エッセイ集のバックナンバー
ファイルno.1
(2005/4/6〜2006/7/4)

目次

今後の予定
第4回La Guitarraラ・ギターラ(2005/4/6更新)
第5回私の先生-1(2005/5/8更新)
第6回 高齢化社会への一提言(副題-私の先生-2、第5回ー私の先生-1への補足)(2006/5/12掲載)
第8回わたしの弟子とその弟子(2006/7/4掲載ー2009/5/12加筆)

第8回
わたしの弟子とその弟子(2006/7/4掲載ー2009/5/12加筆)

    私はいままで自分の先生の事ばかり書いて来た。先日暇があったので自分の名前(松田晃演)でNET検索してみたところ、Googleでは284件YaHooでは251件がヒットした。そこで幾つかのサイトにアクセスして見た所、私の弟子達、弟子の弟子たちがわたしのなまえを上げてくれている。
    面白いので、何人かの方に連絡を取ってみた。間違いの記述、思い違いをされているなどと、記載記事を訂正する必要もあったので。
    それで分かった事は、私のごく初期の弟子の弟子(つまり孫弟子)の記事が結構多かった。わたしには直接近づかないが、わたしの事は気にしているらしい弟子を鷹野君は育てていたらしい。逆に、例えば河野賢氏、-日本では有名なギター製作家-のお世話になっていた渡辺範彦などは(私が河野氏に紹介したのだが)、彼が小学生の時から手取り足取り育てた弟子でありながら、私の弟子である事を公表しようとしなかった。
    わたしが十数年の東京生活の後帰神した頃、鷹野氏はわたしの演奏を聴いてそれまでに彼がギター演奏に関して考えていた事が全部間違いだったと直ちに認め、彼のすべての弟子をわたしに預けることにした。そして彼自身も初めからやり直すのだと言って、わたしに習いはじめた。なんと言う真面目な人だろうと、その事をきいて、わたしは心から感心した。多分その心が鷹野氏の弟子達に伝わって彼等のホームページに鷹野氏の名前は出さずに私の名前だけを出し(このような言い方になっている「私は松田晃演先生の弟子の弟子です。」と)自己紹介をされている。そのためわたしからすると、ホームページの作者の先生つまり松田晃演の弟子が誰か判らない結果になっていた。
    十数年の東京生活の終わり頃、私は新しい通信教育の教材の演奏を担当、作成し、その後帰神した。その通信教育の教材の模範演奏をするにあたっては、初心者のための、つまらないとも見える単純な練習曲の楽譜でも演奏家として立派な音楽に仕上げなくてはいけない、とのコンセプトで演奏した。
    世に多くのギタリストやギターの先生方がいらっしゃるが、鷹野氏のように真面目に音楽を追求する姿勢を持った方にはまだあまり出会った事がない。鷹野氏は、学者が真理を追求するように純粋に、音楽の真実を求めていたのを私は評価した。その事は鷹野氏の生来の資質とわたしの初期の教え方が良かったのかどうかは判らない。ただ鷹野氏はその後、私に敵対する楽器店(その理由は何時かお話しする事が出来る時が来るでしょう)で働く事になった。なんと言う因果な世の中の流れであろうか。
    わたしの演奏を評価して今までの自分の積み上げて来た音楽上の常識、テクニック、経歴、それに生活の基盤である弟子までほうり出してわたしの門を叩く、私に習い直す、それは滅多に出来る事ではない。自分で決断して、自分が求める音楽を身に付けたいと言う強い向学心があってこその行為であったと考えられる。
    わたし自身は、実はその行為を何度もやって来た。ヨーロッパに留学していた頃は特に何度か、そして帰国後、上述の東京時代の最後のころ、通信教育の教材を演奏、作成した時等。外国では何度"Start again"(初めからやり直そう)と叫んだ事だろう。
    私の弟子はもちろん鷹野氏だけではない。ずっとわたしに習い続けている真面目な方達も沢山いるが、何時であったか、わたしの元を去って私の敵のもとで働き生活の糧を得る事に決心した、鷹野氏の事は、私に取っては最も印象的な出来事であった。わたしの敵に身売りをした、彼の心の中の苦衷は察するに余り在る。その事を如実に思い出させた今回のNET検索の結果でした。
    "Start again"と叫んでやり直す事、物事の真実と未来の成果を信じてやり直す事、一つ確実に諸兄に言える事は、絶対に諦めてはならないという事です。何時か必ず道がひらけます。わたしは70才を過ぎてもギターが上達し音楽の理解を深める事を、「サウンド・オブ・ザ・ギター3」および「サウンド・オブ・ザ・ギター4」の演奏、録音によって実証出来ているのだと思っている。それでギターのみならず音楽に携わる皆様も音楽の真実を求めて勉強される事をお勤めします。音楽の楽しさを知る事が、自分の心の豊かさを充実させ、人生を豊かにする由縁になるでしょう。

第6回 (2006/5/12掲載)
高齢化社会への一提言
(副題-私の先生-2、第5回ー私の先生-1への補足)

     「藤井紫朗さん(私の最初のギターの先生-お坊さん)が若い私の頭に徹底的に叩き込もうとして居られたのは、ギターはクラシック音楽をする楽器であるという事、これに尽きる」と前回の文に書いた。流行歌をするギターをもっとも軽蔑すべきものと私の頭に叩き込まれた。
     姫路城の家老であった武井守成さんのことを、藤井さんはよく話題にしておられた。武井守成さんは日本人のギター曲の作曲家の草分けであったので、武井守成さんの作品をご存知の方も多いと思う。彼は、大変なお金持ちで、(武井守成さんは東京に住んでおられるのだろうと私は早とちりかも知れないが、思っていた)ドイツのボンの図書館(多分マンドリン、ギター関係の図書館)を丸ごと買って持っておられ、貴重な楽譜も沢山所持しておられたとか、その図書館の中に中村女史(当時著名な日本の女流ギタリスト)の愛用しておられたスペインの銘工、シンプリチオのギターも含まれていたとか、イタリアの洒落た車を持っておられたとか、よく話題にされていたのは未だに私の記憶に新しい。
     藤井さんはギターを通して西洋音楽への憧れを、一つの感覚と云うか、捕らえ方の方向を示してくださったとも言えるが、今から思うと、ギターの正しい弾き方を実際には知っておられたわけではない。ギターの正しい弾き方を知っている人は当時の日本に誰もいなかったので決して藤井さんの罪ではないといっておく。
     そこで私が思い、諸兄,詰まり、真にギターとその音楽を愛する、つまり、ギター音楽を愛し芸術における役割の大きさを強調し、しかも純粋に芸術に憧れている方が、藤井さんのように、若い人の心に本当のギターとその音楽の魅力を注ぎ込んであげて欲しい事です。私の弟子の何人かはそれに近い事が出来ているかも知れないが、それを意識して私だけでなく、多くのギター教師がそうして欲しいと思う。今日、高齢化社会の不安が叫ばれているが、社会生活で永年の経験、実績、学歴、学問的知識、何でも良いからそれらの大切さと必要性、それらを持っている事の誇り、を若い人達に伝えて行って欲しい。若い人に伝える時、月謝を取る取らないには関係なく、趣味的にでも(月謝は適当に安い)、プロフェッショナル的にでも(月謝は適当に高い)その方に習いたいと言う生徒が集まるのであればその月謝の価値は評価、是認されたのだといえる。
     過去、私を超えようとしたギタリスト志望者は沢山居たようだ。その証拠(evidence)には、日本に私と言うものが居るにも係らず、外国にギター留学した方が多く居た事。(中には留学後日本に帰って後、芸術や音楽の真の価値を知り、感じる事が出来た方で私の門を叩いた方も希にはいた。)外国でギター教師をしている私の仲間のギタリスト達(スペイン人やその他ヨーロッパ人)の幾人かを知っているが、彼等が芸術の理解力に於いて私に勝っているとはわたしには決して思えない。外国に留学してこれらのギター教師に入門した日本の人達、ギタリスト志望者達の未来を予知する事が出来ないわけではなかったが、黙って眺めていた。人が悪いようであるが、自己宣伝を激しく(私に習いに来いと言って)したくなかったし、明らかに私を超えようとするガツガツした人達をわざわざ私が自分のひざ元に置いてレッスンを与えて行く、息詰まるような教室にしたくなかったし、事情はいろいろあった。
     藤井さんの事を思い出してみると、ギターの先生はギターが弾けなくても良い生徒を育てる事が出来る。もちろん若い頃にギター音楽に憧れ、芸術や高い文化に憧れた方でないと良い生徒をつくり出す事は期待出来ない。でも今言われている少子高齢化の時代に、失礼ながら有り余る余暇を持っている一般社会から現役を引退されたかたが、時間と、過去に積み上げた芸術に対する情熱、知識、常識、憧れを無駄にする事はない。学問の仕方を知っている方も実に多い筈である。そして前にも書いたが、易しい曲を弟子に魅力的に模範演奏を弾いて聞かせてあげる、それがダメなら芸術にたいする憧れを吹き込んであげる事が出来ればどんなにか楽しいであろう。一例をあげれば、CDなどの演奏でどの人のどの曲の演奏が聴くに値し高く評価すべきか、そして憧れるべきか、を教え、指標を与える事がどんなに大切なことであるか。
     ここで一言、是非とも間違って頂きたくないので申し添えておきますが、くれぐれも大演奏家を育てようとは考えないで頂きたい。演奏家になって(単なるプロとして-その事で生活の資を得る事)成功するのは大変難しい事ですが(運と厚かましささえあれば何とかなるかもしれないが)、芸術家である演奏家を目指すのはもっと大変な難事業であります。ギター音楽とその芸術性を理解し可能性を信じる若人を多く育てる事、その人の生涯に於いて豊かに暮らせる事、それらを大きな目標として若い人達に話をしてあげて頂きたい。それらの多くのギター人口の中から一人でも芸術家であるギタリストが育って欲しいと私は期待したいのです。

第5回

私の先生-1(2005/5/8更新)

    私は多くの方からギターを教えて頂いた。私が今日迄にギターを教えて頂いた先生方はまず第一にアンドレス・セゴビア、それからジョン・ウィリアムス、アリリオ・ディアス、それ以前に日本ではお寺のお坊さん(この方の名は藤井紫朗さん)他、何人かの方々だ。初めに挙げた外国の3人の先生は私のカーネギーホールの演奏についてNew York Times 紙の評論で言及されていて、「松田晃演はこれら偉大な3人を先生に持っているにもかかわらず自分自身を失っていない」と書かれている。この論評は私を賞賛して居るものとして、私は誇りにしている。
   今回は藤井紫朗さんが私の人生の出発点に於いて私の未来を決定するについて、私に与えた影響、果たして下さった役割等を諸兄の興味を引くかも知れない事柄等を思い付くままに記して置きます。矢張り、「先生」とは神が我々に与えた不思議な縁であり人力で解析できない何ものかを、私達は謙虚に感じさせられる「偶然性」(先生との出合いの神秘的な不思議さである。)に思い到る。第二時大戦後すぐの頃、アルゼンチンの女流ギタリスト、マリア・ルイサ・アニード女史が日本に演奏に来られた。彼女はミゲール・リョベートの直系の弟子で、SPレコードにも多くの演奏を残しているが、ギター上達に最も大切な事は、との日本の記者の質問に「それは先生と爪です」と即座に答えておられたのをハッキリと私は記憶している。
   藤井紫朗さんに若い私の頭に徹底的に叩き込まれたのは、ギターはクラシック音楽をする楽器であるという事、これに尽きる。
   藤井紫朗さんの云っておられたことで、思い出すのは、「バタ臭い」という言葉です。この頃ではあまり「バタ臭い」という言葉は聞かなくなったが、西洋音楽の一つの特徴がこの言葉に凝縮されているのかも知れない。私は若いころヨーロッパ留学以前から、松田のギター演奏は日本人の中でも傑出してヨーロッパ的だとも云われていた。この藤井さんの「バタ臭い」という言葉が私の西洋音楽への憧れとか、一つの感覚と云うか、捕らえ方の方向を示してくれたのかも知れないと今にして思い当たる。

   そう云えばこれは関係はないと思うが、私は子供の頃からバター付きパンと紅茶を毎朝食べていた。生家は姫路の商家であったが、父はその前は創立当時の関西大学の教授をしていたと聞いている。そんなに西洋かぶれとは見えなかったが、神戸の須磨の生まれで、一応覚えているのは私達は毎朝炭火でパンを焼きバターとジャムをぬってたべていた。紅茶は、アルマイトのやかんにいっぱい湧かして、カーネーション印の缶詰めのエヴァ-ミルク(コンデンスミルク)と砂糖を入れて飲む。時には神戸から父が買って来たパンを食べる。本当に懐かしい思い出だ。(父は戦時中、九州の特攻隊に勤務していたり関大ではサッカー部かラグビー部の部長をしていたとか、彼の事についていつか機会があれば書いておきたいことも多い。英語も上手かった。終戦直後、駐留軍が父の家を接収に来た時、ペラペラと米軍の係りの将校と喋って接収を免れたところを私はそばで見ていた。)

左はこの当時の子供の頃の写真。(右手は独楽を回そうとしている)

   序でながら、私のエッセイ集「ギターは小さな星のオーケストラ」の中の「うさぎ」の項にも書いておいたがジョン・ウィリアムスから私が教わった「レアビット」(黒パンとチーズの簡単な料理)もギター上達を目指す方々は是非とも御一読を!これはギタリスト必須の食べ物かも知れないので、ぜひとも試して見て頂きたい。
   さて、「バタ臭い」と云う西洋音楽に付いての評論は近年聞かないような気がするが、バタ臭くない西洋音楽なんて存在しないのではないか。振り返ってみれば昔の超一級の演奏家はすべて「バタ臭い」演奏をしていたし、その雰囲気を芬々と持っていたように思える。藤井さんは実にいい事を云っていたのだなあと今では思う。そう云えば、最近日本人の演奏で「バタ臭い」演奏だなあと思わせられる人にお目にかかる事は少ない。音色とかイントネーションとかからにじみ出る、なにかバタ臭さ、これこそは西洋音楽の神髄だと思いませんか。
   藤井紫朗さんの先生(多分大正時代)は大阪の心斎橋の時計屋の二階で教えておられた川瀬(カワセ)さんと云う方だったと聞いている。この先生は藤井紫朗さんによるとソル、カルッリ、カルカッシ等の易しい練習曲を弾くとなんとも言えず上手だったらしい。このような易しい練習曲を生徒のために、印象的に、魅力的に弾ける先生の音楽は何十年経っても覚えているし、その生徒のギターへの情熱は何年経っても消える事はない。「さあ一緒にギターを弾きましょう」と云って川瀬さんはレッスンを始められたと話しておられた。私は弟子に宿題を弾いて聞かせたり模範演奏してあげる時、易しい曲を魅力的に弾く事に勤めている。
   藤井先生はギターの楽譜をたくさんもっておられた。それらは、先生が大谷大学の学生時代に、ヨーロッパから輸入されていたもので、終戦直後の当時では非常に貴重なものであった。ギターにはこんなに勝れた音楽があり、ヴァイオリンやピアノにまけないレパートリーがあるのだ、と若い私にギター音楽へのプライドを極力植え付けようとしておられた。
藤井紫朗さんのもう一つの挿話。彼が若いころ、イタリアからイバニエッツと云うギターの輸入を思い付かれた。当時は、上記の楽譜も同じであるが、船便で何か月も掛かってヨーロッパから日本にやって来る。期待に胸を膨らませて何日も待ったギターが自分の手許に来た。これが期待に反してギターらしい音がしない。それで「こんなもんギターやない、下駄じゃ」と云って、高価なギターを足で踏みつぶしてしまわれたとか。下駄を履いてギター(ゲター)の上に乗ったらギターは簡単に潰れたのかも知れない。
   私はある日予約無しに先生のお寺を尋ねた。そうすると何時もの部屋から、先生が弾かれるギターの音が聞こえて来た。藤井紫朗さんが弾くギターの音楽だ。これは私が後にも先にも初めて聞く先生の演奏で、先生が楽譜から離れて、音楽の演奏解釈を為さっているのを垣間見た思いがしたものだ。
   藤井紫朗さんはもうずいぶん前に亡くなってしまわれた。彼は何時どんなに夜遅くギターを下げて行っても快く座敷に迎え入れて下さり、ごろりと横になって私の演奏を聞いて下さった。ギターは夜遅くなればなる程音がよくなる、といって何時まででも私のギターを聞いて下さった。ところが家に帰る時、藤井さんのお寺の隣が学校で私の家はその隣であった。隣と言っても少年の私には長くながく感じられる道のりで、その道の南側はずっと姫路城の史跡である中堀でその向こうはこの中堀を見下ろす鬱蒼と茂る原始林のような土手になっていた。上を見上げると堀の向こう側の原生林の木々が私に被いかぶさるように真っ黒の樹冠をのばしており、その上に冬ならオリオン星座の四つの星がキラキラと輝いていたのをいまでもハッキリと思い出す事が出来る。左手にはこの堀、右手にはお寺の塀、学校の白い塀、それを過ぎると私の実家の曲がりくねった土塀、その土塀の上から大木になった榎木が道に被いかぶさっている。この榎は昼間登ると、蛇やむかで、青虫などがぞろぞろと居たものだ。その道沿いに歩いていると、向いの原生林から薄気味悪いふくろうの声、と思うと、道ばたの草むらからはイタチらしきものが飛び出すなど、恐がりの私は胸をどきどきさせながらギターを担いで歩いて帰ったのを、まざまざと思い出す。(註-この頃の私は中学1、2年~高校2、3年生でその頃の景色の面影は今では何も残っていない。)
   「サウンドオブザギター3」を是非とも聞いて頂きたかった一人が藤井紫朗さんである。「しゃーないなあ、しゃーないなあ、」(トルレスでこそこの音が出るんじゃ。しゃーないなあ-どう仕様もないなあ-という意味)と云いながら聞いて下さったに違いない。

第4回

La Guitarraラ・ギターラ(2005/4/6更新)

     私は自分のギターの事を、いつのころからか、何故か、La Guitarra = The Guitar (ラ・ギターラ)と呼んでいた。車でギターを持ってどこかへ出かける時、ラ・ギターラと呼びかけながら車にのせる。ケースにいれて旅に出る時、腕に抱える時、ラ・ギターラと呼んでいる。
     ロンドンにいた若いころ、日本では滅多に聴く事が出来ないマエストロ・セゴビアのコンサートを時々聞く事が出来た。その時私達がセゴビア先生を話題にする時 “The Man”(ザ・マン)と呼んでいた。“The Man”つまり男の中の男、名人、ギタリスト中のギタリストだろうと、私は思っていた。そこで今私は、私のギターをラ・ギターラと呼んでいるのは意味なくそうしているのではないことにふと気が付いた。
     Jose Antonio de Torres、 私はこの人の作ったギターを毎日弾いている。私が子供の頃から、(西洋からはるか離れた日本で子供の私が)知っていたギターの名前、トーレス、そして常に憧れていたギター。これこそはギターの中のギターである。La Guitarra(ラ・ギターラ)である。私の最初のギターの先生、藤井紫朗さんはミゲール・リョベートのSPレコードを聞く度に「しゃーないなー、しゃーないなーム仕方がないなーという意味ム」(関東の方には「しょんないなー」と聞こえるらしい)と云いながら、私と一緒にミゲール・リョベートのトーレスの美音に聞き惚れていた。
     トーレスは実に健康な楽器だ。私のもっているトーレスは最晩年の作品であるが、(製作後110年以上経っている)なんとも言えない美しい、若々しい音がする。私はこれに敬意を込めて、Phoenix「フェニックス=不死鳥」と言う称号を与えそして、La Guitarraと呼んで持ち運んでいる。そして私のトーレス、Phoenix。不滅のギター、不死身のギター。そしてギター自身その音楽とその演奏芸術も含めて不滅である。私もそれに倣って、いつまでも若々しくギターを弾き続けたいし、ギターの演奏に於いて、音楽的に進化を続けて行きたいと願っている。
     セゴビア・コンクールの審査のためにスペインに行った時、イタリアから来ていた審査員の一人は、私がトーレスを持っていると言ったら、私に向かって最敬礼をしてくれた。ちなみにその時の審査員はアリリオ・ディアスさん、南米のカルレバロ氏、ナルシソ・イエペス氏そして今のイタリア人氏、他であった。


今後の予定

 アンドレス・セゴビアに認められ、初めてヨーロッパに行った事。最初のヨーロッパの地イタリアでの夏季講習会。歴史の古いイタリアの町シエナのキジ伯爵のお城でのセゴビア先生のレッスン風景、そこではピアニスト、コルトーや指揮者のチェリビダッケ、そしてカサルスにその弟子カサド、スペインのハーピスト、ザバレタ達もレッスンをしておられた。セゴビア先生の教室に、アメリカ大統領候補のスティーヴンソン氏が表敬訪問に来られた時、「Japan!」と指名されて私は1人目の生徒代表として演奏した事など。
 カサド先生のお宅はフィレンツェ市内の古い塔の中に在り、そこにはチェロの名器がごろごろしていたこと、またバッハの自筆の楽譜が額に入れカーテンとかけて飾ってあった事等。
 その夏季講習会で出会った16才のドイツ人が私の弟子になりロンドン(後で私の留学地になった)に家族全員で来た事。彼の父はドイツの演劇の演出家でリチャード・ウィドマーク主演の映画にも出演していたチャールス・レニエ氏で、彼の母はかの有名なヴェデキントの娘であった事、彼等の友人にあの有名な映画『赤い靴』主演男優であるアントン・ウォールブルック氏が居てその家に招待され、私はギターを弾いたり、ご飯を炊くところをぜひ見たいと言う事でデモンストレーションをしてあげたりした事等。
  ロンドンでのアルバイトの一つとして、写真のモデルを頼まれ、外国に住む東洋人としてBOACのタイムスのモデルになったこと。
 スペインでのコンクールでオスカー・ギリアと3位入賞を分け合った時の事。
 その後アメリカ演奏旅行に招待され、大西洋をサクソニア号(2万トンの英国客船)で渡った時のこと等、その船中でアメリカの有人宇宙飛行が始めて成功し船中でそのニュースを知った事、ニューヨークにつくと自由の女神が最初に見えて感激した事等。
 ニューヨークのカーネギーホールでの演奏会、ロンドンのウィグモアホールでの演奏等々思い出深い事柄もいっぱいあります。
 朗読とギター・ソロのための名作「プラテロと私」(これはノーベル文学賞を受賞したホアン・ラモン・ヒメネスの散文詩でプラテロと言う名のロバに作者が語り掛けると言う形式のお話で、その一部の章にテデスコがギターの音楽を付けた作品)の公演で競演していただいた多くの俳優さん、女優さん達、例えば岸田今日子さん、木村功さん(コロムビアでレコードになっている)、など、また影絵の藤城真悟さんと朗読は八千草薫さんでの公演、ロンドンではハンガリーの俳優との競演も思い出深い事柄です。
 アメリカ演奏旅行の徒次、ロスアンジェルスのビバリーヒルズのテデスコ先生のお宅でセゴビア先生がコンサートの後のパーティーに来ておられる事を知って、テデスコ氏宅を尋ねるとヴァイオリンのハイフェッツ氏がそこに居られた事等。
 その他、セゴビア先生が晩年に来日公演された時には滞在中殆ど一日おきにレッスンをして下さった事。その時セゴヴィア先生の愛息、カルロス君が柔道を是非とも講道館で習いたいと言い出してつれて行き、そこで彼は足を挫いてしまった。ホテルに帰ってその事をセゴヴィア先生に報告する事の辛かった事。
 これからギターを勉強したいと思っている方には、クラシック音楽は知的好奇心を持った方に大きな楽しみを与えてくれると思いますので、なにかお役に立つようなことがお話出来ればと考えています。