2012年

年頭のご挨拶

先日FacebookでAlbert Einstein(1879-1955)のThose who have the privilege(特権、特典) to know have the duty to act.と言う文章が多幡達夫先生の投稿で眼に入って来ました。
 考えてみると(考えてみなくても)わたしはアンドレス・セゴビアの教えを受けておりそれを自身の音楽解釈の発達に生かす事、(つまり自身の音楽のレベル向上)がactionではなかろうかと思い込んでいましたが、何かしないと不可ないのだという事を知らされました。
 それにしましてはセゴビア先生がわたしの前で呟かれた「カナリヤはマネージャーが居ないと啼かない」と言う言葉がふと心に響きます。わたしを啼かせようと言うマネージメントが出現しないし、わたしがマネージメント探しに努力をした事はあるのですが巧く運びませんでした。
 で、わたしに残された為すべき事は後進の育成ですがそれはむりにわたしに習いなさいとは言えないので、楽譜をばらまく事位でしょうか?不法出版、海賊版の楽譜作成に繋がりますので積極的には行えません。弟子達に伝えて行くのが精一杯のわたしの出来るContributionでしょうか?
 でやはり演奏家としての原点に返り自分の演奏を少しでも多くの方々に聞いて頂く事にエネルギーを注がなければならないと思ったりしています。録音または実演です。
 何も考えようとしなかったわたしにこの時、強い刺激を与えて頂きました。
註―昨日、上の文をmixiに投稿しました所、偶然別項の投稿欄に中森良二氏より次ぎの様な文章を頂きました。そこでこの文をmixiと重複を承知の上で改めて此処に掲載させて頂きました。投稿欄もご参照下さい。

2012/1/26-Akinobu Matsuda

2011年

いろいろと書き始めていますので前書(まえがき)も少し変更し、わたしの近況をお知らせしておきます。
 1)南九州への移住を決心。2)自主コンサートの開催中止。ただ何時でも聞いて頂けるよう練習。生きていてギターが弾けている事の幸せを感じている。3)何人かの方は遠くから習いに来て下さっている。「聴くギター音楽入門CD」とその楽譜完成発売 。4)これらのエッセイ集を愛読下さっている方の存在を知ると勇気が湧きます。

その後心境の変化、環境の変化があり姫路に定住の決心、大決心、をしまして2015年7月現在まで従来の通りに生活をしています。

 

(第71回)ダーウィン・フィンチのさえずり(2012/2/10)

 僕はどうも人々と異なった進化をしているらしい。殆どのギタリスト、ギター(音楽)評論家、ギター教師たちとは異う島に居るらしい。いつの間にかそうなってしまっている。
 1曲の或る音(バッハのチェロ組曲3番のプレリュード「サウンド・オブ・ザ・ギター4」収録の第1音、=Laの音)を例にとって説明すると、絶対こうだとして弾き続けている内にその音の出し方は進化して行く。それは孤島に住んでいて他の影響を受けずに居ると激しくそうなる。大きさ、ヴィブラートを掛けるまたは掛けないそしてヴィブラートの回数(この場合徐々に早くなる、遅くなる等もある、そして音が途中から大きくなったりもさせられる、音程を少しばかり上げて行くか下げて行くか、それとも元の音になってから次の音に移動するか等)、タッチの微妙さによる音の立ち上がり具合、次の音までの長さ(次の音迄に間、無音の空間、があるかどうか)、①弦で弾くのか②弦でか、i,m,aの何れの指で弾くのか、タッチのスピード、堅い音か柔らかい音か、最後には無の境地になって、何も考えていないようになってそれらが渾然一体となって部屋に響き渡る。つまり考えて弾くのは難しいが、この島に居ると或る方向に進化して行く事は事実である。
 僕が言っているのは、多くの音達がそれらが置かれている場所に応じてそれぞれ別々に進化して行って種類の豊富な小鳥達や生き物の様に1曲の中を跳び回って居てくれると好いなという話です。
 ガラパゴスとは我楽多に通じるとお思いでしょうか?「我に楽多し」それとも「我楽苦多」、「我楽む、ただし苦労多し」の方が実情に似合っているのかもしれません?
 進化して行くとはその先に何が有るか何が起こるか判らないまま進んで行く事でもあります。或る日フト周りを見回すと自分以外誰も居無いのです。そして進化の不可逆性と言って後戻りは出来ないのです。
 わたしが何を言っているかと言いますと、わたしがしているギター音楽開発事業はガラパゴス状態であるという事です。
 でもそこは前人未到の地で、そこに居る事は本当に楽しいのです。あたかもチャールス・ダーウインになった様な気分です。
 以上は出来るだけ多くの方にギタリストである音楽家乃至はギターによる音楽演奏がギターによってどのようにして作られているかを想像して頂きたいとの意図でわたしは、仮想のわたしの音楽演奏の情況を描いてみただけです。こんな事が出来たら好いなと言う僕の憧れかも知れません。音楽演奏が発達して行く可能性は知性豊かな方が進んで行かれる目標であり、チャールス・ダーウインの発見した進化の彼方迄の遠い永遠の彼方に在ります。それこそは偉大なるアンドレス・セゴビアが発見、または発明したギター音楽の行き着くべき実りの多いダーウィン・フィンチのさえずり飛翔する音楽の楽園です。そしてそこはギター音楽愛好家がギター音楽がギター以外の楽器への優越性を確信して頂ける戦略的武器庫でもあります。
 セゴビア先生は世界3大バッハ弾きであり、統べてのバッハを勉強するひとたち(ギター以外の楽器奏者も含めて)はセゴビアのバッハを聴いて勉強しなければ成らないと言われていた事がある(と聞いていた)。このことは我々(それともわたしだけか?)のギターを生涯の友または生涯勉強の対象にと決意して居た者には大きな励ましになる言葉であった。この言葉は言わばわたしの生涯の通奏低音であったとも言えます。
 これはセゴビア先生が自己の業績(高い能力)をわざわざ喧伝為さらなかった芸術に対する謙虚さの現れかも知れません。神にしか創造出来ない音楽の世界です。わたしは勇敢にもその世界に飛び込もうとした。セゴビア先生が黙って演奏のみで指し示されたギターでしかなし得ない音楽表現を探求し始めました。それが出来ないとギターをする意味は無いとまで言える事でこの文の冒頭の部分は真面目なギター学生を絶望させる為ではなく、勉強の切っ掛けにして欲しいとの僕の強い思いから打ち明けた音楽世界の想像図です。

(72回)PROGRAM NOTE(曲目解説)(2012/5/30掲載)
(この解説は演奏者の練習中の心の中でのつぶやき-twitter-でもあり、
私の弟子でわたくしの音楽の理解者達の追加の解説です)

L.S.ヴァイスWeiss ロジー伯の墓にTombeau sur la mort de Mr.Comte de Logy   
 この曲はバッハと同時代の著名な作曲家、L.S.Weissがそのパトロンのアントン・ロジー伯爵の墓に捧げたレクイエムであろうと私は思っています。そして永遠の真理である「生ある物は必ず滅びる」を現しその真理に直面して人間の弱さ、儚さへの嘆きを音楽にしています。昨年、そして17年前の神戸大震災等と大きな自然災害が起こり多くの人命が損なわれました。この曲の演奏は犠牲になられた方々の魂に捧げます。
F.ソルSor 練習曲Etude, Molto moderato Op.31~19   セゴビア先生はソルの無数の練習曲の中から20曲を選んで練習曲集を出版しておられる。その第10番目の曲がこの曲です。この様な曲目が聞く人に喜びを与え、弾く人も充実感を持ってステージで弾くことが当然の様な時代になって欲しいと思います。
練習曲Etude Op.35~22
 誰が名付けたのか「月光」の名で良く知られている。ミゲール・リョベートも彼の残した数少ない録音の中にこの曲をいれている。上記の曲集の第5番目の物です。私はこのような易しい曲がギターのコンサートのレパートリーとして時には取り上げられても良いのではと思いました。
アンダンティーノAndantino
 若い頃一心に弾いていたのがこれらソルの小品集です。(録音の幾つかは50年以上前の「ギタリストへの道程」に収録)アンダンティーノは私がギターを持ちクラシックギターの存在を知って1、2年のある時、ギター誌の主催するコンクールの課題曲になっていた。私は出演(応募)する気は全然なかったが、応募するとしたらどんな演奏が出来るだろうかと、真面目に弾いてみた。何度弾いても自分が満足出来る演奏は出来なかった。ギターを弾く、そしてソルを弾くには本当に年期が要るのだと、そしてソルを弾くと色んな事が身に着くのだと今でも思っています。
*文末に渡辺潔氏によるソルの解説があります。
ポンセ=バッハPonce=Bach 前奏曲ニ長調Prelude in D
 この曲はバッハの名曲として良く知られた曲で無伴奏チェロ組曲第1番の前奏曲です。この組曲全曲はイギリスの元ジャズギタリストで作曲家であり編曲家のジャック・デュアルテがギターソロに編曲している。セゴビア先生が第1曲目の前奏曲だけをポンセのこの編曲を使い、残りはデュアルテ氏の編曲でコンサートをされた事があった。
 ポンセの傑作の一つでこの音楽はポンセの真摯な気持ちでのバッハ礼賛の作品であると言って良いと思っています。つまりバッハの作曲であると思わない方が正しいのだと信じています。
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター3」のトラック6に収録)
M.M.ポンセPonce 小さなワルツPetit Valse
 私の最も好きなポンセの音楽の一つです。
 セゴビア先生はこの曲をギターソロに編曲して演奏し、ポンセがギター曲を作曲する様に勧誘されたとか聞いた事があります。原曲が何であったかわたくしはその話を聞いたときの事を覚えて居ませんが、セゴビア先生が何としてもポンセにギター曲を書いて欲しいと願われての事であったと思われます。
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター3」のトラック7に収録)
南のソナチネSonatina Meridional
第1楽章Campo,Allegretto        第2楽章Copla,Andante 第3楽章 Fiesta,Allegro con Brio      Meridionalは南イタリア。Campoでは南イタリアの田園地方で子供達が唄う民謡らしき唄がそこここに聴こえる。Coplaは歌謡。私は、南国の暑く暗い夜、ジーーーーーと鳴く虫の声が聴こえる様な雰囲気を感じます。Fiestaは祭です。しかし宴果てた後の空しさ、寂しさが強い印象を与えます。この楽章の終曲に近づく所にセゴビア先生かそれともポンセ自身か(それとも2人のコラボか)による二カ所のショット版への追加訂正部分が在ります。この追加加筆は素晴らしく、才能あふれる編作なので、研究者または演奏家の方は調べて取り入れて頂きたい。それ以外にも幾つかは修正、では無く誤記もありますが、それはこの曲に限らずどの楽譜にも在る事です。楽譜は神聖な物であり1音符といえども加筆訂正は許されない、とは単なるペダンティストの妄想である。
 私は、この曲のセゴビア先生のレッスンを受け、その他先生とお話しする時間と機会が沢山在りながら、今にして思えば沢山沢山お聴きしておけば良かった、大袈裟に言えば重要な確認しておくべきであった史実を聞き逃している。でもそれはどうでも好かった事かもしれません。勿論お判りでしょうが、それらは真に音楽演奏に不可欠な重要な事ではなかったからかも知れません。三面記事的な単なるうわさ話の域を出ない事であるかも知れません。それにしてもこの曲への加筆訂正は何時誰が思いついたのか、その時の状況を知りたくて仕方が無い。私の想像ではセゴビア先生の仕業ではなかったかと思っている。
スペイン民謡Spanish Folk songs
聖母の御子Lo Noi de la Mare
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター3」のトラック3に収録)
プラニーPlany
 私はNHK「ギターを弾こう」の最後の講師を受け持つ事になり、その年は奇しくもセゴビア先生の最後の来日中でこの放送が先生の目に留まっていたらしい。その時の番組のテーマにして居たのがこの曲でした。私は一言も放送をしている事を先生に報告して居ませんでしたが、先生から突然お前の番組に出てやろうかとのお言葉を頂き驚きました。NHKの番組担当者の方はそんな大物の出演は受ける事が出来ないと断られました。1982年の8月のことです。
 ちなみに、私はLPとかCDとか先生には出版の報告をした事は在りません。先生が偉過ぎたのです。
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター1」=LPのトラック4に収録)
レオネーサLeonesa
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター2」=LPのトラック3に収録)
*文末に中森良二氏による解説が在ります。
F.M.トローバTorroba 夜明けの唄 Albada  
スペインのコンクールで自由選択曲として弾きました。セゴビア先生と中間の休憩時間に廊下で偶然すれ違った。先生は「Good Day」と私に告げて下さった。「こんにちは」とも取れるし、私が良い演奏をする日と悪い演奏をする日が在り、今日は「良い演奏をする日だ。Good Dayだ」と私に暗に伝えて下さったのかも知れません。
M.C.テデスコTedesco
   つばめGolondrinas,Vivace, Leggero e volante
   夕べの鐘Angelus,Calmo ed estatico(Andante)
OP.190「プラテロと私」28曲のうち「つばめ」は1960年July 19日作曲。私が最初にヨーロッパ留学でシエナにいた頃です。「夕べの鐘」は1960年June 13日作曲、私が最初にヨーロッパ留学のため羽田を飛び立った頃書いておられた。1日1曲のペースで書かれている曲も沢山在ると思います。
 Castelnuovo-Tedescoは沢山のギターの為の曲をかいておられる。
「プラテロと私」は私がこれらの曲を日本で弾いた時、評論家故松本勝男さんが「これは小さなロバに沢山の荷物を背負わせ(過ぎ)ている」と論評された。言い得て妙であると私は感心した事でした。私が思った事は、積みきれない程の詩情です。詩人(ノーベル文学賞)の詩情と、作曲家(20世紀の大天才作曲家)のそれ、そしてギターを通して演奏者のするそれです。ギターをロバに例えれば、ギターは小さいが働き者で力持ち、頑固で主人の好むままにどんなに重くどんなに多くの荷物でも背負って運んでくれる。(但し積み込んでやればの話です)積み込まない人の何と多い事でしょう。
「ツバメ」はスペインではアフリカで冬を過ごしてヨーロッパに帰って来る。この年はすこし早く帰って来たのか、ツバメ達は寒さに震えている。
「夕べの鐘」は小さな村の教会の夕べの祈りの鐘が鳴り響く。それはあたかも空から色とりどりのバラの花ビラが夕陽に映えて降り注ぐようだ。
 「プラテロと私」は詩と、音楽作品と、演奏解釈とのコラボです。
 これより前の作品番号で”GREETING CARDS” OP.170が在りそのNO.46にはsul nome di Jiro Matsudaは1967年がある。これは勿論私の元の名前松田二朗(jiro matsudaを音符に置き換えて)の為に書かれた佳作です。
(私の「プラテロと私」の録音は朗読=木村功、日本コロムビア=LPのトラック4と3に収録)
*文末に中森良二氏による解説が在ります。
F.タルレガTa´rrega アデリータAdelita
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター5」=CDのトラック4に収録)
メヌエットMenuett
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター1」=LPのサイド2のトラック3に収録)
パバーナPavana
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター2」=CDのトラック3に収録)
アラビア風奇想曲Caprichio Arabe  
 ギターのストラデヴァリウスと言われているアントニオ・デ・トーレスの名を有名にした最初の演奏家がフランシスコ・タルレガであったでしょう。そして、後世に残る録音を残してAntonio de Torresの名を不滅にしたのはその弟子ミゲール・リョベートではないかと私は思っています。トーレスを手にすると、どうしてもタルレガの作品を弾きたくなります。トーレスの紡ぎ出す魔法の音はギター音楽のそしてギターの魅力の源泉です。
 ギターの為のセレナーデとなっていますが、タルレガの葬式にはこのCaprichio Arabeが吹奏楽で演奏され、町を練り歩いたのだそうです。
I.アルベニスAlbe´niz
サンブラZambra Granadina, Moderato
 私が生まれて始めて本当のギター音楽の演奏を目の前で弾かれるのを聴いて驚いたのがこの曲です。1960年の7月イタリアのシエナのキジ音楽院の教室の最初の日のマスタークラスの教室で演奏して聴かせて下さったのは、セゴビア先生の代教のアリリオ・ディアス先生でした。私が渡欧したこの年にはセゴビア先生はシエナへは来られませんでした。このアリリオ・ディアス(ベネズエラ1923~)はZambra Granadinaをハウザー1世で弾かれましたが、若い純真な私はクラシックギターをこんなに豊穣な葡萄酒の様に弾くのはクラシック音楽としては邪道だ、こんな風に弾いては不可ないのではないのだろうか???と大きな疑問を持たされました。今の私はあの様に弾く事が出来るギタリストは滅多に居ない、凄い才能だと思っています。アリリオ・ディアスはベネズエラでは英雄として祭り上げられて居ます。
セヴィーリャSevilla
 アルベニスのセヴィーリャは元はピアノ曲でありながら(ピアノの為のスペイン組曲の第3番)ギターをする人は誰でも何時かは弾いて見たくなるギターの名曲の一つです。第二次大戦後、日本でギターが流行り始めた頃、外国人(特に偉大なアンドレス・セゴビア)によってレコードに吹き込まれた名曲を日本人のギタリストがステージにのせて弾き始めた。今から思えば無謀な挑戦であった様にも見えるがその中にこのセヴィーリャも含まれていた。無謀さの第1は信頼出来る楽譜が無かった。第2は正しいステップを踏んだトレイニング法の下におけるテクニックが日本に導入されていなかった。第1の方は今でも中々入手困難である。第2は豊かな音楽性を育てるべくテクニックを習得(または教育)して行けば可能になって来ます。
(私の録音は「サウンド・オブ・ザ・ギター4」のトラック3に収録)
     
渡辺 潔氏による解説
フェルナンド・ソル(Fernando Sor)
1778年 2月13日スペイン・カタロニアの首都バルセロナで裕福な軍人の家系に生まれる。フェルナンド少年は父からギターを習い音楽学校にも通えたが、父の死により没落困窮に至る。しかし、音楽への想いは捨てがたく、モンセラート修道院に入いる。
1797年 バルセロナで初のオペラ作品「カリプソ島のテレマコ」の上演に成功する。
1808年 ナポレオン・ボナパルトがスペインに侵攻する。ソルは愛国者ではあったが、スペイン軍敗北後にはホセ・ボナパルトの統治下で政府管理職に就く。
1813年 フランス人追放運動により、親仏派と見なされフランス・パリに亡命。ディオニシオ・アグアドと出会い厚い友情からギター二重奏曲「二人の友」を作曲する。
1815年 イギリス・ロンドンに滞在し、オペラとバレー曲で有名作曲家となる。
1823年 ロシアを訪問し、ニコライ一世の戴冠式のためにバレー曲「エルキューレとオンファリア」の上演を成功させる。これ以降はパリ、ベルリン、ワルシャワ、モスクワ、ペテルブルクなど演奏活動を繰り広げた。
1827年 演奏活動から引退、パリに定住して多くのギター曲と教則本などを執筆。
1837年 娘(カロリーネ?)22歳?で死去。娘のためにミサ曲を作曲。

1839年 7月10日パリに没し、モンマルトル墓地に埋葬される。
 彼の生涯の詳細は判明していませんが、年表からは時代に翻弄された人生がうかがえます。少年期での家の没落、ようやく音楽家として世に出ることができたが動乱に巻き込まれた青年期。亡命生活と演奏旅行に明け暮れた中年期。50歳を過ぎる頃ようやくパリに落ち着き、波乱万丈の人生の果てに余韻を残すように珠玉のギター曲の数々を作曲した晩年。一人娘の名前は判明?していますが、妻に関してはパリ定住以前に亡くなったらしいこと以外は何も分かっていません。これらのことから、幼年期の裕福な落ち着いた家庭生活のようなものは、没落後に修道院に入って以降はなかったのでしょう。
モンセラート修道院はバルセロナ近郊のベネディクト派の聖地で、ヨーロッパ最古の少年合唱隊が今もグレゴリアンチャントの伝統を受け継いでいます。裏山にそそり立つ奇岩の断崖はガウディーのサグラ・ダファミリア教会のデザインに霊感を与えたと伝えられます。フェルナンド少年は、ギリシャのピタゴラス以来の古代旋法からグレゴリア聖歌やルネサンスの複旋律やバロックの通奏低音まで流れ下るヨーロッパ音楽の伝統の下で、厳格な音楽教育を受けたはずです。彼の作曲法は、バッハが「宇宙の絶対真理」を表現するために用いた通奏低音を主体とし、その上に旋律を載せていく技法であるといわれます。
簡潔に持続する低音の上を単純な旋律が流れ下り協和と不協和がリズミカルに表れる様は、淀みと渦が繰り返し現れる川の流れを思わせる美しさです。ソルの簡素なメロディーが美しく輝く秘密はどうやらその辺りにあるようです。モーツアルトやベートーヴェンと共通する、通奏低音から紡ぎだされる陰影の内面的美しさがそこにあります。練習曲op.31-19とop35-22は、いずれも「セゴビア編20の練習曲」に納められたポピュラーな名曲です。

中森良二氏による解説
スペイン民謡(Spanish Folk songs)
 星影さやかに、またたくみ空・・・
という歌いだしで始まる「追憶」というスペイン民謡は、50歳以上の方たちであれば、たぶん、みんな、中学校の音楽の時間に歌ったと思います。この曲の郷愁を誘う旋律は、今でも聴く人の心に“過ぎ去った日々の懐かしさと初恋の甘酸っぱさ”を与えてくれ、心をセピア色に染めてくれることでしょう。この曲はスペイン中部のセゴビア地方の民謡という説がありますが、詳しいことはわかっていないようです。(黒人霊歌の前歌との説を唱えている人もいます)しかし、旋律と歌詞(作詞:古関吉雄)の美しさを味わってみると、このような諸説はどうでもいいことと感じますね。
 「追憶」の例を挙げるまでも無く、ギターを弾く人はもとより弾かない人でも、スペイン各地の民謡を聴くと、その旋律の美しさに、何とも言えない懐かしさを感じることでしょう。今回のコンサートで弾かれる3つのスペイン民謡は、そのことを実証して余りありある美しさを湛えています。
 《聖母の御子 Lo Noi de la Mare》ポンセ=セゴビア編曲
まるで、母親の胎内にいるような安心感、そして、比類なき美しさが聴く人に安らぎを与えてくれます。一般的にはカタルーニャの最もよく知られたクリスマス・キャロルといわれていますが、編曲したポンセは、ガリシア民謡とし、リョベートも、カタルーニャ民謡集の中には含まれていないので、どうやら、このメロディーはガリシア地方のものらしいです。編曲はミゲル・リョベートではなく「ポンセ=セゴビア」です。

元歌(抜粋) かあさまの坊やに何を上げよう
何を上げよう、おいしいものを?
干しぶどうにイチジク、クルミにオリーブ
干しぶどうにイチジク、蜜に牛乳どうふ
 マリアの坊やに何を上げよう
        
空の天使たちの腕にあやされて
この世じゃ聞かない誉れの歌を
楽しい歌を聞かされながら
連れて来られたこの坊や

《プラニー(哀歌) Plany》ミゲル・リョベート編曲
松田さんが、NHK教育テレビの「ギターを弾こう」の講師をしていた時のテーマ音楽です。色々な人が講師として登場していましたが、松田さんは、この番組でギターの弾き方ではなく「真に音楽を教えていた」と見ていた人は感じたはずです。この曲の込められた悲しみは、元歌(抜粋)を御覧いただけると理解できると思います。

元歌(抜粋) カタルーニャも、かつての日々には独り立ちしていたものを
ほかでもない、自分自身の言葉で
自らの法を作り、行っていたものを!
泣け、泣け、カタルーニャ
もはやお前は独り立ちしていないのだ!
あまりにも年経た昔から
他国者(よそもの)がこの国を支配している
我々には無縁の言葉で
この国に害をなす法を作っている
泣け、泣け、カタルーニャ
いまだに身を屈したお前だからには!

《レオネーサ(レオンの唄)Leonesa》ミゲル・リョベート編曲
 ピアニストのLogeria Villarがピアノ曲として書いた曲をミゲール・リョベートがギターに編曲した物です。(濱田慈郎氏談)
※なお、元歌の訳詩は浜田滋郎さんによるものです。
プラテロと私より(Pratero y yo)M.C.Tedesco
ある雨の日の夕方、帰宅を急ぐ私の足元に迷子の犬がじゃれ付いてきました。いくら、「あっちに行け!」とばかり「しっしっ」と手を振っても、一向に立ち去る気配がありません。とうとう家までついてきてしまいました。そして、遂に、私の家の住人になりました。私が会社から帰ると、尻尾を振りながら飛びついてきます。しかし、その犬は、かなりの老犬で興奮のあまり引き付けを起こすことしばしば、出会ってから1年ほどで亡くなってしまいました。小川のほとりの木の下に野菊と共にそっと埋め、手を合わせました。そのときは涙がでてとまりませんでした。動物と人間とのふれあいには、様々な物語が生まれます。ノーベル文学賞を受けた詩人、フアン・ラモン・ヒメネスと愛するロバとの日常を綴った散文詩「プラテロと私」の138篇のうち、28篇にM.C.テデスコが曲をつけました。詩の朗読とギター音楽という新しい分野の誕生でした。スピーカーから聴こえてくる、松田さんと木村功さんの柔らかいコラボレーションに何度癒されたことでしょう。今回のコンサートでは、その中から2曲が選ばれ演奏されます。きっと、殺伐とした現代を生き抜く私たちの傷ついた心を癒してくれるはずです。

《つばめ(Golondrinas)》訳詩抜粋
 そうら、もうやってきたよ、プラテーロ
 モンテマヨールの聖母像の額に灰色の巣をかけている、すばしっこい、黒いちびっこ。
 いつでも大事にされているあの巣だよ。
でも、気の毒に、あの子はなんだかおどおどしている。
燕たちは、かわいそうに、
今回は、時を間違えたのではないだろうか?
・・・・・・・・
燕がおどおどしながら飛んでいる表情が演奏から伝わってきます。

《夕べの鐘(Angelus)》訳詩抜粋
 ごらん、プラテロ、バラの花だ。
 なんてたくさん、そこらじゅうに降っているのだろう。
 青いバラ、白いバラ、色の無いバラ・・・
 まるで空がこわれてバラの花になったように。
 ごらん、私のひたいも、肩も、両手も、もうバラでいっぱい・・・
 こんなたくさんのばらを、いったいどうしようかね?
 ・・・・・・・

まるで、バラが空から降ってくるような素晴らしいギター曲です。

(73回)グラン・ソロ(2012/6/4掲載)

フェルナンド・ソルOP.14、グラン・ソロはわたしが中学か高校生の頃に偶然楽譜が手に入ったので、ずっと手がけて来た曲目の一つです。
 当時楽譜は貴重品で、グラン・ソロの楽譜は神戸の三宮の古道具屋で買った。それは小倉俊さんが戦前に出版されていた海賊版で、ヨーロッパの出版社(一方はドイツのジムロック版で一方は忘れた)から別々に発行されていたものをソルの原曲とアグアドの編曲が左右のページに対比的に印刷されていた。
 わたしはこの曲はギターにとって大切な曲目で、ギター音楽の地位向上の為には宝物の様な存在だと感じていた。なにしろソナタ形式なのだからなどと思って。ギターでソナタが弾けると言うその事自体が大変な事なのだろうと音楽に未熟なわたしは感じ、考えました。それはセゴビアのグラン・ソロの録音が(日本で)発売される前の事でした。
 今から思うとギターの持ち方、右左の指使い、指の形など何も判らず、いわゆる手探り状態、文字通り暗中模索の時代でした。弦はガット弦の代用品=例えば人絹の釣り糸、お琴の糸などで、当時はクラシックギターの事をガットギターとも呼んでいた。
 それでも中途半端にクラシックギターを理解している先生が居なくて却って良かったのかも知れない。何故なら今なら、わたしが良く知っているヨーロッパの著名な先生方(実は私の同窓、同級)でわたしならギターを習う気がしない様な方々が中途半端な論理を生徒たちに教えている。その頃の未熟な私であればそれらの方々の判り易い理論に簡単に賛同してしまい、いっぱしのギタリストになって仕舞って居たでしょう。幸運にもわたしは偉大なアンドレス・セゴビアの薫陶を真直ぐに受ける事が出来た。
 グラン・ソロでセゴビア先生のレッスンを受けた時、わたしは小倉俊さんの海賊版を譜面台に乗せていた。先生はレッスンが終わるとわたしにその楽譜を貸して欲しいと言われた。アグアドが編曲した楽譜がよほど珍しかったのでしょうか?先生は何も言わずに2、3日でその楽譜を返して下さった。セゴビア先生との一挿話です。
 グラン・ソロが翌年のコンクールの課題曲になった。その他の課題曲はテデスコの「ソナタ、ボッケリーニ賛歌全楽章」ファリャの「ドビュッシー讃歌」等であった。セゴビア先生はわたくし如きを、大切に育てようとのご意思を本当に持って下さっていたのかと今頃になって気が付き、そう思うと感謝の気持ちが一杯になる。
 グラン・ソロにはセゴビア先生の改編が部分的にあります。アグアド程の大幅な改編ではないのですが相当思い切った改編ではありました。(コンクールの少し前(2、3ヶ月)にオスカー・ギリア(私共はティティーと呼んでいた)に請われ、その改編を教えてあげた。改編と言えば、セゴビア先生がわたしにソルのモ-ツアルトの主題と変奏の一部の改編(非常に美しい改編)を教えて下さった時、笑いながら、これをこう弾くときには批評家に気をつける様にと言われた。
 わたしがコンクールに出る事を知られたチェロの大家、カサド先生がわたしを励ます為に、レッスンをして上げるからと全曲を聴いて下さった。「さむらい、さむらい」と言って勇気を持ってコンクールに臨む様に言って下さった。セゴビア先生の改編の部分に付いては、「beautiful, beautiful」と感歎の言葉を発しられていた。但し絶対にセゴビア先生には自分が君を見て上げた事は言わない様にと、堅く秘密にする様にと気を使っておられた。
 わたしの演奏はAntonio de Torresによってコロンビアでの録音で「サウンド・オブ・ザ・ギター2」に収録されて居ます。

 

(74回)私の先生-アンドレス・セゴビア2012/9/27

  アンドレス・セゴビア二度目に来日された時、私は26才、先生は66才でした。今の私よりあの時のセゴビア先生の方が若かった。それから、先生が94才でなくなられる迄、約28年間先生の弟子にして頂いた。振り返ると私には百年にも感じられる永い年月でした。
  私が初めてセゴビア先生のレッスンを受けた1960年、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラのことを今思い出そます。日本からも数人ギターの先生、演奏家も来ていた。セゴビア先生のレッスンをまともに受ける事が出来たのは私の他にホセ・ルイス・ゴンザレス、ホセ・トマスなど数人で、他の人達は一カ月(一開催)の間に、一回しかレッスンをしてもらえなかった。私はと言えば、その1月の間に一日置きにセゴビア先生に指名され、私が持っていた約100曲のレパートリーの内半分以上を使い果たしてしまった。オスカー・ギリア(後のコンクールでは私と同位の3位入賞)はその夏はスペインに来ていなかった。
  セゴビア先生の最初のレッスンで先ず「アンドレス・セゴビアの様になる事は出来ない」と悟った。つまり、そのとき私の考えた事はあのような音楽を演奏するためにはどうしたらよいか。これは、真面目にギタリストになろうとしている音楽学生なら誰でも悩み考える事だろうが、私の結論は、簡単だった。「あのようにギターを弾くのには、全人格的にアンドレス・セゴビアにならねばならない。それは不可能だ。個性も違うし生まれた環境も違うし人種も違う。どだい、アンドレス・セゴビアのように成りたいと望む事は馬鹿げている。」と。
  では今の私はどうか。私の生徒は私のようになれる。私の音楽は努力で成し遂げたものだから。と思っていたがどうもそうでもなくて矢張りそれぞれの個性があり、受けた教育も生まれ育った環境も違う。でも夢を実現し花咲かせるには、努力していただくしかないのは事実である。
  日本でも何度も先生のレッスンを受ける事が出来、先生のお人柄を知れば知る程、芸術家として完成して行かれ(もともと完成して居られたように見えたが)、それが先生の音楽の魅力の基本になっていて、先生の音楽に反発する人が幾らかあるようだが、私にはその気持ちが理解出来ない。芸術家として完成するには人間として完成しなければならないと、私はセゴビア先生に学んだ事は本当に勉強になった。
  後年、日本でセゴビア先生のレッスンを受けている時、その情景をどうしても記念に残しておきたかった。それで先生に、”I will not show it in public” 公開しないからとお願いして写真を撮らせてもらった。先生は「公開しろ、公開しろ “show it in public, show it in public”」と公開する事を勧めて下さった。なぜ公開しないからとお願いしたかと言えば先生がパジャマ姿であったからだ。
  それにしても先生は私にとっては考えられない、理解出来ない(何故そこまでと言う)くらい親切にして下さった。先生のご推薦で先生のレッスンを受ける為始めてヨーロッパに行った時、私は、始めての海外旅行の事でもあり、先生のレッスンを受けるまではとにかく飛行機で、(知らない駅で列車に乗り、行き先確認など、神経をすり減らしてしまうから)とマドリッドから最終目的地のスペイン西北の都市サンティアゴ・デ・コンポステラ行きのローカル線に乗る為空港に行った。そこで、セゴビア先生の他、当時若手で17か18才のジョン・ウィリアムス、チェロの巨匠カサド先生とそのご夫人でピアニストの原智恵子さん等が同じ飛行機に乗るべく待っておられた。若いジョン・ウィリアムスが先にキャビンに乗り込み我々5人の席を取ってくれ、皆が並んで座った時の光景は、私はその時自分で想像して、雲の上の方々と雲の上に居る状態であり、文字どおり雲の上に居るような気持ちであった。
  その時セゴビア先生は私が自費で来たのかと原さんにお尋ねになり、私はそうだと答えると、智恵子さんに、考えられないと言われたらしい。つまり先生はアンドレス・セゴビアがヨーロッパに来るようにと大会衆の前で言われたのだから、何らかの資金援助が(例えばギター関係の協会などから)あったはずだとのお考えらしかった。
  その夏アンドレス・セゴビアの名の元に先生は私に奨学金をだして下さった。
  その年の夏期講習会が終わりに近づいた頃翌年の夏期講習会までヨーロッパの何処でどう過ごすか、身の振り方を、ジョン・ウィリアムスがわたしを連れて先生の所に行き私の代わりに相談してくれた。「おまえと一緒にロンドンに行け」の一言で私はロンドンでジョン・ウィリアムスに翌年の夏までギターを教えて貰う事になった。ジョン・ウィリアムスは私にFee(レッスン料)は要らないと言って呉れた。自分もセゴビア先生に謝礼を払わずにギターを習ったから、と。セゴビア先生はわたしの為にお金まで出して教えて下さっていたのだ。
  ジョン・ウィリアムスは事実を事実として的確に理解していて決して迷いがない。私はだから、アンドレス・セゴビアの弟子であって、セゴビア先生が便宜上私をジョン・ウィリアムスに預けておられたのかなあと、ジョン・ウィリアムスに習っておきながら彼の言葉の端端から察していた。つまり、ジョン・ウィリアムスはセゴビア先生に習った熱々のまま、加工せずにわたしに伝えてくれていたと感謝している。
  とりとめのない話になっているがセゴビア先生についてお話する事は無数に有る。今後、思い付く事をこのホームページ上にお伝えして行きたいと思っています。

(75回)ロコモト2012/11/17

 ロコモトとは機関車(locomotive)の事です。SLのことでしょうか。私がロコモトと言う言葉を知ったのはセゴビア先生が或る女性ギタリストの演奏を評する時に使われた言葉で、若いわたしの頭に強く焼き付けられました。当時の高名な或る女性ギタリストの事をどう思うか?と訊かれて『ロコモート!』と一言で片付けられたのが印象深かった。それは無表情と言う感じを一言で表現された発言でした。私の若い頃には蒸気機関車が現役で走っていましたし、シュッシュッポッポ、と言う野超え山越え、元気よく走る蒸気機関車は身近なものでした。機械的演奏はセゴビア先生の最も軽蔑されていた音楽演奏態度でした。
 セゴビアさんはご自分の受けた印象について、何時も同じ1つの反応をされる。第一印象が一生付いて廻る様です。わたしの場合はソルのロンドでした。レッスンで順番を待っているとソルのロンドの第1小節を弾かれる。僕は立ち上がって先生の前に座りその日のレッスンの曲を弾き始める。何故そう成ったのか判りませんが、多分僕が、始めの頃のレッスンで先生の前に出て必死でこの曲を弾いたのが面白かったのか、強く印象に残ったのか???まともに弾けないくせに必死で弾いた僕のソルを弾く姿が先生には面白かったのか、それとも遥々東洋から来た青年が西洋のクラシック音楽をまともに弾いたのが衝撃であったのかも知れない。
 わたしはギター音楽について絶対必要な条件とは演奏解釈が出来るかどうかです。ギター音楽の価値は演奏解釈をする事が出来る音楽であるかどうかです。
 また演奏において私以外の他の人(または若者達)の演奏を評価するとしましたら演奏解釈をしているかどうかが肝心な事です。そこに、初めて奏者のセンス、演奏態度、音楽哲学を伺い知る事が出来ます。
 何も考えたり感じたりしないで演奏している事(人)の空しさ。
 
いろんな所をロコモトが走り回っています。
 わたしは演奏解釈をする事が出来る楽譜を演奏して行こう、そう言う楽譜を探して弾いて行こうと若い頃から考えていました。そうでないと演奏する意味がゼロであると。

(76回)3ツの精神世界 2012/11/21

以下は習作途中の未完成の文章・・・
精神は3ツの世界に分けられる。

  1. 純粋知性、これは真理の領域。

  2. 趣味の世界、これは美の領域。

  3. 道徳の世界、これは義務の領域。

美は天上の美を至高の目的とする。
通俗的世界の美は肉欲、情熱等が先行し真の美には到達しない。
なお天国の美は知的なものの欠ける人たちが喜びを得るもので、それは道徳の世界には通用するが芸術(趣味の世界)における天上の美は関係しない。純粋の美は天上の美を至上目的とする。

(77回)アンコール 2012/11/21

 アメリカでのコンサート。数曲をグループにした曲の途中で大きな拍手を貰った事があります。わたしはその時その曲の演奏が自分でも満足の行くものだったので、もう一度聞きたいと言うはっきりとした聴衆の意思表示を感じました。それでその同じ曲をもう一度弾きました。弾き始めると大拍手で迎えられました。
 何曲かの纏まった曲(纏めて弾こうとしている曲目、組曲)の途中で拍手する事は常識では音楽を知らないと思われます。でも好い演奏であった時、会場全員の同意が期せずして同時に為され素直に拍手が起こる事も在るのでした。
 その当時わたしは何とも思わなかったのですがこれは可成り民度の高い聴衆だと思ってもよかったのでしょう。
 退屈しない演奏、もう一度聴きたい、つまり何度でも聴きたい、または演奏者から言えば何度弾いても飽きない演奏、音楽というものは価値の高いものです。
 たまには未だ曲が終わってないのに、もう一つ和音が鳴るまで待って下さいという時に拍手が起こる事も在ります。その時はもう一つ最後まで弾いてからお辞儀をしないと仕方がないですね。
 同じ曲を何度も、数回程度弾くと言う演奏会の試みもあって好いのでしょうか?わたし自身は全然何度弾いても飽きないのですから。(或る演奏家は最初の1回目の演奏から飽きてしまう事が在るようですがわたしには信じられません。)そして失礼ながら、1回聴いただけで一般の方にその音楽、作曲、作品、演奏、演奏解釈を評価出来るでしょうか。
 バッハ、ショパン、モーツアルト等の多くの作品は今日までこの世で何度演奏され続けて来た事でしょう。その為に聴衆はそれらの曲目を完全に理解し、演奏の良否が判断出来るのです。

 そこでわたしは出来る限りポンセ、テデスコのギター音楽としての名作を弾き続けるべきだとの信念を持って演奏活動をしている事をご理解頂きたいのです。彼はあの曲しか弾けない、と悪意を持って評される事も覚悟の上で 。

(第78回)柔道とJUDO2012/11/29掲載

オリンピックが終わった。数回前のオリンピックから日本の柔道がJUDOに負け始めた。
 わたしは柔道は絶対にJUDOに負けてはならないと思っている。柔道は美しい技の世界です。JUDOは勝てば好い世界です。人間の競い合うスポーツで美しくない物が美しい物に勝つのは人間が夢を失った事になります。
 さて柔道は偉大なアンドレス・セゴビアが教えたギターでありJUDOはセゴビア以後の多くのギタリストならぬギターひき達のするギター演奏です。セゴビア先生の弟子達、先生の後継者たるべき人達はJUDOをする人に成り下がってしまった。柔道セゴビアに習った弟子達がJUDOを教えているように見える。ヨーロッパに遊学した日本人のギターひき、日本人のギターの先生達はJUDOを習って来てJUDOを教えている。現今のギターのプロ(ギタリスト?)はJUDOを習って居て、その弟子達もJUDOに憧れてJUDOをしている様に見える。
 これは余談ですが、偉大なアンドレス・セゴビアのご子息(カルロス・アンドレス)はセゴビア先生と一緒に日本に来ていた。講道館に柔道を習いに行きたいとせがまれ、わたしは彼を連れて講道館に行き、上手く伝手(つて)を求めて入門させた。その時彼は足をくじいて講道館の近くの接骨医に連れて行き治療を受けた。帝国ホテルに帰って来て玄関脇の電話でセゴビア先生に報告する時の辛かった事。セゴビア先生はわたしに対して何のお咎めも無く、平然とこの事故を見過ごして下さった。
 本題に戻ります。このまま行くとギター音楽はJUDOになります(世界中)。美を求めないで、テクニック主義に陥りつつあります。芸術の世界から技術の世界に堕落して行きつつあります。軽業を楽しんでいるのではないかとも見えます。
 ギターの魅力は何か。本来の姿は何所にあるのか。それは天性の歌を唄う心が、美しい音で奏でる「妙なる楽の音」を知った人の「妙なる楽の音」への熱烈な憧れに触発されたパッションが奏でるこの世の物ならぬ美の世界である。ギターが奏でられる音楽会は美しい音で満たされているべきです。
 ギターにしか出来ない真の音楽。他の如何なる楽器にも真似る事が出来ない単独の楽器による音楽、それを実現、実演するのがギタリストの理想の姿であり大切な義務です。
 思い出して頂きたい。オリンピックでフランスに負けた篠原さんを。あれは柔道がJUDOに負けた象徴的な出来事でした。審判がJUDOで育った方であったから仕方が在りません。それでも日本柔道は柔道を守って今回のオリンピックに出場しました。皆で日本柔道を応援したのでしょうが結果は惨敗でしたね。
 判り易い結論をお示しします。「ギター音楽演奏のルールを変えようとしている勢力があり、そのルールで戦え、戦いましょう、と言うギター音楽への規制を持ち出そうとしている勢力の存在です。我々が為すべき事はそれを正しく認識して反発し、ギター音楽演奏のルールを正しくもとに戻す事です。」
 その動きはあたかも柔道がJUDOに負け始め、柔道の精神を捨ててでもオリンピックに柔道を出したいがために柔道の精神を捨てた講道館の責任であったのではないでしょうか???????
 (著者註=2014北京オリンピック直後に)

 

(第79回)セゴビアコンクールでの出来亊(2012/12/8掲載)

 セゴビア先生が亡くなられた翌々年、セゴビアコンクールがマドリッドの近郊、エル・エスコリアルで開催された。
 審査員は宿舎のレストランで食事が支給された。コンクールの審査員は全員1つのテーブルで食事をする事になっていた(らしい)。イェペスさんも審査員の一員。
 わたしは審査員達と話が合わない(それにわたしは英語の方が話し易かった)ので、一寸話の合いそうなイギリスから来ておられた科学者らしい人(数学者?)と(に)音楽の話をしていた。彼はわたしの説明に興味を示し話が佳境に入って来た頃、審査員長のXXXXさん(官僚)がのこのことやって来て、審査員は全員同じ席で食事をしなさい、とイギリスの学者と(楽しそうに)話し込むのを中止させられた。
 わたしが説明しようとしていた興味深い音楽の話とは次の様な事でした。このイギリス人には理解出来たかどうか判らなかったが、イギリス人は音楽が判らないとよく言われているので、わたしは退屈だったし、暇だったものだから実験的に話(説明又は解説)をし始めたものです。
 楽曲の中に2つの音が在って、その2つの音がグループを形成している時、その2つの音をA,Bとする。演奏者はその2つの音をグループとして感じさせる為にはBをAより少し小さめに弾く。
 その様な2つの音のグループが連続して曲の中に出て来た時、1つ目のグループ1のBは2つ目のグループ2のAに対して出来る限りレガートで移って行く。グループ内部のAとBはレガートである必要は無い。ここで審査員長の官僚(音楽学者)さんの中断がはいって私の英国の数学者さんへの講義はお終いになった。そして何故かその数学者さんの名前も聴かずに終わってしまった。(註、松田晃演=熱心な学生には大切な事ですのでご参考までに載せました。この様な話は沢山書いております)

 

(第80回)孔子さんと周公(2012/12/10掲載)

 孔子は時々周公の夢を見ていたらしい。周公は孔子に先立つ事数百年の中国の歴史的に偉大な国の王であった。孔子は紀元前500年の方でその孔子が夢に見るくらい周公に私淑しておられたらしい。それで、最近周公の夢を見なくなったと晩年には嘆いて居る。
 わたしがその話を読んでハッとしたのは、実はわたしも最近セゴビア先生の夢を見なくなっている。昔はよくセゴビア先生の夢を見たものです。嘆かなければ成らない。
 偉大なアンドレス・セゴビアの夢と言えばやはり自分の演奏会にセゴビア先生が来ておられる夢です。こんなに恐ろしい事があるでしょうか。わたしは夢の中で震え上がっていた。幸い何時も開演までに夢は醒めたのだが。
 余談であるが、わたしはセゴビア先生にわたし自身の演奏によるCDなど聴いてもらった事はない。勿論ジョン・ウィリアムスにもです。