く一方を弱く(ピアーノに)すれば、それらの音に主従関係が生まれる。その同じ2つの音が、あるはっきりとした情感を示し複数箇所に現れ前回と同じ情感を聴者にイメージさせる事が出来るとすれば、それはライトモチーフと命名出来る。
(註2)この両名とも2日目のCapricho Arabeについて書いて居られる。
上の二文は東京のミニコンサートを終えて直ぐに頂いたメールメッセージです。有難うございました。

(マツダ付言)芸術作品に付いて世界で始めてある曲の一部の微細な部分に付いて解説(説明)をし、そのことが音楽に関係を持たない方にまで理解され、或る意味で感動を与える事が出来る、出来た、という事は快感であります。音楽での想いを文章化することは芸術を志すものに取っては至難の技でありますが、今回の様におこがましくも「マスタークラス」等と銘打って、公開レッスンをしたので上記の様な反応を得る事が出来、望外の喜びでありました。
   一つの反省は、わたし自身が当日に演奏した曲を用いて音楽がどのように演奏において構成されているか、表現に奉仕するべく利用されているかをお話しするべきであったということです。
   言葉ではなく音を使ってお話が出来るチャンスを逃したなと思っています。でも一応出席された方は或る満足を得て頂いた事を知って本当に嬉しく思います。


第44回セゴビアの求めたもの(2010)

   何時でしたか、ヨーロッパで無謀にも事もあろうに、わたしにアンドレス・セゴビアの欠陥,欠点、を教えよう、吹き込もうとした人が居た。J.D. 氏とJ.W.氏がその人たちのイニシアルである。この二名の方々にド素人(前述−第38章)との尊称を差し上げるには全くもって失礼であるし、不可能の様にもわたくしにはそのときは思ったのだがどうでしょう。
   或る人がアポロ(ギリシャの神様)の欠点ばかり探していた。アポロはその人にわたしの美点、良い所を言ってみてくれと言った。その人は、「わたしはあなたの欠点ばかりを探していたので、美点は一つも知らない」と。アポロは、「お前にこの袋をやる。この袋には、穀物とそれを剥いた殻が一緒に入っている。お前はこの袋から殻ばかりを選り分けて取り出すがよい」と。
   なんと意味の深い話でしょう。完全な神とは総べてを持っている、と言う事は即ち、(人間から見れば)欠点も持っている事なのです。総べてとは馬鹿な人間から見たら欠点も含めてだと言えない事もないのです。完全無欠とは、欠点も含んで持っている事でしょうか。そこに生命が宿っている芽を吹く能力を秘めた殻付きの穀物、それこそが完全無欠である。
神とは?
   神の姿を見ようとして、神が太陽であったため焼けてしまった人間も居る。神のそばに近づくのはそれだけの覚悟が要る。
   ギター音楽教育に関わっている人々は、アンドレス・セゴビアはギター音楽がどうありたいと考えて居られたのか。どのようにすればセゴビアの考えているギター音楽を表現出来るようになるか、更に言えば、セゴビアの音楽世界は一般音楽世界とどのように関わっているのか、どのように一般音楽世界を凌駕しているのかを知り研究し教えなければならない。セゴビアは天才だ、あれは別だと、ギタリストを目指す人、就中、ギター教師が叫んだ時に、その人はド素人の領域に一歩足を踏み込んだ事になると、しっかり認識しておくべきだ。それはその人にとって重大な決意であり、芸術上の生死を分かつターニングポイントになる。その声を一度は発したが、心を入れ替えて勉強をし直している人、これは救われる可能性を秘めた音楽家ギタリスト志望者だと太鼓判を押してあげてもよい。セゴビアの欠陥を探してどうなるのだとわたくしはあえて言っておく。
   賢い、小賢しい人(世渡りの上手い人)はだから神を見ようとしない。見ようとしてその恐ろしさをすぐに感知する。小賢しい人と言える所以である。
   セゴビアがギターに何を背負わせようとしていたか。ロバであるギター(プラテロ)に重すぎる荷を背負わせたのか。その荷は何であったのか。それを皆で探そう。
   芸術は天上の美を求める努力(美への渇望)と言いましたが、そこが情熱と区別される所です。情熱は地上の欲望です。
詩は不確実な感覚、ロマンスは確実な感覚、とエドガー・アラン・ポーはいっている。不確実な感覚とは手で触れ得ない。確実な感覚は心が動く、触りたくなる。例えばミロのヴィーナスのおっぱいは、触らなくても人は感動するが、ロマンスに於けるおっぱいは触る事が目的になっている。それはまさに地上の欲望です。芸術は人間の魂を興奮させる。天上の美を見ると人間はその魂を興奮させられる。
   人間の真の楽しみ、快楽とは、魂が昂揚させられたときの興奮である。音楽が人を楽しませるのは、お解り頂いたと思いますが、そのような役割を果たしてこそのものです。

 

第43回ギター音楽の未来を憂える (2010)

   ギター音楽界は私が思っている以上にレベルが低い。ネットで交信を少ししていたが、全くもって対話が低いところに落ちて来る。演奏も関係者の意識も含めて我々ギター関係者は何らかの方策を講ずべき時が来ているのではないか。
   学習者に高い水準の教育をして行く努力をなすべきであろうか。それらの人を指導した(またはしている)先生の資質の問題でもある。
   ギターを学ぶ人達にギター音楽の尊厳−Dignity−の意識を持たせる事が肝要である。ギターに係る関係者がギター音楽の尊厳を損なう行為、金儲けのための自己保全の態度が見え隠れする。
   関係者はギターがいかにも低俗な楽器であると言う自己卑下、とプライドのなさを持っている。
   ヴァイオリン、ピアノ等一般弦打楽器、の方が高い芸術性を持っているとの先見(先入観)を持ってギターに相対している人も居るが、それから抜け出そうとする気力、努力をしない人々を見る事は、私のようにギターを生涯の友であり人生の目標にして生きて来た人間にとっては誠に辛い思いがする。ヴァイオリン、ピアノ等一般弦打楽器またはオーケストラの方が高い芸術性を持っているとは言えない。ギター音楽はヴァイオリン、ピアノ等一般弦打楽器またはオーケストラよりも繊細で時には演奏者によって、より繊細で高次の芸術性をもった表現を音楽作品に与える事が出来る事が実証されている。その事にもっと目を向けその事をギタリストたちは強調して切磋琢磨して行かねばならない。
   教育者の質を向上すべきは必須であり急務である。
   何時か、セゴビアの功罪に付いて書きたいと思っています。大論文になるかも知れないし、尻窄みに終わるかも知れませんが。
ギター音楽の未来を憂える一ギタリスト。

マツダ アキノブ

 

第42回 松田節(2010)

   わたしがギターを始めて間もない頃、ギター仲間から松田の演奏は松田節だと言われていた。それは音楽的素養も教養も教育も、そして音楽的経歴も無いその頃のわたしにとっては侮蔑的言葉に聞こえて、某々節とは音楽的素養と教養と音楽教育を受けた演奏家には、在ってはならない演奏スタイルであって音楽家としては恥ずべき演奏スタイルなのだろうと自分勝手に思い込んでいた。
   今日まで長年月音楽家として音楽に携わって来た暁に胸を張って言える事は、演奏家たるものそれぞれに某々(誰それ)節を持つべきで、それこそが芸術家の必須の財産であるべき個性であるとはっきりと言える。それが無いと偉大な芸術家である作曲家の精神に共鳴する事もなく演奏家として自己の演奏を楽しむ事も出来ないのではないのか。
   某々節と人に言わしめる事柄のよって来る要因の一部を列記すると
1)緩急、強弱―早くしたり遅くしたり、それも徐々にしたり急激(突然)にしたり
2)ヴィブラート
3)フレーズ
4)間の取り方、フレーシングを正しくとって音楽解釈への助けにする
5)音に対する柔軟な対応の仕方
6)音色の使い分け
7)演奏する曲全体のスピードの決め方。
等となる。
   あらゆる機会に知識として音楽のセオリー、常識、定石、等をどん欲に取り入れて勉強した結果、偉大な芸術家である作曲家の精神に共鳴する時これらは、某々節の持ち主の演奏者の演奏に自然ににじみ出て来る。
   僕の経験、(自然にやっていた事)からするとそれらは殆ど自分でも気が付いていなかった事が多い。メトロノームに合わせてみて始めて、エエ―ッと自分で自分はなんとええかげんなテンポで弾いていたんだろうと気がつくこともあった。それでは駄目できちんと弾こうと言う意味での再出発がどうしても必要なのであって、お勧め出来る代物ではない。某々節をいい気になって解き放って演奏していると、第3者に与える印象はどのようであるか。それは人(第三者、詰まり聴き手)に、不快感を与える。音楽演奏とは最小限度芸術的であり人に快感を与えなければならない。その判断はどのように誰がするのか。奏者自身の審美眼です。自分でするしかない。自己研鑽しか無い。勉強あるのみです。美を追求し偉大な先人の業績に学び謙虚に芸術を追求して行く事がもっとも大切で、演奏した結果については他人が口を挟む事は出来ない。
   その曲の精神を心から感じてうたっている事がその人の節を作っていると言えるのでしょうか。

 

いつの間にか2010の年に成ってしまいました。楽しいお正月を過ごされた事でしょう。
   「Y君に」と題して書いた文章です。Y君はわたしの古くからの弟子です。年頭に当たってこんな事を表白してみました。

第41回 「Y君に」(2010)

   クラシックギターの世界には優秀な、図抜けた存在が1人、アンドレス・セゴビアしか居なくて、セゴビア先生の目指されたものを理解して発展させよう、と言う若者が全然いない様に僕には見えます。アインシュタインの様な人を、しっかりと追っかけて行ける人が無数に居る物理学等の世界とそこが違うのですが、ギター音楽の行き着くべき先を見通してセゴビア先生のされた事を系統的に、理論的に、論理的に(少し修正を加えながら)発展させて欲しいものです。ギターがクラシック音楽を表現するべくどう優れているかを、スペインの低俗な民族楽器が如何にしてバッハやベートーベン達の高貴で崇高な精神世界、そして世に優れた詩人の描かんとした情感を的確に表現出来る楽器に進化して行ったかを系統立て、説得出来ないと不可ない、説得すべきであり、説得出来ると信じて(感じて)しかも焦っています。僕の様な実践家、実践演奏家がその論理に筋を立てて、よしんば理論付けに成功したとしたら、今度は僕自身の演奏がその域に達しられるかどうか、まず不可能だろうと思います。
   その意味で、実践家として精進して行くしか無いと思っています。実践家として完成させるのが僕の第一目標であるべきです。
       (Y君がどのような手紙をわたしに書いて来たかは賢明な諸兄の想像にお任せ致します。)

 

わたしの言いたい事はこのホームページのこれまでの文章、そしてその前に出版したエッセイ集、「ギターは小さな星のオーケストラ」等で殆ど言い尽くしていると思っています。わたしの文章は独断と偏見に満ちているかも知れませんが、練習したあとの時間つぶしをしているのだと思って見て下さい。そしてわたしにメールメッセージを出して励ましと刺激を与えて下さい。
投稿

1)THE KING OF GUITAR MUSIC ART
2)時空を超えて、アンダルシアの空の下へ“セビーリア”
ギターは小さな星のオーケストラ

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翌朝こんなメールメッセージを頂きました。有難うございました。
8月19日(水)
“セビーリア”の感想は、褒めすぎではありません。聴いたときの直感で書かせていただきました。本当に、アンダルシアの喧騒が聞こえてきたのです。それも、一瞬のうちにですよ。音楽的に云々は分かりませんが・・・。情景が一瞬のうちに浮かぶ音楽なんて・・・めったにありません。

ギターは小さな星のオーケストラ

中森良二さんから、こんなメッセージをメールで頂きました。
中森良二さんは最近になって「ギターは小さな星のオーケストラ」を購入されました。
その読後感をファンの方々にも読んで頂きたくてここに載せさせて頂きます。

 仕事の関係で、毎日、帰宅するのは夜の11時ごろです。最寄りの駅から自宅まで夜空を眺めて帰ります。四季折々の星座が、目を楽しませてくれます。不思議と子どものときから星座を見るのが大好きでした。よく兄と二人、星座のあてっこをして楽しんだものです。

 面白いところは、何度も読み返し、ようやく、先生のエッセイ「ギターは小さな星のオーケストラ」を読み終えました。そして、楽しみが終わってしまった憂いをほんの少し感じているところです。寝付かれない夜、そっと起きだし読みました。いっぺんに読んでしまうともったいないので、タイトルごとに3回は読むと決めました。ギターを始められたきっかけ、留学時代、練習方法について、セゴビア先生との語らい、そして、先生のギターへの思いを綴った「ギターは小さな星のオーケストラ」など興味深い内容(エッセー)がいっぱいあって・・・そして、どの行間からも先生のお人柄がにじみ出て本当に楽しく読ませていただきました。

 「そうだったのか?」先生の奏でるギター音楽はオーケストラだったのか!と分かりました。だから色々な音が宝石のようにちりばめられていて、人の心を和ませるのですね。このフレーズはバイオリン、ここはフルート、そして、ここはトランペットと言うように・・・そして、オーケストラに見立てた、その楽器(ギター)を通して、人生の喜び・哀しみ・怒り・大自然の情景やエネルギー・さらに大宇宙への畏敬(特にバッハで強く感じます)を表現していることが分かりました。結果として、他のギタリストからは聴かれない「音楽そのもの」を感じます。音楽とは、最も古いコミュニケーション手段であり、感情や情景を、美しく、逞しく伝えるもの。だから、先生の音楽は、聴くものすべてに、感動を与え、生きる元気や安らぎ(癒し)を与えてくれると感じます。先生が「癒し系・励まし系」ギタリストと言われる所以がここにあったのかと感じました。

 「作曲家が作曲する曲は、ピアノで弾かれるスケッチに過ぎない、そのスケッチをオーケストラに作り変えてゆくのが演奏家の役目である。」セゴビア先生の含蓄ある言葉ですね。本当に目からうろこが落ちました。先生の目指しているところがはっきりと分かりました。80年代ごろ主流を占めていた「楽譜に忠実に」はいかに的外れなものか・・・。

 やはり、ギターは小さな星のオーケストラですね・・・。

2009年8月7日(木)中森良二

スペインの詩人が「ギターは小さな星のオーケストラ」と言った時、「ギターは小さな星のオーケストラである、但し地球よりももっと小さな星のそして、もっと繊細な人々の住む星のオーケストラである」と言っています。 註―松田晃演

時空を超えて、アンダルシアの空の下へ“セビーリア”
中森良二さんから再度頂いたメールメッセージです。(褒め過ぎ、褒められ過ぎ??)
2009/8/18


   灼熱の大地、やせた土地、そこに這い蹲るように広がるブドウ畑、アルマセニスタにより代々管理されてきた貴重なアモンティリャードのデボガ。毎年、少量だけ瓶詰めされ市場に出回ります。減った分は、ソレラシステムにより古い樽から順に補充されます。ゆえに品質は年々熟成されて素晴らしさが増してゆくのです。札幌駅の近くにある東急デパートの洋酒売り場で「エミリオ・ルスタウ アルマセニスタ アモンティリャード」を見つけました。一口含んだ瞬間、行ったことのないはずの、アンダルシアの乾いた空気を感じました。

   スピーカーから流れてきた、先生の演奏する“セビーリア”は、最初のoneフレーズで、あっさりと、私の部屋をアンダルシアの乾燥した空の下、乾いた黄色い地面(スペインは行ったことがないので的外れかも知れませんが・・・。)の上に、ワープさせてくれました。空気も肌に突き刺さり、その土地から聞こえる様々な喧騒さえもスピーカーからはじき出されてきました。これほど、情景を鮮明に、そして見事に、創造させてくれる音楽はかつて聴いたことがありません。最初に聴いた“セビーリア”は、ジョン・ウイリアムス氏の若いときの演奏でした。そのときの感動は今でも忘れません。それ以来、ジョン・ウイリアムス氏の「セビーリア」が私の心に住み着いてしまったようです。色々なギタリストの「それ」を聴いても大して感銘は受けませんでした。(ただしセゴビア先生の「それ」は残念ながら聴いていません)今回の先生の“セビーリア”は、今まで抱いていた概念を根底から覆すほど私の耳にショックと驚きを与えてくれました。普通、すべての楽曲は、音楽(楽器の音)を通じてのみ、その表現したい情景や感情の模倣をリスナーに伝えてくれます。しかし、これほどダイレクトに、スペイン(アンダルシア)を表現したものはかつてあったでしょうか。空気の色彩・人々の語らいや営み・乾いた空気の温度感・大聖堂(カテドラル)の輝き・ドライなシェリー酒などなど・・・。すべての音が情景を鮮明に描写し・・・あるもの(音)は大聖堂のステンドグラスにぶつかり花火のように砕け散り、また、あるものは熟成したアモンティリャードのグラスを通り抜け七色の光に変化し、あるものは太陽に立ち向かい、撃退された光は地面に突き刺さり、それが“セビーリア”だよと伝えてくれているようです。

   私が思うには、先生の奏でる音楽は、一度、先生の頭の中で熟成され、機を見て聴衆の前やCDとなって世に出てきます。そして、少し減った分のアイデアは、ソレラシステムと同じように補充され、また、ある期間熟成され、今までより素晴らしい音楽として身を結ぶのですね。(またしても、生意気なことを書いてしまい申し訳ありません。私は、音楽評論家ではありませんので、この音はどうのこうの・・・と、言うことは出来ません。すべてCDを聴いた直感で書かせていただいています)

2009・8・18(火)中森 良二

わたしのホームページの愛読者の諸兄。
わたしのCDについて次の様なファンレターを頂きました。ギター音楽が衰退寸前であるとの認識をお持ちの、ギター音楽を真に愛する方のお考えでメールメッセージを頂いたものですので、この文章をわたしのホームページに掲載させて頂きます。
わたしは心在る方々に暖かく守られて、世間のことは考えず、雑念を持たずにギター音楽演奏の完成を目指して生きて来ましたが、今回は素晴らしい刺激を与えて頂きました。

2009/7/20松田晃演

投稿

謹啓
初めてお便りさせていただきます。
ギター暦はかれこれ45年くらい。(下手の横好きですね・・・。)今年からインターネットを多少いじるようになり、このホームページを見つけました。早速、サウンドオブザギター2を購入させていただき、毎日、出勤前と自宅に帰ってきてから、聞いております。本当に、安らぎますね。「ギターってこんなに美しく響くものなのか!」と再発見しています。特に、グラナダは、「松田二朗バッハを弾く」で聴いた感動が蘇ってきました。先生の演奏をレコードで聴いたのは、片面に「日本の歌」もう片面に「禁じられた遊びやアルハンブラの思い出」などの名曲が入ったオムニバス盤でした。ステレオから流れてくるギター音楽に、ギターを感じさせない「音楽」を感じ取ることができました。魔笛やアルハンブラでは背中に鳥肌が立つ衝撃を受けました。以来、先生の大ファンです。レコードは、木村功さんと共演している「プラテーロと私」は、何度も、それこそ盤が磨り減るほど聴きました。そして、バッハ・・・。こんなに優しいバッハを聴いたのは、初めてでした。また、ビゼーの組曲は「野をわたる春風」といった爽やかさを感じさせました。それから、色々なギタリストのレコードやCDを聴きましたが、特に最近は、強靭なテクニックで難曲を弾きまくる、といった感じで、確かに凄さは感じますが、音楽としては「?」がついてしまいますよね。音楽って、人間の生き方に勇気を与え、夢を与えるものだと思います。サブプライムなど金が金を生む、殺伐とした時勢の中、音楽こそ真実と考えております。先生の音楽に「ギターって、音楽って、こんなに素敵なものなんだよ!聴いてごらん・・・弾いてごらん・・・。」といったメッセージを受け取っています。私も、魔笛はぜんぜんだめですが、アルハンブラは、最近ようやく弾けるようになりました。音楽って本当に素敵ですね。何の脈絡も無いことをとりとめもなく書いてしまいましたが。ご容赦下さい。先生にぜひお願いしたいことがありますが「プラテーロと私」はCDになりませんか・・・?
最後になりましたが、お身体に気をつけて一日でも長くギターを弾き続けてください。

謹白
2009・6・9 中 森 良 二

THE KING OF GUITAR MUSIC ART

 僭越ながら、CDの感想を書かせていただきました。
昨日(7月5日)、久しぶりの休日でしたので、妻と次男と一緒に、車を走らせ、郊外の山までドライブしてきました。朝から、車(スバルのフォレスター)をぴかぴかに洗車し、爽やかな初夏の山から見る町は格別でした。先生なら知っていると思われますが、ツバメに良く似ていてツバメよりかなり大きい鳥が、山の頂上付近を、すばしっこく飛び回っていました。12時ごろ帰宅して、車を磨いていた私に、妻が「待ちに待ったものが届いているわよ!」と先生のCDの入った郵便物を持ってきました。このCDは私の宝物となります。
 アンプのボリュームをかなり大きく設定しました。長年愛用のジムラン(20代前半に買いました)から流れてきたバッハのプレリュード(第3番)に声を失ってしまいました。最初に聞いた先生のバッハから数十年、透明感と詩情あふれるバッハが更に深みと奥行きが加わったように思います。地響きのように響く深く迫力のある低音、水晶のような透明な中音、それから、天へと突き抜ける高音・・・。一つ一つの音が、まるで音楽を奏でる役割を背負いながら、音の魂となって有機的に結びつき、時たま、ダイヤモンドの輝きにも似たきらめきを加えながら、大きな音楽という芸術を完成させているようです。先生のギターで奏でられるバッハは、ガウディの未完の大聖堂「サクラ・ダ・ファミリア(確かこのように記憶しています)」を連想します。今回のCDで、ついに先生のバッハは神の領域に到達したと感じました。(若輩者の私が、生意気なことをかいて申し訳ありません)
「バッハはアルアイレで音の統一・・云々」「音の粒がそろっていなければ気持ち悪い・・云々」・・・。「セゴビアの奏法は・・云々」・・・。バルエコ、デイビッド・ラッセル、木○○などの無機的な音の羅列がギターの主流になって来た時、ギター音楽の鑑賞をやめました。某ギター雑誌も「現代のギター奏法・・・?」をとり上げ、音楽不在の曲芸奏法を推奨しました。それを「是」とするならば、セゴビア先生が命をかけて作り上げたギター芸術はいったい何だったのでしょうか?彼らは、はたして、本当の音楽を、そして、本物のギターの音を知っているのでしょうか。今回の先生のCDを聴いて改めてそう感じました。大袈裟ではなく、先生の奏でるギターは、ギターの王道、まさに「THE  KING  OF GUITAR MUSIC  ART」と言えると思います。
すべての、曲について、感想を書きたいのですが、バッハだけで胸が一杯になってしまいました。また、書かせていただきます。音楽を聴いて涙腺が緩んだことが2度あります。一度目は「アルバート アイラー」のラストレコーディングでした。そして、今回のCDで二度目です。今日も朝から2度もCDを聴いてきました。元気に頑張れます。

2009・7・6 中 森 良 二

 

音楽の素晴らしさを、再び伝えていただきました〜心より感謝いたします・・・。

アーティストの名前を出して批判するのは、本意ではありませんが。先生への思いと言うことであえて書かせていただきます。1980年代ころから、バルエコを中心としてギター界に登場してきたギタリストと称する人たち・・・。世の中は、まさに「右ならえ」的に彼らを受け入れました。私も最初は彼らのレコードやCDを購入して聴いておりました。最初は、難しいフレーズをあっさりと弾ききることに凄さを感じていました。しかし、2度、3度と聴くうちに、自然と私のスピーカーから流れなくなってきました。なぜか・・・?と考えるに「感心」はするけれど「感動」はしない。というところに行き着きました。音楽とは、人に感動を与え、明日から「頑張る」ことが出来る勇気を与えてくれるものと信じています。そして、そのことが聴くものの人生をより豊かにしてくれるものではないでしょうか。彼らの音楽には、全くとは言いませんが、それがないと感じました。

 彼らのギターに飽き飽きした私は、青春時代に聴きかじったジャズを聴くようになって行きました。20世紀に誕生したジャズも然り50年代・60年代・70年代で終焉を迎えております。ジャズのレコードは歴史的価値から名盤はいつでも入手でき気軽に聴くことができました。50年代・60年代のジャズにはノスタルジーを感じます。しかし、ギター音楽への思いは断ちがたく、巷で評判のCDを購入してはみましたが、買うたびに失望を味わいました。先生のレコード(バッハを弾く)は、20年ほど前、友人に聴かせたところ「これは凄い!」と持っていかれてしまい、プラテーロは、田舎を出るとき、ある女性にプレゼント、ホームコンサートも然り・・・です。手元には一枚も先生の音源はありませんでした。何度もCDショップへ行って、先生のCDを探したことでしょう。そのたびに、「どうしてないのだ・・・?」・・・となりました。
今年に入り、遂に、「サウンド・オブ・ザ・ギター2」とめぐり合いました。「本当に、これが聴きたかったのだ・・・!」という音楽がスピーカーから流れてきました。“バッハを弾く”も素晴らしい音楽でしたが、このCDでは、歳月の重みをどっしりと蓄え、円熟と言うより進化した先生の音楽に「両肩が脱臼する・・・?」くらい感動を覚えました。僭越ながら、先生の音楽(ギター)からは、あらゆる音が飛び出してきます。輝かしくキラキラと宝石のように輝いて光る音・重く深く迫力満点の音・天高く突き抜けるように舞い上がる音・・・などなど。それが渾然一体になって聴くものの心に直接、語りかけてくるようです。時には優しく・時には激しく・・・!最近の自称ギタリストからは久しく聴けなかった音楽でした。
音楽を愛する私に、ギター音楽の素晴らしさを再び伝えてくださり、心から感謝いたします。

2009・7・16 中 森 良 二


これ以前はBack-nomber 3 Back-nomber 2Back-nomber 1に移動しました

 

 


今後の予定

 アンドレス・セゴビアに認められ、初めてヨーロッパに行った事。最初のヨーロッパの地イタリアでの夏季講習会。歴史の古いイタリアの町シエナのキジ伯爵のお城でのセゴビア先生のレッスン風景、そこではピアニスト、コルトーや指揮者のチェリビダッケ、そしてカサルスにその弟子カサド、スペインのハーピスト、ザバレタ達もレッスンをしておられた。セゴビア先生の教室に、アメリカ大統領候補のスティーヴンソン氏が表敬訪問に来られた時、「Japan!」と指名されて私は1人目の生徒代表として演奏した事など。
 カサド先生のお宅はフィレンツェ市内の古い塔の中に在り、そこにはチェロの名器がごろごろしていたこと、またバッハの自筆の楽譜が額に入れカーテンとかけて飾ってあった事等。
 その夏季講習会で出会った16才のドイツ人が私の弟子になりロンドン(後で私の留学地になった)に家族全員で来た事。彼の父はドイツの演劇の演出家でリチャード・ウィドマーク主演の映画にも出演していたチャールス・レニエ氏で、彼の母はかの有名なヴェデキントの娘であった事、彼等の友人にあの有名な映画『赤い靴』主演男優であるアントン・ウォールブルック氏が居てその家に招待され、私はギターを弾いたり、ご飯を炊くところをぜひ見たいと言う事でデモンストレーションをしてあげたりした事等。
  ロンドンでのアルバイトの一つとして、写真のモデルを頼まれ、外国に住む東洋人としてBOACのタイムスのモデルになったこと。
 スペインでのコンクールでオスカー・ギリアと3位入賞を分け合った時の事。
 その後アメリカ演奏旅行に招待され、大西洋をサクソニア号(2万トンの英国客船)で渡った時のこと等、その船中でアメリカの有人宇宙飛行が始めて成功し船中でそのニュースを知った事、ニューヨークにつくと自由の女神が最初に見えて感激した事等。
 ニューヨークのカーネギーホールでの演奏会、ロンドンのウィグモアホールでの演奏等々思い出深い事柄もいっぱいあります。
 朗読とギター・ソロのための名作「プラテロと私」(これはノーベル文学賞を受賞したホアン・ラモン・ヒメネスの散文詩でプラテロと言う名のロバに作者が語り掛けると言う形式のお話で、その一部の章にテデスコがギターの音楽を付けた作品)の公演で競演していただいた多くの俳優さん、女優さん達、例えば岸田今日子さん、木村功さん(コロムビアでレコードになっている)、など、また影絵の藤城真悟さんと朗読は八千草薫さんでの公演、ロンドンではハンガリーの俳優との競演も思い出深い事柄です。
 アメリカ演奏旅行の徒次、ロスアンジェルスのビバリーヒルズのテデスコ先生のお宅でセゴビア先生がコンサートの後のパーティーに来ておられる事を知って、テデスコ氏宅を尋ねるとヴァイオリンのハイフェッツ氏がそこに居られた事等。
 その他、セゴビア先生が晩年に来日公演された時には滞在中殆ど一日おきにレッスンをして下さった事。その時セゴヴィア先生の愛息、カルロス君が柔道を是非とも講道館で習いたいと言い出してつれて行き、そこで彼は足を挫いてしまった。ホテルに帰ってその事をセゴヴィア先生に報告する事の辛かった事。
 これからギターを勉強したいと思っている方には、クラシック音楽は知的好奇心を持った方に大きな楽しみを与えてくれると思いますので、なにかお役に立つようなことがお話出来ればと考えています。